01-01 花束と明日の事
ロクサーヌの経営する食堂は、住宅地区寄りの繁華街にあった。通りの角地に面したこの店は、テーブル席が十卓とカウンター席が数席ある小さな店だが、食事時ともなるといつも大盛況であった。
港の商業地区には同じような食事が出来る店があるが、この周辺は、役所機関や病院が近いため客層が異なる。小綺麗な格好の事務職から、繁華街で働く人々など、様々だ。彼らに共通するのは、名物女将の気さくな人柄と美味しい食事を楽しみにしていることだ。
もちろん食堂では、酒類も扱うが『ここは食堂であって酒場ではない』というのがロクサーヌの持論だ。
酒類は食事と会話を楽しむアイテムとして、提供している。しかし本日だけは特別だ。
本日この食堂では、小さなパーティーが開かれていた。食堂の一番奥のテーブル席を、数人の男女が囲んでいる。
「えー、皆さんお揃いのようなので、フルール君の退院と昇進祝いを行います」
そう、今日はフルーの退院と昇進祝いと兼ねたささやかなパーティーが催されている。
本日の幹事役エヴァが陽気に司会進行をして会がスタートした。
「皆さん、飲み物は行き渡っていますね。では乾杯の前に、主役のフルーから一言お願いしたいと思います。はい皆さん拍手!」
エヴァの言葉を合図に、拍手と共に集まったメンバーが一斉にフルーの方に視線を向けた。
「えっ」
フルーは突然話を振られたので、背筋を強張らせた。
実はこのパーティー、主役であるフルーは直前まで何も知らされていなかった。つまりサプライズパーティーだ。
今から、少しだけ時間が遡る。
* * * *
「花ちゃん、今日で退院だ」
フルーは診療所の診察室で、ドクターに退院の許可を言い渡された。
「えっ? 本当に退院していいんですか!」
フルーはドクターの言葉を疑うわけではないのだが、再度確認のため質問をする。
「私も完治にはもう少し掛かると思ったんだが、身体を動かして問題あるかい?」
フルーは痛めた肩を軸に腕を回してみた。別段痛みはない。動きもスムーズだ。
「……特にないですね」
「ということさ。後遺症もなく綺麗さっぱり治っているよ。行き倒れていた時の治療でも思ったが、花ちゃんは不思議なくらい傷の回復が早いんだよな」
ドクターは、少し難しそうな表情でバインダーに閉じられたカルテとフルーを交互に見つめる。
「そうなんですか?」
「んー、若さ、かね……早く治るのは良いことだしな」
そう呟いてから、ドクターはカルテを机の上に置き、ファイルの表紙を閉じる。そして難しい医師の顔からいつもの飄々とした態度に戻ると、フルーに笑顔を向ける。
「通院も投薬の心配もなし、帰ってよし!」
「やったあ! ありがとうございます」
フルーは、両手を上げ今の気持ちを体で表現した。正直なところ、制限のある診療所生活と味の薄い病人食に嫌気が差してきたところだった。そのためドクターの許可は、踊り出したいほど嬉しかった。しかしびっくりした。前日まで、自分の容態や退院の話など何も出ていなかったので、長期戦を覚悟していた。
フルーは退院というのはこういうものなのだと自分を納得させ、身支度を整えた。入院中使っていた品は、鞄の用意をしていなかったので、大判の布にまとめて包んだ。そして、他の入院患者に別れの挨拶をしてから診療所を後にした。
そこまでは、何も問題はなかった。しかし、フルーが診療所の扉を一歩出たところで事態は急転換する。
フルーが外に出ると、そこには見知った人影が二人いた。一人は診察室で別れを告げたばかりのシュラールドクター、そしてもう一人はエヴァことエヴァリスト=ジアンだ。
フルーは、数週間前にエヴァと知り合った。エヴァは役所に勤めており、商業地区の流通関係を主に担当している。そのエヴァは、ドクターと何やら雑談をしているようだ。二人は親子ほど年が離れているが、会話や態度から親しい間柄なのが窺える。
フルーはその事について、特に尋ねるつもりはなかった。この街の人達は、いろんな所で縁が繋がっているので、二人についても不思議に思わなかったからだ。
二人はフルーの姿を見つけると話を止めて、自然な動作で近づいてきた。
「あれエヴァ」
「フルー退院おめでとう」
「ありが……」
フルーはエヴァに答えようとしたが、その言葉は途中で止まることになる。エヴァは素早い動作でフルーが手に持っていた荷物を取り上げた。そして追い打ちをかけるように、エヴァとドクターは、フルーに何の説明もなく彼の両腕を取った。
「えっ、ちょっ、二人とも突然何を……」
そしてフルーは半ば引きずられるような形で、歩くのを強要される。
「まあまあまあ」
抗議や質問の類は受け付けませんとばかり、二人はフルーを拘束したまま、歩調を速めて歩く。そして気が付けば、近所のロクサーヌの食堂の中に押し込まれていた。
