02-02 魔族と魔族
クレマンの店を出た頃には、日が西に傾いていた。服の採寸は、クレマンの指示に従っているうちに終わり、諸々の注文はクロードが済ませてくれたので、フルーは特に何かをしたわけではなかったのだが、緊張から解放され、どどっと疲れがこみ上げてきた。
店の外は、日が陰り寒くなってきた。
――空気が冷たい。
シャツ一枚では、肌寒い季節になったようだ。フルーは採寸のため脱いで小脇に抱えていた黒いカーディガンを羽織り直す。クロードが着なくなったカーディガンをお古にもらった物だ。フルーの体には少々大きい。袖をまくらないと、指先まで隠れてしまう。他にも防寒着は持っているが、このカーディガンは毛糸の質が良いらしく暖かい。フルーは、サイズより暖かさを優先することにした。
「クロード、アルデゥイナの冬はどんな感じなの?」
「そうだな、雪は積もるほど降らない」
「なら、そんなに寒くないんだね」
「なんだ、比較対象する記憶がないのに、分かるのか?」
「記憶がなくても冬の知識はあるさ。雪が降る地域は寒いものだろ」
「この辺りは雪があまり降らない代わりに、海風が結構冷たいぞ」
「そっか、風は計算に入れてなかった。夏は割と大丈夫だったけど、寒さは自信ないな」
アルデゥイナの夏は日差しがきついが、乾燥した気候なので、木陰に入れば涼しい。夜は肌寒い事もあり、夏でも長袖がいる。
フルーの場合、毎日が新たな発見の連続だ。これから初めて迎える冬に一喜一憂している。
「寒くなる頃には、ジャケットとコートが仕上がっているから問題ないと思うが」
「そっか、なら寒いのも楽しみだ」
フルーは当初スーツを作る事に抵抗をしていたが、今は出来上がるのが待ち遠しく感じていた。おかしなものだ。
「それは良かったな」
期待と不安があるけれど、楽しい時間だ。――そう、ここまでは。
それは唐突に訪れた。
二人はいつもと変わらない街の雑踏を歩いていた。夕方ともなれば仕事終わりの人々が街に出てきており、昼間とは違う賑わいを見せる。
繁華街の通りは暗くなる前に路上の街灯に火が入る。夕暮れと街灯の火が、街全体を赤く染め上げる。それはほんの数刻だけ見る事が出来る幻想的な景色だ。フルーはこの景色が好きだった。
フルーは街の景色を眺めていると、雑踏の中の、一人の青年に目を止めた。その青年は、街の色とは対照色の髪を持ち、この辺りでは珍しい白い異国の服を着ている。
彼はまるで夢の中からでも出てきたかのように、雑踏の中に現れた。
――どこの国の衣装だろう、見たことがない。
フルーはそんな事をぼんやり考えていた。
「やあ、久しぶり。ずいぶん楽しそうだけど僕も混ぜてもらえないかな」
――えっ?
フルーが視線を囚われていた青年が立ち止まり、声を掛けてきた。ぼんやりしていたため、その事に気が付くのが一瞬遅れた。
――誰だろう?
彼はもちろんフルーの知り合いではない。初めて見る顔だ。ということは必然的にクロードの知り合いということになる。しかし、この半年の間クロード宅を訪れているならば、フルーにも面識があるはずだ。こんな目立つ容貌をした人物ならば忘れるはずがない。クロードとは半年以上会っていなかったのだろうか。
フルーは隣を歩いていたクロードを仰ぎ見た。しかしクロードはこの青年を前にして、何も言葉を発しようとはしない。
――あれ?
