01-03 ブーケと嫉妬
その日の朝もいつもと同じはずだった。
フルーは、前日の祝宴の席で、大いに騒いだ。途中記憶があやふやな部分もあるが、家に帰宅したのは深夜だった。帰るとすぐに布団に倒れ込んだが、興奮した脳は、フルーの意志に反し眠りの世界に行くのを拒んだ。結局数時間の仮眠が出来ただけだ。そしていつもより一時間遅く目が覚めた。
フルーはベッドからのそのそと身を起こすと、欠伸を一つする。
「今日は、絶対早く寝よう」
起きた瞬間に今日寝る事を考えるとは、笑われるかもしれないが、フルーはとても体が重く眠かった。
覚悟を決めてベッドから立ち上がると、部屋のカーテンを開けた。窓から差し込む太陽の光で目が痛い。フルーは、目を細めて部屋の中を歩く。ほとんど物がない自室は例え目を閉じて歩いても何かにぶつかる心配がない。途中帰って脱ぎ散らかしたままになっていた正装用の服が足を捕える。
「おっと」
ハンガーにかけておかなければと思いつつ、避けてそのままにする。
フルーは横着をしてパジャマのボタンを開けずに、強引にパジャマを脱ぎ捨てた。今日はいつもより髪の毛が絡まって、脱ぎにくかったが、どうにか無事頭からパジャマが抜ける。パジャマの上着はベッドの上に放り投げた。下のズボンも同様に脱いで、つま先でズボンをひっかけて投げた。
誰も朝の身支度なんて、こんなものだろう。フルーはほぼ全裸のまま、クローゼットまでヨロヨロ歩いてゆく、引き戸の取っ手を探り当てたところで、ようやく両目を開ける。
――どれにしようかな。
少々衣裳持ちになってきたフルーは、スーツを一日置きに違う物を着るようにしている。そうすると痛みが少ないからだ。毎日スーツの形と色に合わせて中に着るシャツを選ぶ。フルーはシャツを選ぶと、クローゼットの内扉を見る。
スーツを着るようになってから、クローゼットの内扉に全身が映る鏡を設置した。鏡を見ながらでないと、スカーフやネクタイを綺麗に結べないからだ。
フルーは寝ぼけ眼で、鏡に映る自分を見る。
「えっ……」
そこでようやく、自分がいつもと何かが違う事に気が付いた。しかしまだ本覚醒していない脳みそが事態を把握するのに、さらに数秒の時が必要だった。
フルーは手を鏡に着く。
「何これ……」
最初に変だと気づいたのは、髪の長さ。無精して伸ばしたままにしている髪は、背中の中腹ぐらいのだったはずだ。しかし今は腹を覆うほどの長さになっている。しかも毛質がいつもと違い、先にゆくほどウェーブ掛かっているではないか。いや、髪よりも重大な事がおかしい。
フルーは、鏡から手を離すと恐る恐る自分の体に手を置いた。手を肩口から下へとゆっくり下ろしていった。フルーの身体は、元々脂肪が少なく剣を始めてから筋肉質になっていた。そのはずなのだが……。
「ひっ」
手を胸の前まで下ろして、フルーは手を止める。そこはいつもと明らかに違う感触がある。手に伝わる感触は、柔らかく、適度な弾力があった。
フルーは、慌てて身体に絡まる髪を掻き分けて、その下の肌をみた。
――うそっ!
一瞬まだ夢でも見ているのかと思った。フルーは確認のため自分の身体を上から順番に触れた。真っ平だった胸板はふくよかに乳房があり、ガリガリだった腰のラインは曲線を描いている。裸像にでもありそうな曲線が自分の首から下についている。
そして体だけではない、フルーは鏡に映る自分の顔を改めてよく見た。元々愛らしい顔つきと言われるその顔は、フェイスラインに少し丸みが付き、頬が薔薇色に染まり、唇も赤くふっくら厚みがある
そう。フルーは男性から女性の体に変化していた。
――なにこれ、ど、どうしたら……。
フルーは鏡から後ずさる。
全身から震えが起きた。フルーは、自分の指先を噛んだ。そうでもしなければ、歯がガタガタと鳴ってしまいそうだからだ。思考は混乱してまとまらない。どうにかしようと部屋の中を見回すが、反対に目が回って気分が悪くなる始末だ。口元から指先を離し、両手で冷たい両肩を抱いて支えた。
――どうして、どうして、こんな事に。
「うわああああああああああああ!」
フルーは混乱と恐怖のあまり思わず叫んでしまった。そしてとうとう立っている事が出来ず、その場にペタンと座り込んでしまう。
――しまった!