「これはいったい……」
フルーは何が起きたのか理解が出来ずにいた。食堂の中には、フルーの見知ったメンバーが奥のテーブルで歓談をしている。自分をここまで連れてきたドクターとエヴァは、いつの間にかその輪に入っているではないか。
「フルー退院おめでとう」
食堂の入り口で困惑していると、突然フルーは鼻先にひんやりする物を押し付けられた。
「うわっ」
突然の事と、油断していたため驚きの声を上げてしまった。鼻先にあるそれは、顔に当たる感触が柔らかくいい香りがする。フルーは少し顔を離すと視界を塞ぐ物を凝視した。赤とピンク色をしている。
「花束?」
そう、フルーの目の前に差し出された物は、赤とピンクの花の束だった。
「もうジョゼ! ちゃんと渡しなさい」
花の向こうから女性の声がする。
フルーは、花の壁で妨げられていた視界の先に金髪少女を見つけた。
「いいんだよお姉ちゃん。サプライズなんだから、これくらい驚かせなきゃ!」
彼女はジョゼ。最近出来たフルーの友達だ。そのジョゼの後ろには、彼女の姉、オルガが控えていた。
「……ジョゼ、オルガ、これはいったい?」
そうだ、ジョゼが口にした『サプライズ』とはどういう事なのだろうか。
「何って、フルーへのサプライズだよ。はい、受け取ってな」
フルーは、ジョゼに半ば強引に花束を受け取らされた。
「あ、ありがどう」
フルーはまだ自分の置かれた立場が分からない。
「フルー、驚かせてごめんなさいね」
オルガがジョゼの行動に詫びを入れる。
この姉妹は、数週間前に起きた誘拐事件に巻き込まれた被害者だ。その事件の調査で潜入していたフルーが寸での所で助けに入り、救出された。衰弱が激しかったオルガは、しばらく静養を必要とした。ジョゼの方も怪我を負ったが、幸いな事に大事に至らなかった。
オルガは、まだ顔色が悪いが、最初に会った時とは見違えるほど元気になっていた。この美人姉妹、オルガの方は栗色の髪をしており、落ち着いたお淑やかな美人だ。ジョゼの方は金髪碧眼のお人形のような容姿をした愛らしい少女だ。だがジョゼの正体は、その愛らしい外見と正反対の凶悪な悪餓鬼なのをフルーはよく知っている。
「フルーありがとう。私達姉妹は、貴方には感謝してもしきれないわ」
オルガは、フルーの空いている方の手を取り両手で包み込むと、何度もお礼の言葉を述べる。フルーは一か月ほど前、この姉妹を助けるために、少し身の丈に合わない無茶をしでかして怪我を負い、ドクターの診療所に入院を強いられていたのだった。
「オルガ、元気になってよかった。それだけで僕は嬉しいよ」
「ごめんなさい、今の私達にはこんな物でしかお返し出来ないけれど……」
こんな物とはこの花束のことだろうか。
「こんな物じゃないよ! 農園に行って摘んできたのオレなんだからな!」
ジョゼが抗議の声をあげる。ジョゼはその可愛らしい外見に似合わず言葉遣いが悪い。ジョゼは商業地区で少年の格好をして暮らしていた。その名残は昨日今日で直るものではない。これには姉のオルガも少々困り顔だ。
「……まあ花束にしてくれたのはお姉ちゃんだけどさ」
ジョゼオルガ姉妹がフルーにくれた花束は、ダリヤの花束だった。
ダリヤは初秋が旬。とても鮮やかな色があり、豪華な花だ。
「そうね、ジョゼが選んで摘んできたのよね」
「ダリヤの花言葉は『感謝』なんだからな」
「そうなんだ」
ジョゼは自慢げに教えてくれた。きっと農園の人に教えてもらい真剣に選んで摘んできたのだろう。フルーは、その気持ちがとても嬉しかった。
――そういえば、誰かに花を貰うのはこれが初めてだ。
「ジョゼ綺麗な花を選んでくれてありがと。オルガもありがとう。花を貰うのは初めてだから凄く嬉しいよ」
ジョゼは、フルーの言葉を聞くと、さらに得意そうな笑顔を見せる。
「そうだろ!」
フルーは花束を受け取り、ジョゼとオルガに手を引かれテーブルの中央の席に押しこめられた。そして今に至り、挨拶を求められているわけなのだが……。
――さて困った。
このパーティーを仕組んだのはダニエルで、そのダニエルに幹事を任命されたのがエヴァだという事をオルガは教えてくれた。
しかし、それ以外フルーは前情報が何もない。そんな場に放り込まれたら、誰でも咄嗟の対応に困るものだ。そして、間髪入れずにスピーチを求められれば、しどろもどろにもなろう。
フルーは全員の期待の視線を受けて、渋々と席から立ち上がる。そしてテーブルを囲む面子をゆっくり見回した。
クロードとダニエルは昨日も診療所で顔を合わせているのに、何も勘ぐらせなかった。今もすまし顔で、ちゃっかり席に着いている。そしてドクターのタヌキぶりは十分承知している。
――まさか、この場の全員にまんまと騙されるとは!
