01-03 風と嵐
ドクターシュラールの診療所は、二階建てだ。
この建物は、普通の民家とは少し様相が異なる。歩道側には、ガラス張りの玄関扉が二枚据えられている。これならば、担架に人を寝かせたまま出入りが出来るだろう。その玄関扉を開くとすぐに受付兼待合室がある。その奥に診察室、処置室があり、建物の裏手には、入院患者用の大部屋と重症患者用の個室の部屋がある。一階だけでローレン宅の四倍はあるだろうか。
「さてどうしたものか……とりあえず、その荷物を持ってこっちに来なさい」
ドクターは、ぼんやり室内を見ていたヴァンを呼び止めた。
「あ、は、はい!」
ヴァンは、自分の荷物を持ち上げた。荷物といっても着替えが数枚入った鞄が一つだ。
ドクターは、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。ポケットからは鎖のついた鍵が出て来た。その鎖はズボンのベルトに引っ掛かっている。
「こっちだ」
ドクターはヴァンの前を歩くと、待合室の隅の方へ連れて行く。気づかなかったが、目立たない位置に扉が一つあるではないか。ドクターはその扉を今取り出した鍵で開けた。扉の先には、なんと階段が隠されていた。
「この上が俺の住居だ」
ドクターはそう言うとヴァンを置いて、さっさと階段を上りはじめた。ヴァンはその後を続く。
説明通り、二階は住居だった。玄関はなく、いきなりダイニングが姿を現す。二階にも水道設備が引かれているらしく、小さいながらもキッチンがある。しかし、お世辞にも綺麗ではない。
リビングらしき空間は、ソファーの上に脱ぎ散らかした衣服が山になっている。そしてキッチンのテーブルにはありとあらゆる食器が積み重なっており、その間には空の酒瓶と煙草の吸殻も見受けられる。
「キッチンはそこ、トイレ洗面は一階だ。共有スペースは自由に使っていい」
ドクターは、部屋の間取りを簡単に説明してくれる。
「ここは俺の部屋だ。ここは、勝手に入らないこと」
リビングを通り過ぎた先にいくつか扉がある。ドクターはその一つを指差した。
「はい、わかりました」
ヴァンは、素直にそう答える。
「あとは、こっちは書庫と薬剤保管室だ。書庫は興味があるなら、見てもいい。ただその隣の薬剤室は勝手に中のものは触らない! 量を間違えると毒になる薬も含まれているからな。いいなこれは約束だ」
ドクターは、ヴァンの前に立つと厳しい顔でそう告げた。
「はい、気を付けます」
「よし、後は特に……自由にしていい」
二階はどうやら一階よりは狭いようだ。しかしドクターの一人暮らしでは、広すぎるのではないだろうか。
「あとは、オニキス……」
「ドクター、今日からヴァンです」
ヴァンは自分の名前を訂正する。ドクターは、コホンと咳払いを一つしてから、ヴァンと呼び直す。
「はいドクター!」
「……ヴァンはこの部屋を使うといい、ずいぶん掃除をしていないから、悪いが自分で使えるようにしてもらえるか」
ドクターの部屋の丁度真向いの扉を指差した。
「はい、ありがとうございます。もちろんです」
「他に質問はあるか……」
「大丈夫です」
ヴァンは、自分の荷物を置こうと、ドクターに使えと言われた部屋のドアノブを回した。
「あれ?」
錆びついているのだろうかノブが回らない。ヴァンは何度目かのチャレンジでようやくノブが回り、扉を押し開く事が出来た。しかし今度は扉の蝶番がギギーギーという異音を発生させる。この扉はずいぶん油を差していないのだろうか。
扉を開けようやく見えた室内は、ベッドと勉強机、その横には大きな本棚が置いてある小部屋だった。
本棚には、男の子の玩具と、大小様々な本がたくさん詰め込まれている。しかし、この部屋はいつから使っていないのだろうか、部屋全体が埃で埋もれてしまっている。人が中に立ち入った形跡さえない。
ヴァンは、埃を吸わないように手で口を塞ぐ。
「あのドクター、ここは誰かの部屋じゃないんですか?」
ヴァンは、振り返りドクターに声を掛けた。ドクターは扉の外に立ってヴァンの様子を見ていた。
「ああ、ここは俺の息子の部屋だ」
「ドクターの息子さんですか?」
ヴァンは、本棚に飾られていた写真を見つけた。
――これは。
写真には、若い頃のドクターらしき人が映っていた。そしてその横に看護師の制服を着た女性と、二人に挟まれて小さな男の子がこちらを見て笑っている。いつごろ撮られた写真だろうか。写真立てに入っている写真は少し色あせている。
ドクターが写真を見るヴァンの横にやってきた。
「その写真は、俺の嫁さんと息子だ……二人とも十年前の疫病で……」
「えっ」
ヴァンは聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。
「……亡くなられたんですか?」
