02-02 家出と酔っ払い
フルーは夕飯をシュラール家で済ませた。二階の簡易キッチンでヴァンの片づけの手伝いをしていた。
ヴァンは日々の生活の事は全て自分一人で出来るようになっていた。父のドクターが留守をする時もあり、診療所の戸締り諸々の管理もしている。二年ほどでずいぶん逞しくなったものだ。気後れしてフルーの後ろに隠れていた少年の面影はない。
「ヴァン、人を好きになる理由って何かな?」
フルーは皿を洗いながら、隣で皿を布巾で拭いているヴァンに尋ねた。
作業する手を止めたヴァンは、ひとつため息をついてからフルーを見やる。
「それを私に聞くんですか? 大概怒りますよ、言ってもいいんですか?」
ヴァンの表情に特に変化はない。しかしその声に重みがあり、これをドスが効いているというのだろうか。フルーははっと我に返り、自分が呟いた言葉の意味を知る。
「すいませんでした!」
フルーは反射的に謝っていた。ヴァンの好きな相手はフルーであることを忘れていたわけではない。今の質問は自分に告白しろと言っているようなものだ。
今の一言はヴァンを傷つけたはずだ。フルーはヴァンに猛省をする。
フルーはヴァンのことは大好きだ。種族と境遇が自分と一番近い相手。その関係を強いて言うなら『家族』に近い。それを言ってしまったら、ヴァンは複雑な表情をするに違いない。特別だけれども、ヴァンの欲しい特別の枠に、入らないことを宣告しているのだ。恋愛対象として見れないと。
ヴァンは、再びため息をつくと拭き終わった皿を棚に戻しながら話を始める。
「……誰かを好きになる理由なんて、そんな大したことではないんですよ。ジョゼは、食堂で働き始めた頃、フルーにエプロン姿が可愛いと褒められたからだと言ってましたよ」
「そう、そうなんだ。全然覚えてない」
こちらから聞いたことなのに、ドキリとする。
「だから、そんなものなんです。きっかけなんて……」
フルーは皿を洗い終わると、ヴァンがタオルを差し出した。
「ありがとう」
手についた水分を拭きながら、ぼんやり考える。
フルーが自宅を出て今日で三日目。記憶が始まった人生の中で一番あれこれ考えた気がする。
日中は元自宅に戻り、言われた通りデスクワークに専念した。仕事をしている間、極力クロードとは会話をせず、ただひたすら仕事に専念した。少しでも集中が切れると、家にいるクロードの姿を視線で追ってしまうのだ。その事に気づかれないよう細心の注意を払うので、常に緊張している。そして夜は夜で、一人になると答えの出ない迷宮に落ちてなかなか眠れない。疲労困憊だ。
フルーは自分の気持ちと、解決策の両方を同時に考えていたが、思考は混線し答えが出ないでいた。ピアノ線が限界まで張りつめたような綱渡りをしていた。
唯一ヴァンとこうして家事をしている時だけが気が休まる。ついぼんやりして失言してしまった。
――ホント重症だ。
そして今の議題は、あの魔族がいつから気になる相手になったのだろうか……
朝から晩まで一緒に居て、その状況が当たり前になり、その上にあぐらをかいていたんだ。たまに離れる時間もあるけど、それは一時期なもので、お互い同じ場所に帰る。それになんの疑問も持たなかった。
――それに、僕は鉱物人間だから容易に魔族のクロードから離れられない。
だからどこかで安心していた。でもこの時間が永遠に続かないと気づいて、心よりさきに身体が知らせてくれた。自分の気持ちに気づけと。まだありもしない未来に嫉妬するなんて浅ましい。この三日間である程度自分の気持ちを受け入れる事ができた。
そして次の解決するのは、この女性の身体を元の男性の身体に戻すこと。フルーが男性に戻ったところで、問題の解決にならないのは分かっている。しかし一度戻りたい。女性のままでは身動きが取れないのだ。
フルーは一つ案を思いついていた。
「ねぇヴァン、今ドクターはクロードと飲みに出かけているんだよね?」
「ええ、一時間半ほど前に出かけたので、当分戻って来ないと思いますよ」
「なら、ちょっと僕は出かけてくるよ」
「どちらに?」
「うん、自分の部屋に行って取って来たい物があるんだ」
