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 私は、幼馴染だったその女の子が好きだった。

 今思い返すと、それは異性に抱いた初めての恋心、とやらだったのかもしれない。高校生になって経験した心高まる熱く激しい恋とは少し違っていたが、私はいつでも暖かい瞳で【彼女】を見守っていたのだ。


「※※※君」


 蕾のような唇が、そうやって私の名を呼ぶたびに、私も彼女の名を呼び返していた。



 けれど何故か、今、その名が思い出せないでいるのだ。

 歳のせいだろうか。それとも、数十年の年月が過ぎたせいか……?



「全く、君は本当に怖がりだね。霊感をチェックするゲームだなんて、ただの心理ゲームみたいなものだろう」


 よく一緒に遊んでいたはずの、気難しい言葉をよく喋る幼馴染の男友達の名すらも思い出せないでいた。あの日、彼は顰め面でそう言って、私の後ろに隠れていた彼女を見やったのだ。


 彼女が「だって」と渋るように呟くと、それを聞いた途端に彼が「やれやれ」と言って頭をかいた。それは少し感情表現が苦手な彼の癖で、困ってしまった時は、そうやって何食わぬ顔で突然私に話を振ってきた。


「おい、※※※君。彼女は、先に帰してしまった方が良いのではないだろうか?」


 彼なりに、怖がる彼女を気遣った提案だった。

 何せ、その霊感テストをやってみようと言い出したのは隼巳だ。彼が「やろう」と言った事は、余程のことがない限りは決行される。だからやりたくないのなら、今ここで帰してしまうのが一番の解決策だった。隼巳はいつでも、友人と一緒になんでもやりたがったから。



「嫌よ。※※※君と一緒がいい」



 スカートをぎゅっと握った彼女が、私の後ろからそう言い返した。その声は震えていたが、彼女なりに一生懸命主張するような強さがあった。


 それを聞いた彼が、小さく降参のポーズを取った。気持ちを尊重するように無理には説得を続けず、「なら仕方ないね」と言って、やんわりとした視線を私の後ろに投げて寄こす。


「※※※君の右隣は、もう僕だと決まっているのだから、君はその左隣で文句はないだろうね? 僕だって正直乗り気ではないのだが、※※※君は断われない性質たちだから、怖がりな彼に付き合ってやろうと思ってね」

「ええ、それで構わないわ。だって皆で円を作って手を繋ぐんでしょう? それだったら、きっと怖くないと思うもの」

「怖くない、ね。それはどうかな。皆でいるからといっても、自身が感じる怖さが軽減するかどうかはまた別の話だよ。わざとらしいくらい色々と約束事が付けられている『心理ゲーム』みたいだからね」


 彼はそう言って、怪訝そうに鼻を鳴らした。


 しばらくすると、集まる約束をしていた午後五時の鐘が公園まで聞こえてきた。


 ちょうど私は中央のブランコに座っていて、彼女がその左隣でブランコを漕ぎ、彼が私の右隣のブランコに腰かけて本を読んでいた。公園の出入り口を確認してみたものの、隼巳と天然パーマの男の子、そして眼鏡をかけた小さい男の子はまだ来ない。


 実は来ないんじゃないかという心配はなかった。いつだって彼らは、少し遅れてやってくるのだ。だからいつも私達は、待つかたわら三人で過ごしている事も多かった。


 午後五時の鐘が鳴り止むと、彼が本から目を上げて「陽が傾いてきたね」と言った。ぼんやりと空を見上げていた私は、雲の形を動物に見立てながら「うん」と曖昧な返事をし、ブランコに飽きた彼女が「まだ明るいわよ」と答えながら木の棒で砂地に線を引く。