「何だよクロード、僕のこと忘れたのかい?」
――珍しい。
アルデゥイナでは異国の人間は、珍しくはない。船や鉄道を利用して異国の人々がこの街に入って来る。フルーが珍しいと思ったのは、クロードの事を『ローレン』ではなくファーストネームの『クロード』で呼んだからだ。
今アルデゥイナ内で、クロードの事をファーストネームで呼ぶのは、フルーぐらいのものだ。フルーは、目覚めて最初にファーストネームでクロードを呼んだため、今更訂正するのも何か変かと思いそのままにしている。
「……お前は、マリウス? マリウス=バルベか!」
「そうだよ! クロード久しぶり!」
マリウスと呼ばれた青年は、クロードに気が付いてもらえたのが嬉しかったのか、笑顔を作り、軽い足取りでクロードの前に踊り出る。
「こんな僻地で会えるなんて奇遇だね」
「マリウス、なんでお前が人間領にいるんだ」
「クロード、知り合い?」
「ああ、古い知り合いだ。フルー、お前は下がっていろ」
「どうし……」
「いいから下がっていろ」
クロードは、強引にフルーの眼前を自分の腕で遮った。
「う、うん」
フルーはクロードの不可思議な行動を訝しんだ。だがクロードが理由もなく強引な手段に出る事はない。きっと何かあるのだろう。フルーは、黙ってクロードに言われた通りにした。今の場から一歩下がると、クロードの背後に身を引いた。そしてフルーはクロードの影から、こっそりマリウスの姿を盗み見る。
クロードが『古い』というのは、おかしな言い回しだ。目の前にいる青年は、どう見ても二十代ぐらいだ。トルコ石のような鮮やかなブルーの髪を背中ぐらいまで伸ばし、三つ編みにしている。肌は血色が悪く、青い瞳の下には深いクマがある。そして、目立つ異国の服の腰には、地面に着きそうなほど、長い剣を下げている。柄の形がクロードの所持している剣によく似ている気がした。
――もしかして、彼はクロードと同族?
「マリウス、俺の質問に答えろ! 魔族のお前がなぜ人間領にいる」
――やっぱり。
フルーの違和感は当たっていたようだ。目の前の不思議な青年マリウスは、魔族だった。フルーはクロード以外の魔族を見たのは初めてだ。それもそうだ。人間領に魔族が居る事自体が有り得ない事なのだから。こちらに背を向けている魔族が変わり者なのだ。
マリウスは、クロードに邪険に扱われているが相も変わらず笑みを浮かべ続けている。その笑みは、時々クロードの背後に下がっていたフルーにも向けられる。声を掛けるわけでもない、ただ薄笑いを浮かべてこちらを見ている。
――嫌な感じ。
何故そう思ったのかは分からない。だがフルーは、マリウスの薄笑いに居心地の悪さを感じていた。
フルーは、不安な気持ちを静めるため、マリウスの視線に入らないよう、更に一歩クロードの背に隠れた。
「何だよ。そういう君だって、魔族のくせして人間領にいるじゃないか! 聞いたよ、この辺りじゃ有名人らしいじゃないか」
「俺の事はどうでもいいだろう」
「もう、折角同門の友人がいるから会いにきたのに」
マリウスはクロードを『同門の友人』と言う。同門とは同じ師の元で学ぶという意味だ。二人は魔族領時代の知り合いなのだろうか。
「マリウス、俺に会いに来たと言うのならば、悪いがこの地から去ってくれ。ここはお前のような魔族が居ていい土地じゃない」
「なんだよ。自分の事は棚に上げて、僕には出て行けというのかい? もうクロードは昔から僕には冷たいよね。でも残念、今回は君に会いに来たわけじゃない。仕事で人間領にいるんだ。悪いね」
マリウスはとても饒舌だった。クロードに冷たくされるのも慣れているらしく、ペラペラと自分の事を語り始める。
「仕事だと、どんな仕事だ?」
「え、興味ある? じゃあ話しちゃおうかな~」
マリウスはクロードが初めて、自分に興味を示してくれたのが嬉しいのか、口調が燥いでいる。