フルーはそう思うとちょっと可笑しくなった。きっとフルーのために必死に素知らぬふりをして準備を進めたのだろう。その様子を想像しただけで笑いそうだ。
「あの、突然ドクターとエヴァに拉致されて、まんまと騙されたので、言うことも心の準備も何も出来ていません。さてどうしようかな……」
優しさに甘えて、ちょっと愚痴をこぼしてもいいだろう。フルーの発言に、各席から笑い声が上がる。
――本当に何を言おう。
フルーは少し考えた。今、目の前には、日頃お世話になっているメンバーが勢ぞろいしている。こんなチャンスは滅多にない。日頃から思っている事を言うチャンスではないだろうか。だが、どう言葉を切り出していいやら、さっぱり分からない。
「……皆、今日はこんな僕のために、集まってくれてありがとう。企画してくれたダニエルと幹事役を引き受けてくれたエヴァに感謝しています。言いたいことが山ほどあるけど、どう言葉で表現していいのか分からないので、一言だけ言います」
フルーは、集まってくれた全員をゆっくり見回した。そして、言葉は飾らず正直に言う事にした。
「みんな大好きです。僕からは以上です!」
フルーは気恥ずかしさから、照れ笑いをして頭をかく。
「花ちゃんよく言った!」
そんなフルーに、ドクターから愛のある野次が飛ぶ。
「フルー、ありがとうございました。では皆さんグラスをお持ちください、乾杯!」
エヴァの音頭で全員のグラスがカチンカチンと、楽しい音を奏でる。
「そろそろ料理を運んでもいいかしらね」
頃合いを見て、ロクサーヌが両手いっぱいに料理を乗せた皿を運んで来てくれた。どれも普段お目に掛かれないような御馳走だった。
「さあジョゼ、あんたも手伝っておくれよ」
「おうっ、任せろ!」
ジョゼは待っていましたとばかり、立ち上がると自分のエプロンを服の上に着込み、ロクサーヌと一緒に厨房の方へ入ってゆく。
ジョゼはこちらでお世話になっていると聞いていたが、どうやら上手くやっているようで安心した。可愛いウェイトレスが増えて、食堂は少し和やかな雰囲気になったみたいだ。
フルーは落ち着いて自分の席に着くと、ダニエルとエヴァがフルーの元へ歩み寄ってきた。
主犯と実行犯のお出ましだ。
「フルー、今回はいろいろ迷惑をかけてごめんなさい」
「今回は、ダニエルの無理な頼みを聞いて怪我までして本当にお疲れ様」
二人はフルーに深々と頭を下げる。
「二人とも、もういいから。許していますから、頭上げてよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
「そういうことで」
そう言われるのが分かっていたのか、ダニエルとエヴァは、頭を上げるとフルーに向かって笑みを浮かべている。
「それから事後報告になりますが、本日はささやかですがパーティーを開催させていただきました。フルー楽しんで行ってね」
今頃事後報告されても……。本当にこの二人は驚かされる事ばかりだ。
この二人、ダニエルとエヴァは、アルデゥイナの役所に勤めている。これから役所に籍を置くフルーの先輩になるわけなのだ。二人は昔からこの街に住んでいる家の出身で、結構なお坊ちゃんとお嬢様だったりする。
それから忘れてはいけない。実はこのダニエルとエヴァは幼馴染みで、おまけに家同士が決めた許嫁の間柄だと言うのだ。これには正直驚かされた。だが同時にとてつもなく納得をしてしまった。
本人達は勝手に決められたことだからと言うのだが、この二人を一言で表現すると『似た物夫婦』。まだ夫婦ではないが、そういう部類の言葉が当てはまる。二人が揃うと全てが二倍増しになる。
フルーは今回の事で初めてエヴァと知り合った。エヴァはフルーが入院中、暇を見つけては診療所に顔を出して気にかけてくれた。フルーは、周囲に同年代の同性の友達がいなかったので、その事が嬉しかった。
「……もう二人共、あとは何も企んでないよね?」
このそっくりカップルは、きっとまた何か企んでいるに違いない。ここで念を押して確認しておかないと、フルーはまた驚かされてしまう。
「それは、もちろん企画した段階で、しっかりきっちり企んできたわよ。フルーもう少し驚いてね」
