03-01 たんぽぽとタンポポ
だいたい、あとになってこう言えば良かったと後悔する。
――僕は、逃げていたんだ。君が好きだと告白して、そういう対象と思っていないと言われたらどうしようと。でも、どこかで期待もしていた。
フルーはクロード宅を飛び出してから息が続く限り走った。ヒールを履いた足はとても走りにくい、舗装の荒い石畳に何度も足を取られ、足首をひねって痛めそうになり、数度転んだがそんなことを気にしている余裕はなかった。少しでも自分の考えが入らないように、無心に走った。
――考えたくない、もう何もかも考えたくない。
どれくらい走り続けただろうか。東の商業施設側に行けば、港に出て海に当たる。そこで道はおしまいだ。それにそちらは人が多い。ならば反対側と思い、西へと足を向ける。そこだけはどこか冷静で、おかしかった。
アルデゥイナの街は海の方面へ下り坂になる。その反対を行くとなると、上り坂だ。住宅街はゆるやかな坂になる。そこを抜けると、広い平野に繋がる。
フルーは、どれくらい走ったのだろうか、街外れの草原に立っていた。
「はぁ、はぁ、ここは……」
息がもう続かない。
フルーは適当な草むらを選ぶと、その場にしゃがみ込んだ。
限界まで走って来て、肺と脳みそに酸素が足りない。そのまま身を横たえた。
地面の上より、草の上の方がいいと思ったのだが、草が地面の冷気を吸い冷たい。
今はこの草の冷気が丁度いい。このまま座転がっていては駄目だろうと思うが、これ以上動きたくなかった。
転んで擦りむいた膝と、足の裏がヒリヒリと痛い。足の裏と踵は皮膚が炎症して捲れているに違いない。しかしこの程度の傷、鉱物人間のフルーならばほっといても治る。
ここは、鉱物人間のフルーが最初に見つかった場所だ。
「どうしてここに来ちゃったんだろう」
昼のここは一面花畑になる。春の野草たちが咲き乱れる。しかし夜の草原の花達は、陽ざしを待ち望み、蕾をかたく閉じている。暗く寂しい場所。月と星の明かりだけが降り注ぐ。街中と違い空気が冷たく澄んでいる。シンとした冷気が足元から上がってくる。
背中を地面にして空に向き直る。そこには恐ろしいほど美しい満点の星がある。天井が迫って来て、いまにも押しつぶされそうに気分になる。
「うああああああああああああ!」
誰もいないと思って、普段出さない大声を出した。ありったけの大声を出す。
自分の中にある、黒い気持ちをこの夜空に少しでも洗い出せないかと思った。本当は恐ろしくて声をあげているにすぎないのだけど。
『はぁ』と声を出して息を吐くと、白い息が立ち上る。
クシュン。
「……寒い」
フルーは、地面から起き上がると両肩を摩る。運動の熱で発汗していたが、今度はそれが仇となり、寒気を感じ始めた。地面から少しでも触れる範囲を少なくしようと、膝を立てて座るとスカートを託し寄せ両手で抱きしめる。
フルーの今の服装は白ブラウス一枚。下はロングのスカートだが、足元は黒のヒール。あの場から逃げてきたので、何もかも置いてきてしまった。上着はおろか財布も必要ないと診療所に置いてきた。自分の体温で暖を取りガタガタと震えるしかない。
フルーは、戻るところがどこにもなくなってしまった事を思い知る。
これはヴァンやジョゼの気持ちを知ってもなお、ちゃんと自分の気持ちを告げず、あまつさえ一時の宿を求めて甘えていた罰か。そして最悪にも先ほどは、差し伸べられたヴァンの手を振り切って逃げた。
――誰にでもいい顔をして、嫌われたくないと立ち回る。僕も存外酷いやつだ。
フルーの瞳から頬へと伝わった涙がポツリと地面に落ちる。
このまま全身が涙になって大地に溶けて、消えてしまいたいと思う。
そういえば、ヴァンが街に来た頃。彼から人魚姫の本を持っていたら貸してくれと言われたのを今頃思い出す。もうフルーは読み返すことはないと思いヴァンにあげてしまった。なぜ読み返すことはないと思ったのかというと、あの話が嫌いだったからだ。