何だろうかこの不協和音のような二人は。クロードは、マリウスの存在に明らかにイラついている。クロードは普段よほどの事がない限り、激しい感情の起伏を表に出さない。仏頂面が通常モードで、そこに多少喜怒哀楽の感情が加わる。近くにいるフルーでも、時折クロードが何を考えているのか見当もつかないことがある。しかし、今のクロードは通常モードではない。フルーはこんなにも、他者の存在を拒絶しているクロードを初めて見た。
フルーはクロードの背にそっと手を置いた。これで少しでも落ち着いてくれればという思いからだ。いや、違う。そこにはフルー自身の不安も混ざっている。
「クロード知っているかい? 人間領には魔族の支配時代に使っていた施設がまだ残っているんだよね」
「ああ、知っている。魔族達が使っていた施設が各地に遺跡となって残っているな」
「そうなんだよ。なんか観光スポットになっている場所もあって、あれムカつくんだけど」
「それで、その遺跡がどうした?」
クロードはマリウスの話の路線が狂わないように、軌道修正する。
「うん、魔族が人間領から引き上げる事になって、その場所はそのまま打ち捨てられたけど、人間が入りにくい場所にある古城はそのままになっていたりするんだ」
マリウスは、自分の持つ情報を得意そうに披露する。
「そういう場所は……質の良い財宝が沢山出て来る」
「マリウス、それは盗掘じゃないのか」
クロードの言葉を受け、マリウスの形の良い眉が、ピクリと脈打つ。クロードの言葉は正論で、マリウスは痛い所を突かれたのだろう。
「……嫌だな、トレジャーハントと言ってほしいな。人間領に打ち捨てられている物を有効利用しているんだよ。今回は依頼主が珍しい宝石をご所望でね。各地の遺跡を回っているんだ」
マリウスは、自分を正当化するため、更に自分の仕事について雄弁に語る。フルーは、クロードの背に隠れ、じっと話を聞いていた。
「そうか……それでその盗……トレジャーハントとやらが仕事なら、なぜ人間の街に下って来た」
「……僕だって、こんな人間臭い場所、来たくて来たわけじゃないよ」
クロードの言葉を受け、マリウスの表情から笑みが完全に消えた。今度は不機嫌であると言いたげに、口を真一文字にしている。街に下りて来た事は彼の本意ではなかったのだろう。マリウスはクロードと対象的に、その時の気分が態度に現れやすい人のようだ。
「……今回の仕事はちょっとトラブルがあってね。同行した奴らが希少価値の高い宝石を数粒逃がしちゃってね。ホント馬鹿! この僕の手を煩わせてくれちゃってさ……」
マリウスは、ここにいない誰かに向かい悪態をつく。
「逃がすだと? 宝石に足でも生えて逃げ出したような言い方だな。盗掘が窃盗にでもあったのか?」
確かにマリウスの言葉は変だった。彼は『宝石を逃がした』と言った。同業者に宝を奪われたのだろうか。
「……ふふっ、ふふあ、ははははっ!」
マリウスはクロードをじっと見ていたかと思うと、唐突に声を出して笑い始めた。何がそんなに可笑しいのだろうか。マリウスは、人目も気にせず腹を抱えて笑い続ける。道の往来を行く人々が、彼の笑い声に振り返り足を止める。
――まずい。
このままでは、直ぐにも人垣が出来てしまう。クロードは、街の人々に顔も名も十分知られている。そのクロードが何やら面白そうな事に巻き込まれているときたら、街の人々の野次馬根性が黙ってはいない。しかしマリウスはそんな事どこ吹く風、マイペースで笑い続ける。そして、笑いを堪えながらクロードに擦り寄る。
「もうクロード、酷い言い草だね。でもね。僕が言っていることは間違っていないよ。事実をそのまま言葉にしただけさ。僕が何を言っているのは分からないのは、それはね……君が無知だからさ」
「マリウス……少し黙れ」
クロードは、さすがにマリウスの態度に我慢が出来なくなったのか、彼の両肩を掴むと自分から引き離す。
「……君はいつもいつも、僕をそうやって見下すよね。僕に命令しないで貰えるかな!」
マリウスは、クロードの腕を払い除けると、その身を翻した。それは本当に一瞬の出来事だった。
「やあ」
「っっ!!」