ダニエルはそばかすの浮く頬にえくぼを浮かべ、満面の笑みを披露してくれた。そして後ろ手に持っていた何かを、フルーに差し出してきた。
「はい!」
「へっ?」
フルーは咄嗟に差し出された物を受け取った。ダニエルがフルーに差し出したのは、両手に乗るくらいの長方形の小さな箱で、それは青の包装紙と白のリボンで綺麗にラッピングされている。これはプレゼントと言うものだろう。
「私とエヴァからお祝いよ、是非いま開けてみてほしいな」
ダニエルが興奮気味に身を乗り出してくる。
フルーは、二人から受け取ったプレゼントをじっと凝視した。たぶんこれは記憶の中で初めて貰うプレゼントだ。花束に続いて、今日は初めて尽くしだ。どういう態度を取っていいのかよく分からない。嬉しいという言葉では表しきれない。残念なことに、気の利いた言葉は思いつかなかった。
「あ、ありがとう。分かった、開けるね」
フルーは箱をテーブルの上に載せると、そっと指先でリボンをひっかけて解いた。続いて包装紙を丁寧に開けてゆくと中身が見えた。
「これは」
包装紙の中から現れたのは、四方が革張りの細長い箱だった。フルーは、これと同じような物をクロードの仕事部屋で見たことがある。
――まさかこれは!
フルーは、慌てふためきダニエルとエヴァの顔を見る。
「はい、いいから開ける開ける」
驚いて手を止めたフルーの背を叩いてエヴァが促す。
「う、うん」
この箱には正面に留め金がついている。そして蓋は少し重めで、片手で上蓋、反対の手で箱の底を抑えて手前から奥に開く。フルーは箱を掴む手にじんわりと汗が滲んでくるのが分かった。
ゆっくりと蓋を開けた。箱の中には一本のペンが納められていた。
「……っ!」
フルーは驚きのあまり、箱の上蓋から指を離してしまった。蓋はパコンという音を立てて再び閉まる。
――えっ、えっ、何が入って……。
フルーは、いま目に入った物が信じられなかった。
そう一瞬視界の中で見えたのは、『万年筆』だった。フルーがあれだけ欲しいと願っていた物が、今手元にある。今日、何度目かの衝撃にフルーは、眩暈を起こしそうだった。
「ねぇ、いいの? こ、こんな高い物!」
「もう、ちゃんと見てよ」
フルーは三度目の促しを受け、箱の蓋を開けた。今度はよく目を凝らして見る。万年筆は紺色のペン軸に、同じ色のキャップが付いていた。箱から取り上げて右手で握ると、ペン軸が指先の間にぴったりと納まる。その滑らかな感触が何とも言えない。
フルーは震える手でそっとキャップを外してみた。そこから現れたのは金色のペン先。ペン先と軸の間には金のリングが境界線のように納まっている。グリップは綺麗な曲線美をしている。まるで芸術品のようなフォルムだ。フルーはペンを握る右手の震えが止まらない。
「役籍持つなら、それくらいの物持っていてもおかしくないわ。エヴァから聞いたのだけど、フルーは、ずっと万年筆が欲しかったんですってね」
「うん、そうだけど……あれ? エヴァにそんな事話してたっけ……」
――いや……話した覚えはない。
フルーはペンからエヴァに視線を向けた。エヴァはフルーの視線に気が付いたのか、フルーにウィンクをしてみせた。
「――っ!」
――エヴァまさか。
フルーは、手の震えに加え変な汗が背中を伝うのが分かった。まさかとは思ったが、エヴァにはフルーのあの独り言を聞かれていたようだ。
フルーの言う『聞かれていた』とは、女装で酒場に潜入中、間違って強い酒を口にしてしまい、酔い醒ましのために酒場の裏手にいた時、少々弱気になって言った独り言の事だ。
まあ、あの時フルーの姿を見張っていてもらえなかったら、助けはおろか今こうして無事にはいられなかっただろう。
しかしだ……。
フルーは、再びエヴァの方を見上げた。
エヴァはすでに素知らぬ顔をしている。この頭の芯が沸騰しそうな恥ずかしさは何だろうか。
――忘れよう。こういう記憶は喪失してもいい。うん、そうしよう。それが精神衛生的にいい。
フルーは自分の思考に折り合いをつけると、二人に向き合った。
「二人ともありがとう、大切に使わせてもらうよ」