「明日じゃダメなんですか?」
「うん、ちょっとね。今晩少し考えたいことがあって、持って来たいんだ」
「そうですか、日も暮れましたし一緒に行きましょうか?」
「大丈夫だよ。すぐそこだし」
「分かりました。お気をつけて」
ヴァンはそう言うとフルーに青いショールを手渡した。季節は春とはいえ朝晩は冷える。フルーは、ヴァンの優しさを素直に受け取る。
「ありがとう、いってくるね」
クロード宅の玄関の鍵はしまっていた。やはり出かけているようだ。
フルーは家を出たが、まだこの家の鍵を持っていた。勝手知ったる元我が家を明かりもつけず二階の自室に向かう。
部屋に入るとすぐに机の袖机の引き出しを開けた。中には木の小箱が一つ入っており、その中には一通の封筒が納められていた。フルーはその封筒を箱から取り出すと、スカートのポケットにしまった。取りに来たものはこれだった。
自分なりに事態の解決策を模索していた。これがその手掛かりになればと思った。
――あとは、帰って考えよう。
フルーは、階段を下りると玄関に降りた。
「あれ?」
この家に入った時、念のため閉めたはずの鍵が開いている。しかも扉が少し開いているではないか。
家の中の明かりはどこもついていない。
アルデゥイナ内で、この家に泥棒に入ろうなんて勇気のある者はいないだろう。しかし仕事部屋には大事な書類もあるのだ。万が一紛失したら大変だ。
「クロード帰ってきたの? もう不用心だな」
玄関からリビングへつながる廊下へと足を進めた。外の街灯の明かりが窓からさすので、真っ暗ではないが、室内は薄暗い。フルーは廊下に足を踏み入れて数歩目ぐらいで、何かを踏みつけた。危うくヒールを踏み外すところだった。
「うおっ、なんだよ」
フルーは、自分が踏んだものを確認するため、スカートを押さえ床に膝を着く。
「これは」
なんと廊下には靴が転がっていた。見覚えのある黒いブーツは、クロードのものだ。
――何で、こんなところに?
普段ならば、こんな通路に靴が落ちていることはない。
フルーは少し視線を上げた。するとどうだろうか玄関から続く廊下には、いろんなものが落ちていた。最初に出会ったのがこのブーツとその片割れ、そしてジャケット、ベルト、時計、スカーフ、全てクロードの持ち物だ。フルーは順番に拾って歩いていた。両手が荷物で一杯になった頃、リビングの入口に辿りついた。
普段きちんと閉められているその扉は開けっ放しになっていた。フルーは恐る恐る中を覗き込んだ。
「なっ!」
フルーは自分が見たモノに驚くあまり、手に持っていた荷物を取り落としそうになった。荷物を近くのテーブルの上にまとめて置くと、リビング中央のソファに駆け寄った。
フルーは少し慌てていた。なんとソファには、クロードがうつ伏せで倒れていたのだ。
「クロードどうしたの! 」
クロードは、普段ソファで昼寝をしている事はある。しかし、昼寝一つも行儀正しい。品行方正な私生活をしている人の姿から、今の姿はかけ離れている。
着ているシャツは着乱れズボンからシャツの裾が半分出ている。髪もボサボサ、ソファに半身を預け、片足が床に落ちている。フルーが拾ってきたものは、クロードが脱ぎ散らかしたものだろう。フルーはソファの横に膝を着くとクロードの傍らに座った。
クロードの近くに寄ると酷く酒臭い。ただ酔い潰れているみたいだ。酔っ払いなど自分を含めてよく見る。しかしクロードが泥酔している姿を見たことがない。この魔族は、普段酒を水のように飲む。ザルを通り越してワクと言われている。それがどうしたことだ。
「ねぇ、大丈夫なの?」
フルーは、クロードの肩の下に手を差し入れると、苦しそうな体勢から少しでも楽になるよう、体の向きを横にしてあげる。クロードは、身体を動かされて言葉にならない唸り声を上げる。
「ドクターと一緒に飲みに行ったんでしょ。いったいどんな飲み方したんだよ」
「店にあったウォッカ全部……」
「はいっ? ……ぜ、全部?」
いま『全部』という単語が辛うじて聞き取れた。クロードはフルーの質問にさらりととんでもない返答をした。