マリウスは、クロードの間合いを突破すると、背に隠れていたフルーの横に移動していた。フルーは突然の事に声を上げることも出来なかった。
何かがドクンを体の中で飛び上がる。それが周囲の音を遮る。この煩い振動音が、自分の心臓が激しく鼓動をする音であることに気が付くのに数秒かかった。全身の血が逆流するのではないかというほどの動悸に襲われていた。
――何故だろう、息苦しい。
マリウスは、フルーを覗き込んできた。
「……えっと、……ど、どうも」
フルーはようやく声を絞り出せたが、どうしても次の言葉を続けることは出来なかった。
「マリウス!」
クロードはマリウスに突然間合いを抜かれた事に驚いているようだ。さすが同じ魔族ならばクロードも出し抜かれることもあるようだ。クロードは、慌てて振り返る。
フルーは間近でマリウスの姿を見た。彼の肌は、近くで見ると更に病的に血色が悪い、目の下のクマが更にそれを後押ししている。同じ魔族のクロードも肌の色素は薄めだが、もう少し健康的だ。魔族という種族は皆こんな感じなのだろうか。マリウスのクマの上にある青い瞳がじっとりとフルーを見つめる。
「さっきからクロードの後ろで隠れている君さ……」
「おい、関係ない者をからかうのは止めろ!」
クロードはそう言うと再び、フルーとマリウスの間に自分の体を壁にして割って入る。
「クロード、僕と話がしたいのは分かるけど、ごめんね。実は僕、この子に用があるんだ。邪魔しないでもらえるかな?」
マリウスはクロードの妨害を手で払い除ける。
――僕に?
「何を言っている! 人間の子供に用だと言うのか?」
「……なるほど、人間の子供、ねっ……くくっ」
マリウスは、クロードの言葉を聞いてまた声を出して笑う。
「あのマリウスさん、僕に用なんですか?」
フルーは突然話の主役に躍り出たことに驚いていた。
もちろんフルーはマリウスと面識がない。こんな派手な外見をした者に一度でも会えば忘れるはずがない。いやそれはこの街に来て以降の話だ。もしかしたら、今は覚えていなくても、記憶を失う前に会っていたのかもしれない。ならばフルーの正体を知る手がかりをマリウスは持っている事になる。
フルーは、クロードの背から抜け出すと、マリウスに向き合った。
「あのマリウスさん。すいません。先にお詫びします。もしかしたら僕とマリウスさんはお会いしていたかもしれませんが、実はですね……僕、どういう訳か半年より前の記憶がないんです。だから貴方の事は覚えていなくて」
「ふ~ん、そうなんだ残念。でもこれで分かったよ。やっぱり君で間違いなさそうだ」
マリウスはそう言うと再びクロードの背後に回り込むと、今度はフルーの左腕を取った。
「えっ」
フルーは唐突に腕を掴まれた事に驚いた。だがもう一つ別の事にも驚いていた。それは、この街で無敵を誇っていたクロードが、マリウスという名の魔族に、再三間合いを抜かれ手玉に取られているからだ。
珍しい事もあるものだ。もしかしたらマリウスはクロードより強いのだろうか。フルーはそんな事を頭の隅で考えていた。
「マリウス……」
マリウスに背後を取られたクロードはゆっくりと振り返った。本当にゆっくりとだが、振り返ったクロードは、マリウスを睨みつけた。
そこには眉間に皺を寄せ、ドクターや役所の皆相手に不機嫌になるいつものクロードの姿はなかった。顔から表情を消し、瞳はどこまでも冷たく、戦慄を覚えるような鋭い眼光がマリウスに注がれている。
フルーは、この視線は自分に向けられているわけではないのは頭の中では分かっていた。しかし、どうしてだろうか膝が震え足の裏で地面を捉えるのが難しい。
フルーはこの時初めて、魔族、いやクロードが恐ろしいと思った。
――これから気を付けよう。冗談でもクロードを怒らせるのは良くない。
フルーは一人密かに心に誓った。
「魔力の封印を受けていないな」
クロードはマリウスに告げた。
「……バレたか」
「人間領生活で体がなまっているとはいえ、同じ封印をされた者なら、俺はお前程度に遅れは取らない」
クロードは言い切った。またなんという自信だろうか。