フルーは叫び声をあげてから、自分が仕出かした失態に気づく。こんな大きな叫び声を上げれば、同じ階に寝室を持つ同居人に嫌でも気づかれる。
そんな考えが浮かんで数秒もしないうちに、部屋の廊下側から扉をノックする音がする。
「朝っぱらから何を叫んでいる。また何かやらかしたか?」
隣室でフルーの本気の叫び声を聞いたクロードが、声をかけてきた。
この時ばかりは、フルーはクロードの心配性を呪いたくなった。
フルーは、下着を一枚つけただけの、上半身裸のままだ。こんな姿を見られたら……
――絶対駄目、見られたくない!
助けを求めたい気持ちは山々だが、今の自分の姿を見られるのは困る。
震えていた体は、今度は一気に汗が噴き出て体温が上がり鼓動が早くなる。
フルーは何とか立ちあがろうと壁に寄りかかって身を支える。なぜこうも焦るかというと、フルーは自分の部屋の鍵を普段からかけていない。扉に鍵がついていることさえ忘れていたほどだ。クロードもそれを知っているので、『入るぞ』と一声掛けてから扉のノブを回した。
「は、入っちゃ駄目!」
フルーは、手に持ったままになっていたシャツを扉のクロードに向かって投げた。そして、もつれる足に力を入れて立ち上がると、ドアにタックルをかけて、開いた扉を押して戻した。
「み、見るな!」
廊下側でゴンという音がした。たぶんクロードは扉にぶつかっただろう。悪い事をしたと思うが、今は何としてもこの扉を死守しなければならない。フルーは背中で必死に扉を押し無事クロードを追い出すことに成功した。そして掛け慣れない扉の鍵を閉める。
錠がカチャンと落ちる音がする。
――よかった。
「いてっ……おい何があった! フルー、ここを開けなさい!」
追い出されたクロードは、フルーの行動を不信に思い、外から戸板を叩いている。
「クロード、いまの見てないよね?」
「……何を」
――良かった、あの一瞬では見られてないようだ。
「なら、いいよ。ちょっと待っていて、外に出る準備するから。お願いちょっとだけ時間くれないかな」
しばらくの沈黙の後。
「叫び声がしたが、大丈夫なんだな」
「うん、大丈夫。ちょっと驚いただけだから」
「わかった」
そう返事が返ってきた。なんとか説得に成功した。
――とりあえず何か着なければ。
今ので全身に血が回ったらしく、脳の思考回路が正常に戻りはじめた。
――そうだ、ヴァンに相談しに行けばいいじゃないか。
同じ鉱物人間のヴァンならフルーの身に起きた事を解説して対処法を教えてくれるはずだ。なぜ最初にそれに気が付かなかった。
――そうだよ大丈夫だ。
「うん、そうしよう」
フルーは、扉の外にシャツを投げつけてしまったので、新しいシャツをクローゼットから取り出し、裸の上半身に着込む。
「んっ……」
それは第二ボタンを留めようとした時に気が付いた。
たぶん一般女性の標準よりやや大きめの胸が邪魔をして、いつも来ているシャツのボタンが止まらない。
「えっ、まさか……じゃあもしかして!」
フルーはいつも穿いているズボン取り出してから、穿いてみた。するとどうだろう。太ももより上にズボンが上がらない。
「これもだめか」
フルーの身長、手や足のサイズなど、全体的なサイズは変わっていない。しかし骨格が変わり肉付きがよくなっているため、スリムだった男性の時の服が入らなくなってしまった。反対にウエストなどは細くなっている。男性の時は真っ直ぐだったとすると、今のフルーは瓶のような曲線を持った体になっている。
「そうだ、あれならいけるかも」
数年前に記念に貰ったジャンバースカートの存在を思い出した。
一縷の願いをかけて、スカートを穿いてみたが、結果は同じ。細い体の時に女装用に着た服が入るわけない。
「ううううう」
このままでは外に出られない。
――仕方ない。
フルーは、部屋の扉の前に行く。
「クロード、まだそこにいる?」
「いるが」
「悪いけど、君の服を一式貸してくれないだろうか」
「なんで、俺の服が必要なんだ?」