「ああ、息子の方は、ちょうど今のお前さんぐらいの背格好だったな……俺は医者なのに一番近くにいた家族を助けられなかった」
ドクターは本棚に飾られている数枚の写真を見回す。
「……どんな方だったんですか?」
「息子のエリックは勉強が大っ嫌い、遊んでばかりでいたずらだけは得意、でも人に好かれる性質で友達が多かった。俺はいつも勉強しろと叱ってばかりだったな。嫁さんは看護師だった。この小さな診療所を切り盛りしてくれて……俺の一目ぼれだったな。初めて会ったとき俺はこの人と結婚するんだと思ったよ」
ドクターは、サイドボードに置いてある写真を一つ取り上げ、それを見てため息をついた。
その写真には、黒髪少年エリックともう一人青い髪の少年が仲良く隣り合って映っている。二人とも実に腕白そうだ。
「十年か……そうだよなアイツがあれだけデカくなったんだからな……それくらい経つか」
ドクターは写真を見ながら何か独り言を言っている。ヴァンはドクターがなぜ自分にこの部屋を使えと言ったのか理解が出来なかった。ここは亡くなった息子さんの思い出が一杯詰まった大切な場所だ。この部屋中の埃を見れば分かる。息子さんが亡くなってから、今までずっと手を付けずそのままにしていたのだ。
「あの、この部屋は私などが使っていい部屋ではありません。だから……」
「……いや、やっぱりこの部屋はヴァンお前さんが使ってくれ。それでここにある物を出来れば使ってくれないか」
「本当にいいんですか?」
「おうよ」
ドクターは吹っ切れたように言うと、写真を本棚の上に戻した。
「それがいい。その方がエリックも喜ぶだろう。アイツはそういうヤツなんだ、友達も自分も一緒みたいな子だったからな。あと掃除もよろしくな。まさかこんな汚いとは思ってもみなっ、へほぉん!」
ドクターは、埃を吸ったようで咳き込む。
――本当にいいのだろうか。
ヴァンは、咳き込むドクターを連れ立って部屋を出た。使っても良いと言われても、これでは掃除が終わるまで使えそうもない。
――しばらくは違う所で寝ないといけませんね。
「さあヴァン、うちは見ての通りこういう事情だ。俺にはローレンや花ちゃんのように、お前さんを上手く構ってやる自信はない。診療がはじまれば、お前さんの相手は二の次になるだろう」
「はい」
「あれこれは言わない。周囲を見て自分で考えて行動しなさい」
「努力します」
「あと、最後にこれだけは言っておく。ここが嫌ならいつでもローレンの元に帰っていい、だが居たいなら居て構わない、さっきローレンが話していたように、診療所は万年人手不足だ。しっかり働いてもらうぞ」
――働く!
ヴァンはドクターからはじめて『ここで働いてよい』というお許しを貰った。
「はい、任せてください」
ヴァンは少し気持ちが高揚した。それはこれから何かが始まる期待がそうさせているのだ。ヴァンは手に持っていた鞄を床の上に置くと、ドクターと一緒に一階へと降りて行った。
シュラール診療所は、住み込みのドクターと数人の通いのスタッフで経営されている。看護士の女性が五人。薬剤担当の男性スタッフ二名、彼らには、女性では難しい力仕事もしてもらっている。入院患者がいる時は、二十四時間体制でローテーションを組んで対応をしている。ヴァンは、まさかこの小人数で医院を切り盛りしているとは思いもしなかった。
その中で医師はシュラールドクター一人だ。数年前までベテランのドクターが数人居たそうだが、街の中心の病院から応援要請に駆り出されたまま、こちらに帰って来られなくなっているそうだ。
「あのおばあちゃん、順番は次ですよ。診察室の前でお待ちくださいね」
ヴァンは、初日から手伝いを買って出た。
少しでも何かをして、慣れようと思ってだが、医療の知識がないヴァンに出来る事は少ない。手初めに受付を手伝うことになった。知らない人と話すのに苦手意識があるヴァンにとって、それはハードルが高い仕事だった。しかしせっかく自分に仕事をさせてくれたドクターを落胆させてしまう方が嫌だったので、勇気を奮い立たせて頑張った。
「ヴァン君、助かるわ。午前中のこの時間が一番混むのよ。お年寄りや怪我の人が多いから、大きな声で呼んで誘導してあげてね。ゆっくりでいいから」
年長スタッフの女性が、ヴァンの指導役に付いてくれた。彼女が一から丁寧に教えてくれるため、ヴァンはすぐに仕事の手順を覚えられた。
「はい、わかりました」
ヴァンは、本当に久しぶりに働いた。
ヴァンがアルデゥイナに来てから、約二カ月が経つ。
クロード宅にお世話になっている間、身の回りの事のほとんどをフルーがやってくれたため、一切働いてはいなかった。ヴァンは人間領に着いた当初、環境の変化についてゆけず寝込んでしまった。