「言ってくれるね。僕が君に劣ると言うのかい? 剣ではいい勝負をしていたと思っていたんだけど」
「それは俺に一度でも勝ってから言え!」
「ちっ」
マリウスは舌打ちをする。
「お前は分かっているのか! あの結界は領土の奪い合いを止める抑止力のため、どれだけの魔族が心血を注いで作ったのか」
「そういう杓子定規な答えは聞きたくないな。いくら強力で大層立派な結界でも、抜け道があるんだよ。馬鹿真面目に門を通るなんてナンセンスさ。まあ、クロードはさすがあのローレン家の……」
「家の名前は関係ない!」
「怖い怖いっ……悪いけど、僕は僕の用事を終えさせてもらうよ。さあ帰ろうか」
マリウスは、そう言うとフルーの腕を締め上げ、地面の上に押さえつけた。
「いっ!」
「おい、やめろ!」
「マリウスさん、何をするんですか!」
「首を切り落とされたくなかったら、動くなよ」
フルーはマリウスが何を言っているのか分からなかった。マリウスはフルーを掴む反対の手で剣の柄に手を掛けると、体を捻じりながら刀身を抜いた。
フルーの顔の真横を刀身が通り抜けた。後ろで結わいていた髪の束が幾らか地面に落ちる。あと少し頭を動かしていたら、首が地面に落ちていたかもしれない。
夕日に照らされ赤く色づく刀身は、片刃の少し湾曲する長剣だった。マリウスは、剣を抜くと同時に、横に薙ぎ払った。片刃の剣は空を切ってヒュンと音を奏でる。そして一瞬の静寂の後……、間近で耳を劈く炸裂音と、皮膚を焦がすような熱風が襲い掛かってきた。
フルーは、咄嗟にマリウスに掴まれていない腕の袖口で、口と鼻を覆った。
――いま、何をした?
悲鳴を上げている余裕もなかった。フルーが認識出来たのは、赤い火球が空に打ち上がり、それが火の粉として降り注ぐ場面からだった。舞い上がった火は、まるで火の雨のように石畳の上に舞い落ちる。それを合図にしたかのように、周囲から人々の悲鳴が上がる。繁華街の道で、クロードとマリウスの様子を見ていた人々に、火の粉が降り注いでいるのだ。混乱が起きていた。
野次馬をしていた人々は、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。幸いにも道に倒れている者はいない。
「あは、あははは、なんて弱いんだ。剣の属性魔法一つでこうもあっさり、ねえクロード気分はどうだい?」
これが魔法――
何という圧倒的な力だろうか。この圧倒的な力で人間領を支配していたのだろう。この光景を見れば魔族が恐怖の対象だったことに納得した。
「マリウス、貴様……!」
一番火の手が高く上がっている一角に、クロードの姿があった。クロードもまた腰に下げていた剣を抜いて構えている。クロードは、家から離れた場所に出かける時は、いつも剣を携帯していた。アルデゥイナは今でも治安が万全というわけではないので、武器を携帯する者も少なくはない。その事前対策だ。
クロードの剣は、マリウスの剣より刀身の幅があり、両刃だった。両者の得物は、対照的だが剣の柄だけは同じデザインだった。両方の剣は、柄の先に青い玉が嵌っている。しかし、クロードは数歩歩いたかと思うと、持っていた剣を地面の上に取り落とした。剣が石畳にぶつかる金属音が響くのと同時に、クロードは両膝を地面につき、そのまま前のめりに倒れた。
――嘘だ……
「クロード!」
クロードが倒れた地面の辺りは、赤い水たまりが広がってゆく。
「あははは、立っていられただけ褒めてあげるよ。魔法防御も禄に出来ない状態なのに、僕の魔法剣を受けるなんて馬鹿だよねぇ」
「クロード、クロード! 起きろ! 何やっているんだ! クロード! くそっ離せ!」
フルーはマリウスからの拘束から逃れようと暴れるが、それは無理なことだった。マリウスはクスクスと笑いながら、片手でフルーの首根っこを掴むと地面を引きずる。そしてクロードの傍まで歩み寄ると、倒れるクロードの体の下に足の甲を差し込んだ。何をしようと言うのだ。マリウスは、クロードを蹴るように足で彼の身体を仰向けにさせた。クロードは小さな呻き声を上げるが、マリウスの成す事に抵抗出来ない。薄ら開いた瞳はマリウスを睨んでいるが、息が上がり、唇が紫色になっていた
