03-01 ダイヤとオニキス
マリウスは、薄暗い建物の中にいた。
そこは石の壁で囲まれた通路だった。窓というものがなく、外の日の光が入ってこない。通路には松明の炎が燃え、辛うじて通路を照らしていた。
マリウスは、大きな荷物を引きずりながら通路を進み、行き止まりにあった木造の扉を開けた。
「おーいパトリスいるか」
マリウスは戸を開けた後に、中にいる人物に来訪を知らせた。中も通路と同じく薄暗く視界が悪い。
「マリウスちゃん? あら、いつ人間領から帰ったの? 言ってよ」
低い男性の声が室内に響いた。
「今しがただよ」
「そうなの、じゃあ一緒に食事でも、どう?」
パトリスは食事中だったようだ。薄暗い部屋の中央に広い食卓が据えられていた。その卓の上には所狭しと御馳走の皿が並んでいる。おかげで席の向こうの人物が見えないほどだ。
「遠慮しておくよ」
「あらそう」
マリウスは、奥に進むと小山の如き肉塊の横で立ち止まった。
「あんた相変わらずよく食うな」
「唯一の楽しみなんだから、いいじゃない」
この肉の塊から短い手が伸び、食卓の食べ物を素手で掴む。食べ物を掴むと手当たり次第に食い散らかす。これでは食べる量より、床の上に落ちる量の方が多いのではないだろうか。
「汚ねぇな」
この太った人物がパトリスだ。
はっきり言うとパトリスの外見は化け物だ。醜く太った体は、通常の服が着られず、布を袋状にしたような作りのワンピースを着ている。身体と顔の比率は九対一ぐらいだ。それだけでも笑えるのに、頭髪は背中の辺りまで伸ばし、顔には厚化粧が施されている。
マリウスも目立つ外見をしていると自覚はあるが、このパトリスの前では、自分は地味に思えてしまう。それほど、パトリスは不気味でインパクトのある容姿をしていた。
「パトリス、あんたの馬鹿部下が逃がした宝石全部回収してきたぞ」
「ご苦労様。マリウスちゃんの手を煩わせちゃってごめんなさいね。怒っているわよね」
「別に」
「あら、そうなの」
「今回はちょっと愉快な事があったから、帳消しにしてやるよ」
――ざまあみろ。
マリウスは剣の柄を手の平で弄びながら、笑みを浮かべる。マリウスの記憶の中でクロードは一、二を争う憎たらしい人物だった。その彼に一泡吹かせられた事は、大収穫だった。まだこの手には、その時の余韻が残っている。
「珍しくご機嫌そうね、良い事があったのね」
「まあね、それより確認してもらえるか?」
マリウスは、懐から薄い小箱を取り出した。そして、箱の蓋を開けると中身をパトリスに見せた。
パトリスは、手にしていた食べ物を床の上に打ち捨てると、胸元と腹にかけていたナプキンで口元と指先の汚れを丁寧にふき取り、小箱を受け取る。小箱の内側はビロードの布で内装されており、その中には、色とりどりの宝石が納まっていた。
パトリスの太い指では、宝石を掴むことは出来ない。しかし、彼はその事には慣れているようで、悪趣味なネイルで装飾された爪先で器用に宝石を摘み上げる。
「やっぱりどれも最高級レベルね。境界違反のリスク背負って人間領に行って正解! サファイア、ルビー、エメラルド、うん、どの子も綺麗! …………あら、マリウスちゃん一つ足りなくないかしら?」
パトリスは箱の中身を爪先で何度も数え直す。
「そうそう、忘れていた。一体だけ、体が残っていた奴が居たけど、問題ないよな」
マリウスはそう言うと、ここまで床の上を引きずって持ってきた荷物をパトリスの方に投げつけた。それは汚れた布で出来た人の身体ほどある頭陀袋だった。
床の上に放り出した衝撃で袋の封が開く。その袋に押し込まれていたのは、フルーだった。
「あらそう、まだ魔力切れを起こしていない子がいたの。しぶといこと。でも良かったわ。その子が一番希少価値の高い子だったからハラハラしちゃった」
マリウスは、地面に転がるフルーを覗き込む。
「こんな小便臭いガキが、か?」
「本体は熱処理されていない大粒のイエローダイヤモンドなのよ、凄く貴重な鉱物だから磨けば高値が付くわ」
「あっそ」
マリウスはパトリスの説明を聞き流した。しかしパトリスはマリウスの行動を咎めようとはしなかった。