「それは言えない。どうか、どうか貸してくださいお願いします!」
数分の静寂の後、『持ってきたぞ。あとはどうすればいいんだ』という声がした。フルーの真剣な声に、クロードは気圧されたのか、素直に自分のシャツとズボンを持って来てくれた。
フルーは、扉の鍵を開けると扉の隙間からそっと手だけを出した。
クロードは、フルーの手に服を持たせてくれた。ここで無理に扉を開けようとしない事に感謝する。
フルーは再び扉に鍵を閉めると急いで、クロードのシャツとズボンを身に着ける。予想どおりこれなら着る事が出来る。
シャツは袖が長いし、着丈も長く、肩幅も違うので、ボタンを一番上まで閉めていても、肩のラインが合わない。ズボンの丈は長くウエストはブカブカ。どこをとっても不格好だ。しかし今は贅沢を言っていられない。フルーは、長い髪を一つにまとめると自室の机で書き物をする時使っているひざ掛けをショール代わりに肩にかけた。
そして扉の前に進み、扉のノブの上についている鍵を指でつまむ縦に戻す。カシャンと鍵が解除される。
「あのさ、これから扉を開けるね。たぶん驚くと思うけど……」
「準備は出来たんだろう。さっさと出て来て、説明してもらおうじゃないか」
「あっ!」
フルーの心の準備が整う前に、扉が開く。
フルーの一連の不可解な行動に、しびれを切らしたクロードが扉を開けた。
両者を阻む板がなくなり、姿が露わになる。
部屋の外の廊下には、仏頂面のクロードが立っていた。クロードは、部屋の入口に立っているフルーの姿を見た。さすがいつも冷静なクロードでも少し驚いているようだ。眉間に皺を寄せて、瞼は瞬きを繰り返している。フルーはそんなクロードから視線を逸らしうつむく。
「……どうしたらその姿になるんだ」
クロードは、第一声を何とか絞り出したようだ。
「分からないよ……朝起きたらこうなっていて、驚いて……それで叫んだ……叫んだのはそれが理由」
「……そうか、なるほど」
「うん」
フルーは稚拙な文章のような言葉で、経緯を説明した。クロードはその説明でも、フルーの姿を見たことで全てに合点がいったようだ。
「それで、俺の服をよこせと言ったのは、自分の服じゃ、その大きな胸と尻が入らなかったのか?」
クロードは、フルーが服を貸せと言ったのかの理由まで推測してしまった。
「なっあああ……」
フルーは自分の身体のラインをひざ掛けで隠している。いくらクロードの観察眼が鋭いとはいえ、フルーの変化したボディラインをこう易々と見抜けるわけがない。
――まさか!
フルーは顔から火が出るかと思うほど血が登る。この熱の帯び具合だと、真っ赤になっているだろう。
「や、やっぱり、さっきの一瞬で見たな! 見てないってのは、嘘かよ!」
そうとしか考えられない。このブカブカな服でそこまで推測できるなら、この魔族は透視か何かが出来るのだろうか? フルーはひざ掛けを両手で握り締めると数歩後ずさりする。その両目には薄ら涙が浮かんできている。
「……あれは言葉の綾だ。そうでも言わなければ収拾がつかないだろう」
クロードは、フルーの裸を目撃してしまったことをさらりと白状する。
――み、られ……た、見られた!
フルーは、特大の悲鳴を上げる。男性の時とは違う、高音の声がフルーの喉から響く。クロードは迷惑そうに顔をしかめる。
「クロードのむっつりスケベ!」
「なっ」
そして、目の前の魔族に特大の捨て台詞をぶつけたかと思うと、脱兎のごとくクロードの前から逃げていった。
たまたまその場に居合わせてしまっただけのクロードは、大変不本意な称号を与えられ、廊下に一人取り残される形になった。
「っておいフルー、その恰好でどこへ行く気だ!」
フルーは階段を駆け下りていると、後ろから声を掛けらえた。
「どこって、ヴァンにこの状態を聞いてくるんだよ。僕に付いてくんな!」
フルーはショール代わりのひざ掛けを頭まで被ると、玄関を飛び出した。
「ちくしょう」
泣き顔で鼻が赤くなっているに違いない。それでも構わない、今は一刻も早くこの場から去りたい。