「酷い様だね」
マリウスは、クロードを覗き込んだ。
クロードの腹部は、服が裂けその下からは血が滲み出し、地面へと溢れ出している。剣で切られた傷だけではない。服の周囲が焼け焦げている。それはもはや裂傷とも熱傷とも言えない状態だった。
「ふーん、急所は避けられたみたいだね」
マリウスは、しばらく面白い物を見るようにクロードの様子を見ていた。すると突然笑い声を消すと、クロードの傷口を靴のかかとで思いっきり踏みつけた。
「うわあっ」
フルーは自分が踏まれたわけではなかったが、思わず声が漏れた。その光景を直視する事が出来ず顔を背けてしまった。
「うああああ!」
クロードの悲鳴が上がる。
フルーは、無駄だと分かっていたが、それでもマリウスの拘束から逃れようと、体をひねり足をバタつかせた。
「クロード! 何やってるんだ! やめろ!」
「ぎゃーぎゃーうっせぇな! 少し黙れ」
マリウスはもう一度クロードを踏みつけると、騒ぐフルーの首を剣の鞘で叩きつけた。
「うっ」
フルーは、短い呻き声を上げ地面に崩れ落ちた。意識が薄れる中、道に倒れるクロードの姿を必死に追った。
――駄目だ、今意識を失うのは……
「意外だったな。君にこういう趣味があったなんてね。でも、この鉱物人間は返してもらうよ。所有権はこちらにあるんだ。じゃあまたね。……そうそうその傷だけど、早めに塞いだ方がいいよ。さすがの君でも死んじゃうかもよ」
マリウスの声がする。彼が何を言っているのか、聴覚に届く音が遠くなって聞き取れない。
――鉱物人間とは、一体何の事だろうか。それより自分達はこれからどうなるのだろうか。
――誰か……助けてっ……
フルーの声なき願いは、誰にも聞き届けられることはなかった。
* * * *
『クロード=ローレンが何者かに倒された』
エヴァはその第一報を役所の執務室で聞いた。
エヴァの役所での地位は、商業地区の流通官だ。アルデゥイナ内外の物流関係の仕事を手掛けている。今は終業時刻をとうに過ぎていたが雑務が残っており、執務室には他の地区の流通官達が数名残っていた。
その信じられない知らせに、室内がざわめいた。
「出てきます!」
エヴァは他の流通官にそう告げると、席を立ち執務室を飛び出していた。
役所の廊下を小走りで駆け抜けると、秘書官のダニエルに出会った。同じく役所に残っていたのか、ダニエルは顔を青くしエヴァの胸元に縋り付いてきた。
「エヴァ! どうしよう!」
「ダニエル落ち着いて」
エヴァは、ダニエルの手を取ると両手で握りしめた。そして、落ち着くよう諭した。
「俺が様子を見に行ってくる。君はここに残って情報を集めて」
「えっ、ええ……でも」
「ローレンさんが倒されるなんて、今までにない事件だ。それに、外は何があるか分からない」
ダニエルの情報収集力は大したものだ。現場に出るより人を使うのに長けている。エヴァはどちらかと言えば現場主義な面がある。自分の目で見て確認しないと、納得がいかない。
――それが適任だ。
エヴァは幼馴染の手を離すと、ここは任せたよと笑ってみせた。
「まってエヴァ、ローレンはドクターの診療所に運び込まれたそうよ」
「分かった」
さっそくダニエルは情報をくれた。
エヴァは、ダニエルと別れると役所の一階出入口へと急いだ。役所の外へと繋がる扉を潜ったエヴァは、まず驚愕した。それは、いつも賑やかなアルデゥイナの街に人影が消えていたからだ。人々は民家店先に至るまで、戸を固く閉ざして息を殺すように屋内に閉じこもっている。
「これは……」
どうやらクロードが誰かに倒された事は、瞬く間に街の人々に知れ渡る事になり、街中に戦慄を与えたようだ。
エヴァは、こんな光景を初めてみた。アルデゥイナは夜でも人出がある。
――ゴーストタウンだな。
ドクターの診療所まで、街の雑踏の中を全力で走っても十五分はかかると踏んでいた。しかし人のいない繁華街は信じられないほど走りやすく、時間を半分ほど短縮出来た。