「どういたしまして」
ダニエルが満足気な笑顔を見せる横で、エヴァが含み笑いをしている。
――エヴァ、お願い忘れてくれ。
「良かったな、花ちゃん」
話が終わったのを見計らうようにドクターがふらりとやってきた。ドクターは会が始まったばかりだといういのに、すでにご機嫌になっているようだ。この人は、どういう飲み方をしているのだろうか。医者の不養生という言葉は彼の辞書にはないとみた。
「ほら、花ちゃんグラスが空だぞ」
ドクターは、フルーのグラスにワインを並々とついでくる。退院したばかりの患者に何をしているのやら。
「そうそう、俺からの祝いはないからな。もちろん、また何かあったらいつでも診てやるが、極力うちに世話にならないように」
「はい」
――それは正論です。
ドクターはだいぶ酔っているが、正しい事を言う。本当に怪我は勘弁願いたい。
「ところでローレン、お前さんは何か用意したのか?」
ドクターが唐突にクロードに話を振った。フルーの身元引受人的存在のクロードは、運ばれてきた料理を肴に、隅の席で一人でワインを飲んでいた。
「用意してないぞ」
「何よローレン! ちゃんと一人一つ、驚かせるような事用意してよねと伝えたわよね。もう準備悪いわよ」
ダニエルが席の前に移動し食い下がる。一連のどっきりの連続は、ダニエルの考案だったようだ。ダニエルはだいぶご立腹なようで、クロードに食って掛かる。
「いやいや、クロードには日頃何かと面倒見てもらっているから! ねっ、ダニエル!」
フルーは慌てて席から立ち上がると、ダニエルとクロードの間に割って入る。本当にクロードには衣食住から細々したことまで、世話になってばかりなので、これ以上何かを貰ったら本当に罰が当たってしまう。
クロードはそんな二人の様子をみて、グラスをテーブルに置く。そして何が可笑しいのか突然笑い出す。
「悪い悪い。予定していた物が用意出来なくてな。明日辺りしっかり驚かせてやる予定だ」
――はいっ? まだ何かあると言うんですかこの魔族。
「ほぉ、ローレンさん。それはいったい何ですかね、気になりますね、ヒントくださいよ」
エヴァがクロードの横に自分の椅子を引っ張ってきて座り、探りを入れる。
「ヒントか、店の主人にフルー本人が来ないと駄目だと言われた」
「本人がいないと、駄目な物か。難しいな」
エヴァは額に手を当て考え込む。
「もう少しヒントくださいよ」
「何よ何よ! ローレン教えなさいよ、気になるじゃない。ねぇフルー」
「うん、凄く気になる」
ダニエルは納得がいかない様子で、クロードを白状させようと躍起だ。
「……駄目だ。ここで言ってしまったら驚かせる意味がなくなるだろう。フルー含め、全員期待しておけ」
――なんだろう。
クロードはそう言うと、再び酒の入ったグラスを持つ。ただ一つ言えるのは、まだ驚かされることが待っているという事のようだ。
「おい、みんな! 話に盛りあがっているのはいいが、今日はロクサーヌ女将が気合い入れて御馳走用意しているからな。頑張って片付けろ!」
ジョゼの威勢のいい声が飛ぶ。料理は次々と厨房から運ばれてくる。テーブルの上は、すでに沢山の料理で賑わっている。全員一旦談笑をストップすると、テーブルを空けようと皿の上の料理に手を出してゆく。
「ほらフルー、今日は主役なんだから遠慮しないで食えよ!」
「は、はい!」
ジョゼがフルーの取り皿に、あれもこれもと料理を盛り付けてくれる。ロクサーヌの料理は普段から美味しいが、今日は格別に美味しい料理ばかりな気がする。お皿の上には、幸せが一杯だ。
こうしてフルーの退院と昇進祝いパーティーは過ぎてゆく。
フルーは、みんなに囲まれ笑いながらふと思った。
クロードに拾われる半年前、それ以前の記憶がない。フルールという名前も仮の名で、今の自分も仮初のもの。誰もが持つ自分の歴史がない。それは心の奥が空っぽということだ。
――なのに、今の自分はこんな幸せでいいのだろうか? そのうち罰が当たるのではないかと思ってしまう。でも今は、このまま……今、この瞬間をきちんと生きていたい。胸の奥で時折見せる負の考えは押しこめて、今はこの輪に入って笑っていよう。