001 目覚め。
ハムレットは言った。
「生きるか、死ぬか。それが問題だ。」と。
でも、僕にはわからない。何が問題なのか。
結局、僕が生きていても死んでいても、この世界は何も変わらない。
どっちにしろ、朝は必ずやってくる。
電車は絶え間なく動き続けるし、人は群れを成して会社に、学校に向かう。時間になれば授業は始まるし、時間になれば終わる。帰りのHRが長い担任はいつまでも話が長いままだろうし、さよなら、と声をかけてくれたあの子も、一緒に帰っている友達も、変わりなく家に帰る。
そうして、朝が来ればまた人は役割を果たしに社会に出ていく。
僕が居ても居なくても、皆やることは変わらない。
――全ては、過ぎていく。
それが、世界の秩序だ。
「やあ、おはよう。やっと目を覚ましたね。」
僕は、目を開けた。
目の前の椅子に座っていたのは、少女だった。
金髪の長い髪、整った顔。真っ白な肌。薄く柔らかそうな生地で出来た服は、少女の胸元を隠す気がないほど大きく開いていて、谷間が見えている。ギリシャ神話に出てくる女神のようだな、と僕は思った。
「おい、起きているのか?おーい。」
少女は少し前のめりになって、僕の顔を覗き込んだ。僕は、大きなブルーの瞳がこっちをじっと見ているのに気付いて、返事をしなければならない事に気付いた。
「お、おはよう・・・。」
綺麗な日本語を話す外国人だな。
少女の日本語は、外国訛りが全くなかった。見た目はどう見ても外国人だが、日本で育ったのだろうか。
「少し、ぼーっとしているみたいだね。まあ、仕方ないか。」
確かに僕は、少しふわふわしていた。頭の中に靄がかかって、一面白くて何もわからないようなそんな感じだった。ただ、ここに少女が居て、僕を見ている事はわかる。
「君は、長い夢を見ていたんだよ。今やっと目覚めた。」
「夢・・・?」
「ああ。そうさ。長い、長い夢だ。」
夢を見ていた、という事は、眠っていたということか。そんなに長い間、眠っていたなんて記憶にない。
「君は?」
「ああ、自己紹介が遅れたね。僕は神様。君をここへ呼んだのは僕だよ。」
少女は幼さの残る声で自分のことを、僕、と呼んだ。しゃべり方と外見が一致しない少女だ。
「神・・・さま?」
そのワードに、何か感じたのか急速に僕の脳の中から薄く白いカーテンのような靄が、端にさーっと引いていく。頭の中には、沢山のクエッションマークが落ちていた。
「ちょっとまって、ここはどこ?」
見回せば、あたりは暗く何もない。僕は少女と向かい合わせで椅子に座っていて、上から伸びた細い光がまるでスポットライトのように僕達を照らしている。
劇場?
これは、何かの芝居?
でも、なんで?なんで、僕はこんなところにいるんだ?
僕の動揺をよそに、少女は話し出す。
「ここはね、現世と幽世の狭間。光と闇の共存する世界。まあ、簡単に言うと、死後の世界と言ったところかな。」
「し・・・ご?」
「死後の世界というのは、死んだ魂がくる世界、という意味さ。」
いや、そんな事はわかっている。聞きたいのはそこではない。
「死んだ魂って・・・」
「ああ、それか。君はその時の記憶がないんだったね。君はね、死んだんだよ。」
「死んだ?」
「納得できないのも無理はない。覚えていないのだからね。」
「なんで・・死んだんですか?」
「それはね・・・言えないんだ。プライバシーだからね。」
至極真面目に、少女はそう言った。
プライバシーって・・・、僕の事を僕が聞くのはいいんじゃないだろうか?