エヴァは勝手知ったる診察所に飛び込むと、処置室のある部屋の扉を開けた。
「ローレンさん、無事ですか!」
「治療中だ! 静かに!」
エヴァにドクターの喝が飛ぶ。
「すいません!」
クロードは診察台に寝かされ、ドクターの処置を受けていた。
「エヴァか?」
クロードはエヴァの存在に気が付くと、小さく声を上げた。声が出せるということは、意識がある証拠だ。
エヴァはクロードの声を聞き、床の上に両足から崩れ落ちた。
「良かった……」
ここまで休みなしで走ってきたため、嫌でも呼吸が乱れる。
「心配かけてすまないな」
息を整えてから立ち上がると処置をしているドクターの横に滑り込んだ。
「……ドクター、ローレンさんの状態はどうなんですか?」
「かなり深い傷だ、出血と火傷が酷すぎる」
エヴァは、恐る恐るドクターの手元を見た。ドクターは火傷と言ったが、クロードの皮膚は、エヴァの知る火傷のレベルとはほど遠いものだった。
――はっ。
エヴァはクロードの傷の酷さに目を背けてしまった。
一瞬見えたクロードの皮膚は、所々消し炭になっている。
そして目を背けた先には、赤黒く染まった布が置かれていた。それが焼け落ちたシャツだと気がつくのにしばらく時間を要した。白かったはずのシャツは赤黒い染みが全面に広がっている。その横には同じく血の付いた大量のガーゼが積まれていた。これだけでもかなりの出血量なのが分かる。
「ローレンさん、いったい何が……」
医療の知識がないエヴァでも分かる、クロードの傷口は異常だ。クロードは険しい顔をしてドクターの処置を耐えている。
「魔法の攻撃を受けたらしいぞ……」
「魔法ですか」
「エヴァ、しばらく女性陣は連れてくるな」
「……分かりました」
エヴァは、ドクターの言葉に納得した。エヴァ自身も少し気分が悪くなっていた。
「ローレン、なんとか止血は成功した」
「すまないなドクター」
「だが、これ以上どうすることも出来ん」
ドクターは、クロードの傷口にガーゼを当て、その上から包帯を強く巻き付けた。
「いやいや上出来だ。魔法で出来た傷をここまで応急処置が出来る人間の医者はそういないさ」
クロードはそう言うと、痛みを堪えながら処置台の上から起き上がった。その姿は見ているこちらも苦しくなるほどだ。
「ローレンさん、魔法の攻撃とはいったい何があったんですか!」
「……ちょっと古い知り合いの魔族に、魔法で攻撃された」
「知り合いの魔族ですか……あれ、以前に魔族は人間領で魔法を使えないと言っていませんでしたか?」
エヴァは、子供の頃クロードに魔法を見せて欲しいとねだった事がある。しかしその時クロードは、魔族は人間領で魔法が使えないのだと教えてくれた。その記憶が確かなら妙な話だ。
「ああ、それは正しい。魔族は、魔族領から人間領へ移動するには、決められたルートを通らなければいけない。そのルートを通ると、魔力が封じられ魔法が使えなくなる。これは、魔族全員に科せられた掟だ。……だが奴は、その決まりを破った」
エヴァは恐ろしい情報を手に入れてしまった。今のクロードでは、全く歯が立たない魔族がまだこの街に滞在しているかもしれない。これは、どう対処したらいいのだろうか。エヴァは、必死に頭を働かせる。
「……ローレンさん、その魔族はまだ人間領にいるんですか? もしいるのなら、街の住民に警戒を……」
「大丈夫だ、奴は魔族領に帰った」
「そ、そうなんですか?」
――帰った? この街にはローレンさんに会いに来たのだろうか、そもそも何でローレンさんが攻撃されることになったのかが分からない。
「何があったんですか、俺に話してください。悪いようにはしません」
クロードは、処置台から起き上がってから、ずっと苦虫を噛み潰したような顔をしている。
――こんなローレンさんは珍しい、一体何があったんだ。
「エヴァ……あのな、花ちゃんがその魔族にさらわれたらしい」
ドクターが話を補足してくれた。
――えっ!