「いくらなんでもそれ無茶苦茶だろ。どうしてそんな無茶な飲み方したんだよ」
「うるさい! あっちいけ」
「そうはいかないよ」
クロードは、座面で顔を押しつぶしていたのもあるが、酷い顔をしていた。
いくら室内とはいえ暖がなければ肌寒い。しかもこんな薄着で一晩過ごしたら、強靭な体躯を持った魔族でも風邪をひきかねない。
フルーはソファに畳んで置いてあったブランケットを引っ張り出すと、上に掛けて体を包み込む。まだここにいますよと合図に代わりに、ブランケット越しにポンポンと肩を二回叩く。
「水……」
それに答えたのか、リクエストがあった。
「水だね。ちょっと待って」
キッチンに水とコップ取りに行く。とりあえずコップに一杯水を汲んで戻ることにした。
戻って来るのに数分と掛からなかったと思うのだが、フルーがリビングとキッチンを往復している間に、酔っ払いはソファから落ちていた。それは最初に見つけた時よりも酷い格好だった。アルコールのせいで一時的に熱いのだろう、冷気を求めて床の上に転がり落ちたようだ。春先でも泥酔して凍死する者だっているのだ。
「……もうっ!」
フルーは近寄るとクロードの脇に両手を差し入れ持ち上げて、ソファに戻そうとしたが、いつもの身体ならまだしも酔っ払いの成人男性を、現在女性のフルーが持ちあげるなど到底無理だった。途中まで持ち上げたところで、フルーは力足らずクロードの身体ごと床に座り込む
「やっぱり無理か」
幸いなことに、押した倒された風なベタな崩れ落ち方の展開だけは免れた。
クロードはフルーの膝の上に転がった。しかしこれは世にいう膝枕というポジションなので、フルーはつい誰にも見られていないかと周囲を確認してしまう。
「クロード起きろよ! 水を持ってきたから、少し血中アルコール薄めようよ」
体を揺すったり摩ったりするが、起きる気配がない。
「ダメだこれ」
フルーはクロードの顔に張り付いた髪を指の腹でそっと掻き分けてやる。
クロードの黒い髪は日の光の中にいると紫掛かって見える。しかし薄暗いこの部屋では、黒一色。細くサラサラとした癖のないストレート。湿気を吸うとクルクルと巻く自分の髪と比べて大違いだ。『なんてクソ羨ましい』などと内心毒づく。
色素の薄い肌は、近くで見ると左側の頬に横に伸びた傷がある。これは剣の修行中につけてしまった傷だと教えてくれた。紫の瞳はいま瞼の裏に隠れていて見る事ができない。とても恐ろしい魔族のはずなんだが、今の状態はおかしくて憎めない。
――へぇ、まつ毛長いんだ。
つい見惚れて口元に笑みが浮かぶ。
――いかんいかん。
フルーは、なんとか意識をこちらに引き戻すと、クロードを起こそうと頬を手の平でパチパチと叩く。
「んっー」
返事はある。完全に意識が落ちているわけではなさそうだ。
「クロード起きろ、起きなかったら、そうだなぁ……ちゅーするぞ」
その場の勢いとは言え、フルーは自分が放った言葉に慌てる。
首から上がまるで別物かのように、温度が上がってゆく。
――うわああああ、言ってから後悔するなら、言うなよ自分!
心の中でツッコミを入れて、これ以上変な事を言わないよう口で両手を塞ぐ。
意識がない人、いや魔族を襲うなんて、なんて醜悪な。しかしだ。これは絶好のチャンスではないだろうか?
――ちょっとだけなら気づかれないかな。いやいやいや!
フルーの心の中は天使と悪魔の戦いが繰り広げられていた。
ちらりと自分の膝の上に視線を落とす。まさかフルーの膝の上にいるとはつゆ知らずよく寝ている。
フルーは自分の口を押えていた指先を、クロードの両頬に添えて、頬からこめかみのラインをとそってなぞる。そして自分の膝の上に上半身を倒し、クロードの顔を覗き込んだ。近くに顔を寄せると、さらにアルコールの匂いが強烈だった。傍にいるだけでこちらが酔ってしまいそうになる。しかしどうだろうか先程まで苦しげだった表情が気のせいか、少し安らかになっているではないか。
――ムカつく。こっちはこの数日、君の事ばかり考えて寝不足だよ。そして何かの中に君を見ては、恥ずかしさで消えたくなる。どうしてくれるんだ!