フルーは、はじめて人魚姫の本を読んだ時、姫は相当な馬鹿だと思った。恋した王子の傍にいくため魔女に自分の美しい声と引き換えに尾ヒレが足になる薬を貰う。魔女から、その足は地を踏むと激痛が走り、もし王子が他の娘と結婚すれば海の泡となると警告を受けるが、姫は薬を飲んでしまう。案の定王子に自分の想いはおろか、自分が助けた事も告げられない。傍に居られればいいと思うが、王子は自分を浜辺でみつけた女性と結婚することに。それを憐れんだ姉達が妹を助けるべくナイフを渡す。そのナイフで王子を刺せば元の人魚の姿に戻れる。しかし姫は、それをせず身を海に投げて泡となって消える。
なんて、ナンセンスで後味の悪い話だろうと思った。でもそう感じたのは自分が子供だったからだ。でも今なら作者が何を書きたかったのか、少し分かる気がする。
恋に身を焼き、声を失ったとしても足が欲しかった人魚姫。姫は王子の不幸も望まない。それでいて王子が幸せになる姿も見ていたくなかったに違いない。そして呪いの言葉を吐く声が自分に戻るぐらいなら、誰にも知られず消えてしまいたい。
それは自分を心配する家族友人にから見たら、とても自分勝手な行為かもしれない。それでも自分の自尊心を守りたいと思ったのだろう。フルーはそう解釈した。
「今なら分かる」
そしてこのお話が何故愛されているのかも。
フルーは、自分の身体を維持するためにクロードの協力が不可欠なのを、分かっている。その対価として補佐官の仕事をしているが、その仕事もクロードありきだ。
自分の存在は、クロードがいなければ成り立たない。生きて行くには、そばを離れることは出来ない。
フルーと人魚姫と違うのは、例えクロードが誰かに取られてしまう未来が来ても、傍にいなくてはいけないこと。
しかしそれは絶対見たくない未来だ。見るぐらいなら、フルーも溶けて消えてしまいたいと思った。
――僕って、そうとう重いな。
フルーは更に膝を強く抱く。するとスカートの内側で奇妙な音がする。
それは何か紙が擦れるような音だった。
「あ、そうだ」
フルーは無理をして自室に取りに来た物の存在を忘れていた。スカートのポケットから封筒を取り出した。寒さで震える手で封筒の中からは一枚の書類を取り出した。
それはクロードとフルーの間に交わした契約書だ。
約二年前のものだ。最後にサインをして封筒に入れた時から、一度も見ていなかった。スカートのポケットに入れていたため、多少角が折れてはいたが、書類は昨日書かれたかのように、色あせず綺麗な状態だった。
――そうだ、これがあった。
フルーは、膝の上でじっとその書類を見つめた。これを取りに行った時は、まだ自分の中に出来た綻びを修復して、元に戻る希望があった。しかし、今はどうだろうか。気持ちがあの数時間前とはずいぶん変化してしまった。
この書類は、フルーにとって足を生やすための薬であり、王子を刺すナイフでもあり、そして最後の切り札であることに気づいてしまった。
どう使うかは、フルーに選択権がある。
この切り札に気づいたとき、答えはもう出ていたのかもしれない。
しかし、その答えを脳裏に浮かべる直前、思考を遮られる。
「フルー!」
背後から名前を呼ばれた。思考の世界から引き戻され顔をあげる。
「こんなところまで来て、何をしているんだ!」
フルーはこの声をよく知っている。忘れるはずがない。しかしすぐに後ろを振り返ることが出来ない。探しに来てくれた嬉しさで、胸が張り裂けそうになるが、どんな顔を向ければいいのか分からないからだ。
「よ、よく見つけられたねクロード」
本当にこの広い街でよく一人を見つけたものだ。クロードは、フルーが逃げた時、どちらに行ったか行先も見ていなかったはずだ。
「お前は、誰の魔力を貰っていると思っているんだ?」
「……あ、そっか」
知っているが肝心な時は忘れる。それは呼吸をしているのを意識していない感覚と似ていると思った。知っているが、意識はしていない。
フルーは地面の上から立ち上がると、手にして書類を畳み右手に握り締めた。
近くまで歩み寄ってくるのが気配で分かるだが、まだ振り返ることはしない。
ぐっと両手の拳を握り締める。手の中で書類が折れ曲がるが構わない。
――振り返ったら、振り返ったら……。
そして意を決して、クロードの方へ振り向いた。
目の前にいる魔族はいつものように、優雅な姿をしていない。先程家で見たとおり、着ている白いシャツはくしゃくしゃで、ズボンから裾が出ている。髪もボサボサだ。ブーツも慌てて履いたのか、ボタンが最後まで止まっていない。手には自分の上着とフルーが置いていった青いショールが握られている。