「何ですって! フルーが? ローレンさんどうして」
「さあ、俺も手元の情報が不足していて、確かな答えは出ない。だが奴が……マリウスがこの街に来た目的はフルーだったらしい」
エヴァは、クロードの語る事が理解出来なかった。
――アルデゥイナを訪れた魔族の目的がフルー?
何故人間のフルーに用があったのだろうか? もしやフルーの消えた記憶に関係があるのだとしたら、その魔族がフルーの素性を知っていることになる。ドクターは『フルーがさらわれた』と言っていた。そしてクロードはその魔族に攻撃を受けた。
エヴァの頭の中は、疑問符で一杯になっていた。
クロードは、ずっと何かを考えていたが、突然処置台の上から降りると、床の上に両足を付けて処置室内を歩き出す。
「ローレン、あまり動くな。また出血するぞ! 骨や内臓にまでは達していなかったが、筋肉を綺麗に分断されているんだ」
「ああ、分かっている。もう少し体を引くタイミングが遅かったらという自覚はある。だがこの魔法で受けた傷は、同じ回復魔法でしか塞がらない。悠長にはしていられない、まだ体力が残っているうちに動かないと」
「そうか、ならもう少し包帯を巻かせろ」
ドクターはそう言うとクロードを呼び寄せ、包帯を更に強固に巻き始めた。
「……エヴァ、すまないが頼みたい事がある。協力してくれるか?」
クロードは、ドクターに包帯を巻かれながらエヴァの方に視線を向けた。
「もちろんです。俺に出来る事ならやりますよ」
「汽車の切符の手配を頼めるか」
「はい、どこまでのチケットを取りますか?」
「隣国の山脈地帯までだ。そこに魔族領と人間領を出入りできるゲートがある」
――そんなところにゲートがあるのか。
エヴァは初めて魔族領の情報をクロードから聞いた。
「ローレンさん、じゃあ」
「ああ、魔族領に戻る。まずこの傷を治療して、それから情報収集だ。あいつが言っていた鉱物人間というのを調べねば……」
「それから……どうするんですか?」
「奴を追う」
「……わかりました。では一番早いチケットを取ってきます!」
エヴァは、クロードに笑いかけると、背を向け処置室の扉の方へ向かった。
「エヴァ、留守の間の諸々の事だが……」
エヴァは、クロードの方を振り返る。
「任せてください。ちゃんと処理しておきます。ただ俺が過労で倒れる前に、必ず二人で戻って来てくださいね。それが条件です」
「……ああ」
「そうだ! あと魔族領土産で手を打ちます。珍しい物買ってきてくださいね」
エヴァは、クロードに少し冗談を言ってみた。不謹慎だと怒られるかと思ったが、エヴァは、少しでもこの重たい空気を和ませたかった。
クロードはエヴァの言葉にしばらく無言を貫いたが、突然笑い出した。どうやら笑うのを我慢していたようで、クロードは一度笑い出したら止まらなくなっている。
「あははは、覚えていたらな……痛っ」
「ローレン、もう笑うな」
クロードは笑いすぎて傷口に響いたようだ。これは予想しなかった。悪い事をした。
「期待して待っていますよ」
――そう、期待して待っているので、必ず帰ってきてください。
エヴァは、手を振って処置室の扉から外に出た。