「よしっ!」
フルーは一度深呼吸をしてから覚悟を決めて息を殺す。サイドの髪がパサリと落ちるのを指先で押さえてかがむ。
三十センチ、二十センチ、あと十センチ……
しかし、クロードは唐突に目を開けたでなないか。
「っ!」
フルーは、驚きのあまり身を逸らした。息が止まるかと思った。
「お、起きた?」
完全に声が裏返っているが、冷静を装うべく声を出す。
クロードはフルーの膝の上で寝ていたことなど、気づいていなかったのか、のそのそと起き上がる。欠伸を一つして周囲を見回す。
「留守だと聞いていたからびっくりしたよ。でも居合わせて良かった。いくら君でもそれじゃ風邪をひくだろう?」
「何で俺は床の上にいるんだ」
ようやく自分が床の上にいる事に気づいたようだ。
「自分で落ちたの!」
「……そうか」
フルーに寄りかかりながら立ち上がると、ソファに腰を下ろす。
まだフラフラしているので、フルーが横に座り支える。これは役得ということにしておこう。
「なんだフルーか、いたのか」
「さ、さっきからいるよ。はい、これ水だよ」
フルーは持って来た水の入ったコップをクロードに差し出す。クロードはなんの疑いもなくそれを受け取り、コップの水を飲み干す。
――セーフ、気づかれてない大丈夫。
いつも通りでいれば、ただ様子を見るために顔を覗き込んでいただけと思われる。
「大丈夫? ずいぶん酔っているみたいだけど、ドクターと飲みに行っていたんだよね?」
「ああ、じゃんじゃん酒を注ぎやがって……どうして飲みに行ったのを知っているんだ?」
「ああ、ヴァンに聞いたんだ。今日ドクターはクロードと一緒に飲みに行ったってね」
「ふーん」
フルーは、先程自分がしようとした事を隠すために、饒舌に語る。
クロードはやはり酒に酔いにくい体質らしく、他の酔っ払いより回復が早そうだ。ほろ酔いではないが、泥酔状態は通り抜けたようだ。会話の受け答えもはっきりしているこれなら大丈夫そうだ。
「もう少し水を飲むかい? いま持ってくるから」
フルーはソファから立ち上がろうとした。しかし、クロードに左手首を掴まれて阻まれた。中腰から再びソファに戻る。
「なんで、お前がここにいるんだ?」
ここは気づいてくれなくてもいいのに、クロードはフルーが家出中であることを、ちゃんと覚えていた。
「ちょっと、荷物を取りにきたんだよ」
――君が留守だと聞いてね。
「フルーお前さ、わざわざ俺を避けなくてもいいぞ」
――へっ!
本当のことをつかれて、フルーはクロードへの回答に遅れた。
「さ、避けてなんていないよ。ただ一緒にいるところ見られない方がいいかなと思って、慎重に行動しているだけだよ」
一体何を言い出すのだろうか。確かにいない時間を狙って荷物を取りに来た。その辺りは変に勘が良い。会いたくなかったのは、フルーに原因がある。自分の気持ちを隠す自信がなかったからだ。もし自分の気持ちを伝えてしまったら、クロードに掛かる噂という火の粉を払うでななく、自ら松明の明かりに飛び込み、噂が本当のものになってしまう。フルーはそれだけは阻止しなければいけないと思っていた。
「好きな奴がいるなら、ここを出て行っても構わないんだぞ」
これは、何の話に移ったのだろうか。
「へっ? えっとそれはどういう意味かな?」
フルーはクロードの会話の意図が掴めなかった。
「その姿になったのは、誰か意中の相手でも出来たんだろう?」
「ち、違うよ」
フルーは両目を大きく見開き、向かい合ってクロードの姿を見た。その視線はこちらを茶化しているわけでもなく、本気で言っているのが分かった。
「気にするな。契約なら書き換えるし、魔力はちゃんと供給してやるから。それに他にやりたい仕事があるなら変わっても構わない」
誤解されている。
「違うってば!」
フルーは、クロードに掴まれている腕を乱暴に振り払った。
「……そうじゃないよ、僕は……」
――僕が好きなのは君だ!
喉の上までその言葉が出かけて、フルーは言葉を飲み込んだ。まるで煮え湯を飲むような苦痛と忍耐を必要とした。
この勢いで、両腕に飛び込んで違うと言えればどんなにいいか。
しかし、フルーは自分の両手を強く握り込んだ。
「馬鹿魔族! お前なんかもう知らない!」
フルーは、立ち上がるとリビングから飛び出した。
――言えない、言っては駄目だ!
フルーはその場から逃げだした。