自分の身なりを整える暇もなく、ここに来てくれたのだろう。フルーはそれだけで、なぜか全てを満足出来た。
ここ数日フルーはクロードに数々の暴言を吐いてきて、今回はもう無理かと思っていたが、辛抱強さに感謝したい。そして二年前、魔族領の地底に迎えに来てくれた時と同じくらい嬉しかった。いや比べられない。その時とは気持ちが違う。ずっと自分の気持ちに変化が出たのかと考えていたが、きっとあの頃からなのではないかと思う。
――僕を見つけてくれてありがとう。
なぜかフルーは心静かに微笑むことができた。
「来てくれてありがとう」
素直な気持ちで礼を述べる。
笑顔と同じく、静かにクロードの前へと歩み寄る。
「話をしようというのに、逃げるな」
クロードは、いつもより少し白い顔をしている。先ほどまで泥酔していたのだ、無理もないだろう。きっとここまでフルー同様走ってきたに違いない、後に出て到着がそんなに変わらなかったのだから、相当無理をしているはずだ。
「ごめんよ、でもさっきのは君が悪いんだよ」
「俺が悪いだと?」
どうやら、やはり理解していないようだ。
フルーは、睨みつけるとクロードの胸板を数度叩く。
「悪かった、もう何も言わない!」
――この鈍感男、まあ自分の事を棚に上げて言えないか。
「君は大きな誤解をしているよ」
フルーはまず誤解を解くことを必要とされる。
「何を誤解していると言うんだ」
フルーはクロードを叩くのをやめると、左手でクロードの襟をつかみ、自分の方に引いた。クロードの身長は、フルーより頭半分ほど高いので背中を屈ませるしかない。
二人の距離が一段と近くなる。
右手は契約書を握ったままなので、襟首を掴めない。
クロードはまな板の上の鯉のように、フルーのすることを甘んじて受ける覚悟でもしているのだろうか。フルーの一連の行動に、抵抗はしないが一体何をする気だと身構えている。これは殴られるとでも思っているのだろうか。
――こんな情けない顔をする人だっただろうか? 面白いな。
つい笑いそうになるが、それは我慢する。なぜならこの後の行動はもう決めているのだから。
「僕が黙っていたことを教えるよ」
フルーは自分の両手をクロードの首に回し体重をかけると、クロードの唇に自分の唇を重ねて塞いだ。それは、ほんの数秒の出来事。フルーの寒さで震える唇は、青白くなっているだろう。クロードもまだ酒が抜けていない、色気やロマンスの類は何もない。世の乙女達が想像していたものとは違うだろう。
「僕が好きなのは君だ、他の誰でもない」
唇を離すと、そっと告げた。
フルーは、今まであれほど我慢していた告白を言いきった。
なんだろうか、胸がすっとする。今まで顔を赤くし、大騒ぎしていたが、これは意外と大したことではない気がしてきた。腹を括るとこんなにも違うのだろうか。
フルーは、口角をあげいつもの無邪気な笑顔を送る。今日一番の笑顔を作れただろうか。息が掛かる距離にいる魔族は、案の定驚いた顔をしている。今の隙だ。
――これ以上近くにいたら決心が鈍ってしまう。
フルーはこのままクロードに抱き付きたい衝動に駆られていたが、両手を離すと背後に回し、ぐっと手に力を入れる。
クロードから離れると、そのまま背後に下がる。
一歩、二歩、三歩……少しずつ離れる。
「いままでありがとう、楽しかったよ」
――少しだけでいいんだ、僕のことを心の片隅で覚えておいてくれると嬉しいな。
フルーは、クロードの素手の時の間合いを知っている。剣の修行に加え体術も習っていた。あと数歩でその間合いの外に出る。フルーは立ち止まると右手に握っていた契約書を開くとクロードの方に見せた。
「それは……、まてフルー、何をする気だ!」
クロードは何かを察したのか、こちらに駆け寄って来るのが見える。
しかしそれも計算の内、距離は十分に取っていた。
そして……
「さようなら、バイバイ……」
フルーは、最後の笑顔を作ると、契約書の上の部分を両手の指先でつまみ、契約書を縦に引き裂いた。クロードの手が触れる寸でのところで、書類は夜風にさらわれた。
契約書を破るということは、契約の破棄を意味する。
――この場所が終着駅なんて、我ながら上出来じゃないか。