そんなヴァンを心配したフルーは、せっせと世話をしてくれたのだ。本当は自分の事は自分でしたいと思っていたが、身体が思うように動かなかったので、甘えることにした。
――それに、甘えるのは結構悪くはないものです。
ヴァンは、夕方になる頃には、人と話す事もだいぶ慣れてきた。
そしてこの診療所内には、探せばヴァンが出来そうな仕事は結構見つかった。
入院患者のシーツを洗ったり、消毒が済んだ包帯を巻いて棚に戻したり、やれることを見つけてはチャレンジしてみた。そうしているとあっという間に夕食の時間となる。夕飯はドクターがクロードとフルーを呼んで近所の食堂で一緒に取る事になった。ヴァンは今日やった事をフルーに話して聞かせる。フルーもそれを嬉しそうに聞いてくれるのだ。
そんな日々が一日一日と積み重なってゆく。経験の蓄積は、ヴァンに自信と生きているという実感を与えてくれていた。
しかしそんなある日。診療所に急患の知らせが舞い込む。
「ドクター大変だ! 港の第二区域の工場で事故だ!」
作業着姿の男性が、診療所の待合室に息を切らしながら駆け込んできた。
「状況は!」
ドクターは、知らせを聞き診察室から飛び出した。
「重傷者がかなり出ている。たぶん中央病院じゃ手が回らない。いま街の医者に声を掛けて回っているところだよ」
状況は、深刻なようだ。
「分かった、俺もすぐ出よう。みんなすまないが今日は休診だ」
ドクターは待合室にいたスタッフと患者達に大きな声で知らせた。
「はい、こちらは任せてください」
スタッフの全員が、そう答えてドクターの出かける仕度を手伝う。
「ドクターいってらっしゃい、気を付けてね」
患者達も心得ているのか、突然の休診にも慌てない。反対にドクターの身を案じている。
「私も何か手伝います!」
ヴァンも、自分も何かしたいとドクターに申し出た。
「お前は留守番だ」
一度は断られる。
「たぶん荷物持ちぐらいしか出来ませんが、お役に立ちたいんです!」
ドクターは救急作業用白衣に着替えながらヴァンを見下ろした。
ヴァンの黒い瞳が、ドクターをじっと捉えていた。
「……なら、その持ち出し用の医療道具を持ってついて来い!」
ドクターはそういうと、診療所の玄関へと足早に出て行く。
「グズグズするな!」
「はい!」
ヴァンは、ドクターに言われた荷物を持つと、ドクターの後を追った。
――やりました。
ヴァンはドクターに『ついて来い』と言われたのがなんだか嬉しかった。自分もちゃんと役に立てるじゃないか。こんな自分を少しだけ誇らしく思えてしまう。
しかし、その考えはすぐに打ち砕かれる事になる。
「……あっ」
そこには、想像していた以上の光景があった。
事故現場は、惨憺たるものだった。原因はよく分からないが、工場内で何かが倒壊したようだ。石畳の道には工場内から救出されてきた人々が、血を流し苦しみの声を上げていた。中にはもはや声さえ上げられない人もいる。
――なんだろうこの光景、見たことがあります。既視感にも似たこれは、そうだ地下に居た時の……
ヴァンは、腐った血肉の匂いが充満していたあの地下の岩牢が目の前にフラッシュバックしていた。
――あっ……。
ヴァンはアルデゥイナに来て、全てを忘れたわけではない。いつも片時も忘れたことはない。最近はあの場所での経験を生かして、診療所を手伝えるかもしれないという希望さえ持っていたぐらいだ。
しかし、これは一体……ヴァンの身に何が起きたというのだ。視界が歪む。
ヴァンは自分の呼吸が浅く少しずつ早くなってゆくのに気が付いた。呼吸がままならない。呼吸が整わないと手が震えて鞄を持っているのが難しくなる。
ヴァンは服の上から胸を押さえた。
――大丈夫、ちゃんと呼吸をすれば元に戻ります。
事故後周辺は土煙が舞い上がっている。空気の悪さと血の匂いがそうさせているのだとヴァンは自分に言い聞かせた。しかし、ヴァンはとうとう歩みを止めてしまった。
――助けて……もうここには……。
「ヴァン、怖気ついているなら、帰れ! ここは一分一秒が命取りの世界だ。動けない奴はいらん!」
――っ!
ヴァンの耳の近くで、ドクターの怒鳴り声が響いた。ヴァンは、ドクターの檄のおかげで視界が晴れて我に返った。
まるで白昼夢を見ていたようだった。
「は、はい! すいません」
慌てて医療キットを持ち直すとドクターの背をしっかり見た。
「もし、この場でお前が倒れたり吐いても、構ってられん捨てていくぞ」
ドクターは、ヴァンにはっきり『捨てて行く』と宣言をした。
「すいません、血の匂いに酔いました。吐いてもついていきます!」
ヴァンは咄嗟にドクターの言葉に言い返した。
「よし、根性はあるな」
――大丈夫、まだ望みがある人を助けるんです。あの場所とは違う、違う!
ヴァンは、震える手を握り込んで、ドクターの背を見失わないようついて回った。
人を助けるため、そして自分自身を見失わないため。