「しっかし、隼巳君は何が楽しくてあのゲームをしたがるのだろうか。僕にはまるで理解し難い」

「うーん、多分、君が本を読むことと同じじゃないのかなぁ……」

「おい、※※※君。自分が活字が駄目だからと言って、僕と隼巳君を同枠でくくらないでくれよ。そもそも彼が興味を持ったその『お遊び』とやらは、オカルト紛いのモノじゃないか。僕はね、こっくりさんだとか肝試しといったことは、大嫌いなんだ」


 彼が、珍しくハッキリと拒絶を口にした。その嫌そうな表情を見て、私は「なるほど」と相槌を打った。


「そういえば、※※※※君はそういうモノを信じないよね」

「君だってそうだろう」

「うん。多分俺はね、それが本当に起こるとしたら怖いから、信じたくないんだよ」


 私はちょっと白状するように、小さく苦笑を浮かべてそう答え返した。すると彼が、しばし考えるような間を置いてから、こう言ってきた。


「隼巳君のいう『霊感テスト』とやらは、恐怖心を煽るキーワードやら暗示のようなルールが並べ立てられていて、だからますます嫌なんだ。僕は、とても警戒してしまう」

「※※※※君が言うことって、難しくてあまり分からない時があるよ」


 一体どういう事なのかと尋ねると、彼は「うむ」と頷いて再び口を開いた。ブランコのすぐ下にしゃがみ込んでいる彼女が、指先の砂を払って私達の会話を見守っていた。


「隼巳君から話を聞かされた時、怖がりでなくても恐怖心を持つよう仕組まれているように感じた。簡単ではあるけれど、やけに具体的なルールがまたリアルさをうむ」

「入りますっていう意味で『必ず』玄関をノックして、入ったら『必ず』時計回りで進みなさい、っていう決まりのことかしら?」

「そうだ。それでいて確実に作り話であるのかどうかも分からないから、僕らは『約束事を守らなければ、恐ろしいことが起こる』とも感じてしまうわけだろう?」


 ホラー定番のお決まりみたいなものだ。だからますます好奇心が煽られて、やらない方がいいというのなら、やってみたいと怖いもの見たさが出てきたりもする。


「恐怖を覚えるように仕組まれているんだよ。その【家】の設定にしたって、同じ窓を持った廊下しかないだなんて、普通の家だったら有り得ないだろう?」


 そう促されて、私は「まぁそうだね」と答えた。それを聞いた彼は、共感を得て少し満足したような声で「そうだろう」と言った。


「違和感を覚える構造だと、話の雰囲気もあって印象に残りやすいんだ。『他に部屋が見えても絶対に寄り道しない』とかいう注意事項なんて、まるでそうなるよう仕掛ける暗示みたいだ。僕はね、そういった(たぐい)のモノも嫌いだ」


 私と彼女は、宙を睨みつけつつ話す彼のそばで、思わずこっそりお互いの顔を見合ってしまっていた。ただの小学生である私達には、やはり彼の言う言葉は少々難し過ぎた。


「隼巳君は、もう少し考えて行動した方がいいと思う。幽霊を信じない僕だって、こっくりさんは警戒してる。――何故ならこの世には、僕達の知らない恐怖だって少なからずあるだろうからね」