「僕の、死んだ理由ですよ?」
「ああそうだよ。」
「僕が聞く分にはいいと思うんですが・・・」
「君、プライバシーというのは、そんな風にぞんざいに扱ってはいけないよ。例え君自身の死因であったとしても、過去の君の事であって、今の君の事ではない。過去の君の事を、今の君が覚えているならそれは君の記憶だし、今の君のプライバシーと言えるだろう。しかし、過去の事を覚えていないのだろう?なら、それは過去の君のプライバシーつまり、個人情報だ。君が君自身の力で思い出す分には構わないが、僕が過去の君の個人情報を漏洩する訳にはいかないのさ。これでも僕は、神様だからね。」
頭の中の靄がどこかに行ったと思っていたのに、今度は思考の迷子になってしまった。無理矢理思考の迷路に放り込まれた、という方が正しいのだろうか。
過去の自分とか、今の自分とか・・・。どの時点で僕は二つに分離してしまったのだろう。
「つまり、僕の口からは教えられないって事だね。」
「はあ・・・」
結局、自分が死んでしまったことも、過去の自分に対するプライバシーも納得することはできなかった。ただ、そうなのだなという事を飲み込むので精いっぱいだった。
「自分が死んだっていうのに、君は驚かないんだね。」
「え、いや、驚いていますよ。でも・・・」
「信用できないってわけだね。」
僕は、頷いた。
二、三歩ほどの距離をあけて、向かい合って座る金髪の僕っ子少女が「あなたは死にました。」と言うのを鵜呑みにしろと言うのはさすがに無理がある。何かの夢なら、納得できるけど。
――そういえば、さっき夢って――。
「夢・・・」
僕は無意識に、呟いた。
「思い出したかい?」
そういえば、夢を――見ていたような気がする。
微かに、本当に薄らと思い出せるのは――青い空と白い雲。
――どこかのビルの屋上の風景。
――僕を見つめる――黒猫。
なんだろう。どれも、見た事ある気がする。
一瞬浮かんだその映像は、思い出そうとすればするほど逃げるように消えて行った。
「今、僕・・・」
「言わなくてもいい。それは君の記憶。死ぬ前の大事な記憶だ。今の君には自分の記憶と呼べるものはそれしかない。大事にしてくれ。」
「え、それしかないって・・」
どういう意味ですか、と聞く前に、神様が言っている意味が理解できた。確かに僕は僕が何者なのか、知らない。名前も思い出せないし、年齢も、家族も、住んでいる場所だって何一つ思い出せない。
僕は慌てて自分の情報収集をした。自分を自分の手で触ってみる。顔、髪、体・・・。
べたべたと触って分かった事は、一般的な体系をした、男子学生であるという事。何故、男子学生かと言うと、ブレザーを着ていてスラックスを履いていたからだ。ブレザーを着ているという事は、高校生だろうか?髪は手で触っただけではよく解らないが、短めにカットされている。
「君は死んでしまって、長い事現世を彷徨っていたんだ。自分の記憶を忘れてしまうほど、長くね。」
「僕、幽霊ってことですか?」
「ああ、まあそういう事だね。君は今魂だけの状態だからね。魂だけで現世に長くいるとね、思いだけが増していって、やがて自分を失い魔物になってしまうんだ。君はね、魔物になる寸前だったんだよ。」
「え、魔物?」
「そうさ。人を食らう、魔物だよ。彼らは人の幸福を食べるんだ。世界の全てが自分と同じ不幸で満たされないと気が済まない連中さ。君は、その恐ろしい魔物になりかけていた。だけどね、安心してくれたまえよ。僕が、助けて悪いものは全て払ってあげたからね。今の君はただの魂だ。」
ただの魂と言われても、全然ピンとこない。魔物になりかけてたって話も、何も思い出せないせいか、自分の話とは思えなかった。僕は返事に困った挙句、そうなんですね、と心ここに非ずな返事をした。
「なんだい、君は自分の身に起こっている事の重大性が理解できていないようだね。まあいい。話を進めよう。君を助けたのには訳があるんだ。」
そう言うと、神様は横を向いて、ミヤコっと呼んだ。
「はい。」
闇から音もなく姿を現したのは、黒髪ロングをツインテールに結んでゴスロリ服に身を包んだ少女だった。
僕の心臓は彼女を見た瞬間、驚いたのか強く波打った。
ゴスロリ少女はすっと神様の斜め後ろに立った。凛とした顔立ち。大きくて少し切れ長な目。艶のある長い黒髪。白い肌。まるで人形が動いているようだ。
――綺麗だな。
たぶん僕は、他人が解るくらい見とれていたのだろう。神様に
「ミヤコは、可愛いだろ?」
と、ニヤニヤしながら質問されてやっと我に返った。何と答えていいか分からず、目線を泳がせる事しかできなかった。
「君、ミヤコと一緒に違う世界に行ってみる気はないかい?」
「違う世界?」
唐突な質問に、思考が付いて行かない。違う世界って何の話だ。
「君がいた現世とは違う世界、君たちが言う異世界ってやつさ。」
「はあ、異世界。」
「そこに君は、今の君そのままで生まれ変わる。最近現世の書物で流行している、異世界転生ってやつだよ!どうだい?行ってみないかい?」
「・・・はあ。」
現世の書物で流行っているとか言われても、僕には現世の記憶がない。
