02-03 家出と酔っ払い
「ただいま」
シュラール診療所に帰宅を知らせる声が響いた。
「あれ、お帰りなさい。もう帰ってきたんですか?」
ヴァンは、フルーとは入れ違いにドクターを出迎えた。ちょうど一階の診療所と各病室を見回り、最後に玄関である待合室の戸の前に来ていた。
「早く帰ってきちゃ悪いような言い方だな」
「いえ、そういう訳では。帰宅時間の予想が外れたので困惑しているだけです」
いつもならば飲みに行くと深夜まで帰って来ないのに、まだ宵の口を過ぎたばかりだ。父の早い帰宅にヴァンは本当に困惑したのだ。
「今日は終いだ、寝るぞ」
ヴァンは、ドクターと一緒に二階へと続く階段を上がろうとした。しかしフルーが帰って来ていないので、玄関の鍵は閉められない。フルーにはこの家の鍵を渡していなかった。
――あれ?
ヴァンは、この事態がどういうことかようやく気づいた。
「……となるとクロードも家に帰ったんでしょうか?」
「……ああ、まあな」
ドクターの言葉の歯切れが悪い。
――これは何か気になります。
「実は今しがた、フルーが部屋に荷物を取りに戻ったんですよ。クロードと鉢合わせしますかね?」
「……まあ、しても大丈夫じゃないか」
ドクターは数秒考えた後、答えた。この含んだ言い方は何かありそうだ。
「ちょっと私、様子見てきます」
ヴァンは、手にしていた診療所の鍵をドクターに渡すと、一階へと踵を返した。
「おいおいヴァン、お節介はよしとけ」
階段の上からドクターの声がする。
「別にお節介というわけでは、様子見てくるだけですから」
「その、お節介が命取りにならないといいがな」
クロード宅の前でフルーに出くわした。敷地の門から玄関へ向かう途中だった。
フルーはヴァンの姿を見るなり一度はっとする。
その顔は、暗がりだったが泣いていたようだ。
「フルー、どうしたんですか!」
ヴァンは咄嗟にフルーの前に立ち、敷地の外へ退路を塞ぐ形で手を差し出した。しかし、フルーは一瞬その手に驚き立ち止まりはしたものの、手を払いのけヴァンの横をすり抜ける。
「ごめんなさい」
小さく聞こえた謝罪の言葉。
フルーは、ヴァンを振り返ることなく公道の方へ走り去る。
「えっ?」
振り払われたショックと、言い知れない怒りがヴァンの中に湧き上がってきた。
すぐフルーの後を追うか迷ったが、クロード宅の中に足を踏み入れた。
駆け込んできたヴァンに気づいたのか、クロードがこちらを見る。
室内に入って鼻をつくアルコールの匂いがした。日頃、飲んべのドクターと診察所でアルコールの匂いを嗅ぎなれているので間違う事はない。ヴァンはドクターが早く帰ってきた理由が分かった。今のクロードはかなり酔っているんだ。
「クロード、何があったんですか! フルーが泣きながら逃げて行きましたよ」
「何も……」
「何もなくて、あんな風に逃げてゆくわけがないでしょう!」
フルーは、ヴァンの姿はきちんと認識していた。それでも彼に泣き付くでもなく、そのまま逃げだした。よほどの理由があるはずだ。
「クロードいいから追いかけてください!」
「なんで俺が……」
「それ、本気で言っているんですか?」
「俺が追いかけたら迷惑だろう」
――この人は何を言っているんだ。
ヴァンは、怒りの原因が分かった。この目の前にいる恋敵の魔族が原因だ。クロードは自分の大恩人で、とても大切な存在だ。父のドクターと同じ、何かあったら尽くしたいと思っている。しかし、今はただただ怒りがこみ上げる。
「……ならフルーは私がもらっていいんですか!」
ヴァンはとうとう我慢できず、クロードに詰め寄って自分の気持ちを言った。
クロードは、一瞬驚いた顔でヴァンを見た。そしてすぐいつもの表情に戻ると目を逸らした。
「い……」
ヴァンは、クロードの言葉の最初の一音を聞いた瞬間、胸倉をつかんだ。まだ身長差あるが、掴めるぐらい成長している。
「何をする!」
「もし、その次の言葉が『いい』だったら、私はクロード相手でも本気で怒ります。そしてこの命かけても言わせてもらいます」
――例え怒らせてこの命落としたとしても、言わなければいけない。
「もしクロードがいつまでもそんな態度なら、フルーは任せておけません。私が貰います。もう自分の傍に置こうなんて思わないでくださいね」
「お前」
「でも、でも……、私じゃダメなんです。 悔しいですけど……フルーは私を選んでくれない、クロード、あなたじゃないとダメなんですよ!」
そして、ヴァンはクロードから離れると踵を返し、クロードの靴と上着、部屋の床の上に落ちていた自分がフルーに手渡した青いショールをクロードの胸に押し付けて持たせる。そして人差し指でドアの外を指差す。
「つべこべ言わず、いますぐ追いかけてください!」
「しかし」
「追いかけろ!」
ヴァンは、常に丁寧語を話しているが、今日はクロードに命令した。
「あ、ああ」
クロードはヴァンに気圧されて返事をする。
ヴァンは部屋を出て行く後ろクロードの姿を見送った。
たぶん今日は、アルデゥイナでの人生最悪な日になってしまう。