 それきり、彼は考え込むように黙り込んでしまった。


 私は、賢い彼が「この世には自分たちの知らないような恐怖がある」と告げた事で、本当にそんなことがあるのではないかと思って、なんだかじわじわと怖くなってきた。


             ※※※


 タクシーの車窓から流れる田舎の風景を眺めながら、私はしばしそんな事もあったなと過去を思い返していた。それは、隣にいるミサナが口を開いたことで終了となった。


「必ず玄関をノックして入り、最後はその玄関から外に出る。そうしないと、恐ろしいことが起こる……――うーん、怪談話と分かっていても、なんだか怖いですねぇ」


 ミサナは、タクシーの後部座席に腰かけてからスマートフォンを操作し続けていた。霊感をチェック出来るという例のゲームについて、他に何か噂話はないかと調べているのだ。


「玄関の戸を叩くのは、『家の主に失礼にならないため』とありますけど、まるでそこにナニかが住んでいるという怖い想像をかきたて、余計に怖さが増しますね」

「そんなことも書いてあるのか?」

「『霊感があるか手っ取り早く分かる方法』ってことで、今の学生さん達にもまぁまぁ人気があるみたいです。やっぱり、肝試し的な怖いモノ知りたさなんですかね?」


 その間にもタクシーは、見慣れない殺風景な町を進み続けていた。交通量は少なく、時々信号に引っ掛かるものの、車はスムーズに進んでいる。



「あんまり、遊び半分でそういうのに足を突っ込まない方がいいよ、お客さん」



 突然、運転手が口を聞いて、私とミサナはビクリとしてしまった。

 目を向けてみると、運転席に座っている初老の男が、垂れた小さな瞳を重たげに持ち上げて、サイドミラー越しに目を合わせてきた。


「俺もね、オカルトやら心霊やらはよく分からないけど、『よく分からないこと』だからこそ迂闊に手を出すのはやめた方がいい。日本のホラー映画、見たことあるだろう? あんな風になっちまったら、たまらないよ」

「おじさんの言い分だと、信じているようにも聞こえるわ」


 ミサナが、隼巳譲りの好奇心が覗く目を向けてそう言った。すると老人は、肉付きの悪い肩を竦めて「どちらでもないさ」と言ってきた。


「けど不審死なんかあるとさ、そうなのかなぁとか思っちまう程度には警戒するよ。テレビでもよく、そういう科学では証明が出来ないやつとかやっているだろ? 陰陽師とか坊さんとか霊媒師がいるのを考えると、やっぱりそういうのもあるんじゃないかなと信じちまいそうになるし、それにほら、こんな言葉があるだろう」


 語れぬモノについては、口を閉ざさなければならない。


 そう言葉を続けて、初老の男がニタリと目を細めた。

 私は、笑えない冗談だと思った。



 それからタクシーは、畑や荒れ地の間にぽつりぽつりと家があるだけの寂れた場所に入った。


 しばらくすると人の気配もなくなって、更に奥へと進んだ先で停まった。そこには、両側を高い木々に覆われた一本の古い道路の入り口があった。



 どうやら樹林へと入るこの先からが、『柏沼津』だという。料金を払ってタクシーを見送った後、ミサナが道の奥に向かって歩き出した。


 近くを見渡す限り、鬱蒼と茂る森で道路の脇には落ち葉が溜まっていた。私達以外に人の気配はない。


 ふと、カラスが警戒するような声を発して、空を横切って行った。私は幼かったあの日、公園から解散することになった時も、それが遠くから聞こえていたことを思い出した。


 幼い彼女の白い項は、今にも折れてしまいそうなほど細かったのを覚えている。

 あの白いワンピースからは、小さな背中と鎖骨が覗いていた。いつも私のシャツを掴んでいた手は小さくて、遠慮がちにそっと掴む様子は心細そうだった。


「なんだか緊張しますね。父さんの故郷に来たのは初めてです」


 ミサナは、印刷してきた持参の地図を見ながら、恐る恐るといった様子で辺りを見回しながら足を進めてそう口にする。


 ぼんやりとその言葉を聞いていた私は、ふと遅れて違和感を覚えた。


 ここが、彼の故郷?