「ああ、そうか君には記憶がないんだったね。現世の記憶がないっていうのはこういう時に不便だな。つまりは、君の能力を持ったまま、別の世界に生まれ変わる事を異世界転生と現世の書物では言うのだよ。」
「現世の書物って・・・」
「僕は言葉に精通した神だからね。言葉が書いてある書物は何でも読むよ。雑誌も、新聞も、小説も、漫画もね。現世の言葉を知っておくのは僕の仕事の一つなんだよ。」
「言葉を?」
「僕は言葉を司る神だからね。」
「言葉にも神様っているんですね・・・。」
「君。君は記憶がないから知らないのか?それとも元々、僕の事を知らないのか?まあどちらでも言いけれどね。『神』は色んな所に存在しているよ。君が気が付いていないだけでね。
「そうなんですか。」
「・・・まあいい。それで?行くのかい?行かないのかい?」
「え、待って。そんな急に決められません。だいたい、僕はその世界に行って何をしたらいいんですか?」
「魔物退治さ。」
「え・・・。」
魔物。それって、さっき神様が話してたやつだよな――。
何故かはわからないけど、背筋がぶるっと震えた。
「そう、君がなりかけていた、魔物さ。魔物が増加している世界に行って魔物を退治してほしい。」
「それって、危ないんじゃ・・・。」
「ああ。魔物は魂を食らう存在だからね。危険もある。だから、ミヤコと一緒に行くんだよ。ミヤコはね、こう見えて強いんだ。彼女と一緒なら心配はいらない。」
「魔物退治って、でも僕、そんな事出来る気が・・・」
出来る気がしない。そう言いかけて僕はミヤコの視線に気が付いた。ミヤコは、じっと僕を見ていた。黒い瞳は周りの闇をそのまま閉じ込めたような漆黒で、見ていると吸い込まれそうになる。
「行こう。」
ミヤコは真っ直ぐ僕の目を見て言った。
「一緒に、行こう。」
凛とした顔立ち。大きくて少し切れ長な目。艶のある長い黒髪。白い肌。
人形のようなその少女は、綺麗な声でそう言った。まるで鈴の鳴るような響きの声。
――何処かで聞いたことのある声だ。
どこで聞いたのだろう。すごく懐かしいような、切ないような、不思議な感覚になって僕はその記憶を探りながら気が付いたら
「はい。」
と言ってしまっていた。
言ってから、はっとする。無意識で返事をしていい事じゃない事くらいは、僕でもわかった。
「君なら、了承してくれると思っていたよ。よかった。」
神様は、じゃあさっそく転生させるから。と言って呪文のようなものを唱え始めた。僕は神様がなんて言っているのかさっぱりわからなかったけど、そんな事はどうでもよく、この無理矢理な展開に待ったをかけるのに必死だった。
「まって、ちょっと待って!」
床に光の線が、
しゅっ
しゅっ
っと魔法のように引かれて、僕の周りにはあっという間に五芒星が出来上がった。
ちょっと待ってくれ!僕は詳しい話も何も聞いていないし、だいたい魔物退治って僕に何のメリットがあるんだよ!言いたい事は沢山あった。
僕は神様を止めようと椅子を立って五芒星の枠から出ようとした時、ミヤコがこちらに歩いてきた。僕の隣に立ち、外に出ようとする僕の手をぎゅっと、握った。
僕は、その瞬間パニックになった。神様を止めないといけないのに、ミヤコの手の感触が僕の脳内を支配して、何も考えられなくなった。彼女の手は、柔らかくて、暖かかった。人の体温に、ほっとしてしまった自分に余計動揺した。今は、ほっとしている場合ではない。
「・・・時超えし、魂に、我が守護を授けん。」
神様が呪文を唱え終わると、目の前に光の壁が表れた。どうやら床に描かれた五芒星の放つ細い光が、光の壁を作っているようだった。
僕は慌てて、光の外に出ようと手を伸ばした。
けど、もうそれは手遅れだった。僕の手は、光の壁に弾かれて神様には届かなかった。
「安心してくれていい。僕の手助けをしてくれるんだ。ちゃんと君にも能力を付けておいたから。そう簡単には死なないはずさ。」
「の、能力って!そうじゃなくて。さっきの返事は・・・!」
「言葉は、口にするだけで現実になる力をもっている。一度口にしたら、取消はできないよ。」
「間違えただけで、今のは・・」
「取消は、できないよ。」
神様と話をしている間も、光は強くなり最後には壁の向こうが見えなくなった。
「君・・・ミヤコを頼んだよ。」
神様の声が聞こえたが、返事はできなかった。五芒星の中が激しく発光し、閃光弾が破裂したみたいな光が僕の視界を奪い去った。
「うあああ!」
僕は、あまりの眩しさに顔を覆い隠した。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
自分の事を全く覚えていない僕は、死んで魂になって魔物になりかけていたところを、神様に助けられて、綺麗な女の子と異世界に・・・って、どっかのアニメかゲームの設定みたいじゃないか。
現実に起こるわけない。可愛い女の子と、僕が魔物を倒すなんて。まるで僕が主人公みたいな、そんな話あるわけない。
僕にはいつも、物語がない。
僕の為のストーリーは用意されていない。
僕は誰かの話を進めるためのモブだ。ずっとそう思ってきた。
友達の、家族の、周りの人の話を進めるためのモブ。
それでいい。
それでいいんだ。
――あれ。
――何も覚えていないはずなのに、如何してそんな事思うんだろう。