ヴァンは自宅の診療所に戻ると、ドクターに帰宅の挨拶もせず自分の部屋へ引き上げた。そして自室の窓を開けると、外に足を踏みだした。背中には毛布を担ぐ。窓の外に出ると斜めになった屋根を横につたい、そこから少し煉瓦の屋根を登る。
ヴァンは自室から出た屋根の上に天体観測のセットを組んでいた。前から夜空を見るのが好きだったので、手作りで望遠鏡を作ってみた。夜の静かな時間、星々を眺めるのは、自分に合っていた。
屋根に足場を作って、足場の上には荷物が収納出来る小さな木箱とテーブルある。気づけばそこはちょっとした基地になっていた。ヴァンは雨の日以外の夜は、大概ここに居る。勉強や仕事から解放され、いい気分転換になっている。
今日はそこに毛布を持ちこんで頭の上からかぶる。今日は星を見るつもりはなかった。
ここなら誰にも邪魔されず一人になれる。
そのはずだった。
「おーい、俺も混ぜろや」
下から声がした。なんとドクターが屋根を登ってきた。ドクターは普段ヴァンのプライベートに入ってくることは稀だ。しかし今日は毛布を被るヴァンの横にちゃっかり陣取るではないか。
「ほい、差し入れ」
懐から水筒を取り出すと、ヴァンの前に置く。そしてヴァンが被る毛布引っ張ると自分もちゃっかりその中に入ってくるではないか。
「一人にしてくださいよ」
ヴァンが、ドクターに苦情を言う。
「どうしたよ、失恋でもしたか。だからお節介も大概にしておけて言ったろう」
「いいんです! 分かっていたんですから」
「それは分かっていたという態度じゃないぞ」
ヴァンは、毛布の下で大粒の涙をこぼしながら泣いていた。涙を服の袖で拭うが間に合わない。鼻も真っ赤ですすっている音が横にいれば嫌でも聞こえる。どうやら本気泣きをしているようだ。
「お前さん、本当は泣き虫だよな」
「うるさいですよ!」
ドクターがよしよしと頭を撫でる。近寄るドクターを押しやる。
――わかっていたんだ。こうなる日が来るのは。
でも現実にその日が来ると、やはり猛烈に悲しく、苦しい。
クロードがフルーを追いかけた。ヴァンにはこれ以上のお膳立ては出来ない。このお膳立てが良い方に転べば、晴れてヴァンは失恋決定だ。まさか最後の止めを自分で刺すはめになるとは思いもしなかった。
ヴァンは、どこかで自分はクロードに何を言っても大丈夫だと高を括っていた。ヴァンのバックにはドクターがいる。クロードは大切な友人を再び息子を失うという悲しみに落とすことない。出来ないはずだと。そういう考えが頭の中によぎった。そんな自分にも腹が立つ。
「私は、フルーのことが出会った頃から好きだったんです!」
「そうかそうか」
「いつも、道に逸れそうになる私を引っ張ってくれて」
ヴァンにとってフルーは保護者のようで、兄のような姉のような、それでいて恋しい人。
「なんで、あああ!」
ヴァンは屋根に両足を投げ出し、足をばたつかせ大声を出しながら泣いた。
「泣け泣け、ひとしきり泣いたら、これでも飲んで落ち着け」
ドクターは差し入れた水筒を手に取り、蓋をあけた。水筒から暖かな湯気が上がる。ヴァンの鼻先に中味の匂いがふんわり漂う。
「うっ、ドクターこれ薬湯じゃないですか!」
「お前さんはこれよく効くだろう、どうだ父の愛がこもってていいだろう?」
「もう子供じゃないんですから、こういう時は、お酒でも持ってきてくださいよ!」
「子供が何を言っている。あと五年は早いぞ」
「だから、私の外見は子供ですけれども、子供ではなく……」
「俺からみたら子供だぞ。それに息子のお前と酒を酌み交わすイベントは楽しみに取ってあるんだ」
ドクターはヴァンに計画を語り始める。連れて行く店、最初に教える酒の銘柄、それから語る話題、内容はとても具体的だ。それはきっと亡き息子と果たせなった夢で、何度も心の中で思い描いた光景なのだろう。しかしそこにはもう悲壮感はない。本当にヴァンと一緒にその日を迎えるのを楽しみにしているのだろう。ヴァンはドクターとはまだ二年の付き合いで、正直なところまだ親子だとは強く思えない。しかしこういう瞬間この義理の父に愛されているのを感じる。
ヴァンは、涙がすっと止まり表情が緩んだ。
「……万が一ですよ。またこういう状況があったら、せめてコーヒーにしてください、父さん」
「おうおう、了解した息子よ」
ヴァンは、ドクターから水筒を受け取ると、水筒の淵に息を吹きかけ冷ましながら、飲む。
「……ま、まずっ!」
この薬湯には、思い出補正がかかっていて良いイメージがあるが、不味さにうろたえる。こんな味だっただろうか。確かに苦くて飲みにくい物だが、今日のこれは苦くて草の匂いが鼻につき、今度は生理的な涙が出る。
「まずいだろう。お前さんが出かけたときから煮込んで濃いめにしておいた。これぞ失恋の味だ」
それはこの事態を予測していたということか。
ヴァンの横でドクターはしてやったりと笑う。
「父さんの方こそお節介ですよ、クソオヤジ」
「おうおう、言うようになったな、俺はそんな事教えてないぞ」
「そうですか? これこそ父さんの教育成果だと思いますよ、悪しからず」
ヴァン=シュラールの初恋は、どうやらここで終わりになるのかもしれない。
――上手くいかなかったら、あの魔族は本当に許しません。
そう心の中で愚痴りながら、ヴァンは苦い薬湯を飲み干した。