 彼女は、一体何を言っているのだろう。


 だって隼巳の故郷であるというのなら、私の故郷であるということになってしまう。けれどここには見慣れた川もなければ、橋もなく、先程通ってきた町だって、古い時代の信号機が二、三個並んだ幅の狭い道路が細く続いていただけだ。


 私の故郷に、このようなひどい湿気を含んだ、生温い空気が満ちた鬱蒼とした樹林は存在していなかった。私にとって、ここに見覚えのある風景は一つだってない。


「隼巳の産まれは、ここなのか……?」


 私が訝って尋ねると、彼女が困惑した顔でこちらを振り返ってきた。


「故郷だから土地勘はあると言っていましたし、だからそれもあって付き合ってくれることにしたんじゃなかったんですか?」


 そう訊き返された。一体どうしてそんなことを訊くのだろう、と彼女の目は語っていて、その問いかけてくる声がどこか遠くになった。


 ショルダーバックを肩に掛けた彼女の背は、ぴんと伸びていて、白い項には傾いた日差しが当たっていた。ミサナがきょとんとして、続けてこう尋ねてくる。


「イナハタさん? 大丈夫ですか?」


 彼女は、なんでもないことだとでも言うように、少女みたいな表情で小首を傾げた。私はその様子に、どこか情報が不一致するような違和感を覚えた。

 

 ひどく現実感がない。

 まるで、フィルター越しの映像のようだと思えた。


 その時、子供の笑い声が私の耳に入った。


 振り返りざま、視界の端に麦わら帽子を深くかぶった男の子が映った。あ、と思った時には、私はその子とぶつかってしまっていた。


 危うく転倒しかけた私の前で立ち止まって、その子供が麦わら帽子から小さな顎と口許を覗かせて、悪びれもなく「ごめんよ」と言って見上げてきた。それを正面から目に留めた私は、彼を幼い日に見たことがあるような気がして、途端に落ち着かなくなった。


 確か、霊感テストをやろうよと、そう声を掛けてきた子供がいたのだ。


 隼巳が自分で仕入れた話ではない。そもそも彼に、その話を持ちかけた別の子供がいたのだ。そう思い出しかけた私の目の前で、麦わら帽子で目元が隠れているその子供が、不意ににたりとした大きな笑みを浮かべた。


「ねぇ、おじさん。荷物をどうしたんだい?」


 まるで悪戯を楽しむかのように、ニタニタとそう問われた。


「荷物……?」


 私は数秒遅れて、自分が腕時計以外、背広の一つさえ持っていないことに気付いた。少し皺の入った白いシャツに、スラックスのズボン。ポケットには財布も鍵も入っていない。乗り継いでの出先だというのに、荷物を何も持っていないなんておかしな話だ。


 新幹線に乗り、タクシーに揺られ……と、出来事を順序立てて思い返した。けれど私は、時間ごとに出来事を並べられないと気付いて、不意に自分の記憶に疑いを覚えた。


 順を追ってココまで来た、という実感が込み上げないでいる。まるでそんな事など経験していないかのように、それらの出来事がうまく記憶に結びつかず、体験したという感覚として身体や脳に残されていない気がした。


 そもそも、私は学校の教師などしていただろうか?


 何故なら私は、大学へは行かなかったのではなかったか。


 受験については一時考えていたものの、高校を卒業する前に夢中になるくらいの恋をして子供が出来た。そのまま卒業後に籍を入れて、妻と子のため就職したのではなかっただろうか。私は昔から人見知りとは無縁だったから、勤めた営業仕事が性に合っていて――


 何か、要の部分を履き間違えて思案しているような違和感。


 その正体の一つが、ふっと解けたてストンと胸に落ちた。人見知りだったのは私ではない、別の子であった、と。


 次第に頭の中の霞が解けていくのを感じながら、私はぼんやりと視線を移動させた。


 向けた視線の先には、今日出会ったばかりの『知らぬ女』が立っていた。だらりと両腕を降ろし、長い年月を経たように髪はごわごわと痛んで顔のほとんどを覆っている。


 そこから、色の悪い唇が覗いた。大きくいびつに笑うように口が開いて、



「――コンコン」



 笑んだ女の口から、聞き覚えのあるノック音がした。


 耳元で、何者かの低い囁きがぼそぼそと私の名を呼ぶのが聞こえた。シャツの裾を遠慮がちに、つん、と引かれて振り返った私の視界は真っ黒に染まった。

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