「……相変わらず金銭事には興味ないのね。まあマリウスちゃんのそういう所を買って、今回の仕事頼んだんだけどね」
パトリスはそう言うと、気味の悪い裏声で笑う。
パトリスは、マリウスの雇い主だ。彼は、盗掘、境界違反、殺人、人身売買と、悪事と呼べる全てを取り扱う集団を統括している。鈍くさい外見に反して、かなりのやり手だ。マリウスは、適当に言われた仕事をしているが、多少の選り好みはさせてもらっていた。マリウスが興味を持つのは、血が踊るような戦いと、他者を虐げる行為だ。パトリスもそれを心得て適材適所に起用した。
今回の仕事は畑違いであまり気乗りがしなかった。しかし、日頃世話になっているパトリスから直接指名を受けたため、渋々引き受けた。結果楽しい事があったので、良しとする。
「……パトリス、僕はこれで失礼するよ」
「待って、この子をいつものように処理をお願い出来るかしら」
パトリスはそう言うとネイルを施した爪で、床の上に転がるフルーを指差した。
「もちろん、それこそ僕の専門さ……楽しくやらせてもらうさ」
マリウスはそう言うとクツクツと笑い声を上げる。そして床の上に転がるフルーの襟首を掴んで持ち上げると、パトリスに背を向けた。
「……そうだ、こいつしばらく魔力が抜けないと思うぞ、魔力を与えた相手が少々厄介だったからな」
「マリウスちゃんに任せるわ、好きにやってちょうだい。あ、でもでも、くれぐれも本体は傷つけないでね。それと最近オニキスがおいたが過ぎて困っているの。そっちもお願い出来るかしら」
「了解、オニキスの方もちゃんと躾けてくるよ。また何かあったら呼んでくれ」
「お願いするわ」
マリウスは、フルーの身体を引きずりながら、再び暗い通路へと足を踏み入れる。
* * * *
――頭が痛い、気分が悪い、全てが最悪だ。
身体を打ち付ける痛みと冷たさが余計に症状を悪化させる。フルーの意識は戻りかけていた。近くで誰かが話をしている。しかし、その会話の内容までは分からない。
「よう、御姫様やっとお目覚めかな?」
目を覚ましたフルーの視界に飛び込んできたのは、自分を見下ろすマリウスの薄笑い顔だった。
フルーはマリウスの顔を見て、意識が完全に繋がった。
「マ、リウス……よく、も!」
喉が酷く乾いて声が上手く紡ぎ出せない。まるでアルデゥイナで最初に目を覚ました時のようだ。喉の奥が張り付いて痛い。フルーは衝動的に体を起こし、マリウスに飛び掛かろうとしたが、マリウスはフルーをひょいと横に避けると、剣の柄を使いフルーの肩を地面の上に打ち付け抑えつける。
「ぎゃっ」
「あはは、まだ元気そうだな。これはいたぶりがいがありそうだ」
フルーは威嚇のつもりでマリウスを睨み付ける。しかしそんな行為はマリウスを喜ばせるだけだった。
フルーは、なんとかマリウスから逃げ出せないかと周囲を見回した。そこは大きな岩ばかりが転がる土地だった。首を上にもたげると青空が見えた。ここは屋外だ。
――えっ、空が、青い……?
当たり前のことだ。しかしフルーはその事に混乱した。確かフルーが気を失う前に見た空は、夕暮れの空だった。
あれからどれくらいの時間が経過したのだろうか。
――そうだ、クロードは……
フルーが最後に見たクロードの姿は、彼が血の海に沈む姿だった。
「あっ……」
フルーは思い出して、急に体が震え出した。そして胸がチクチクと痛み出す。
「あれぇ、どうしたの? さっきまでの威勢の良さはどうしたのかな?」
マリウスがフルーの変化に気づく。フルーは下唇を噛み締め再びマリウスを睨み付ける。
「マリウス、クロードは……無事なんだろうな!」
マリウスは、フルーの言葉を聞くと吹き出し、笑い声を上げる。
「あははは、あのさ君、この状況理解出来てる? 他人の事より自分の事を心配したら?」
「どうなんだ!」
「知ぃらない。止めは刺してないけど、まともに魔法食らってたし危ないんじゃないの?」
――止めは刺していない? それなら、きっと……いや、クロードは大丈夫だ。
フルーにはそんな確信があった。アルデゥイナには偏屈だけど、腕の良いドクターがいる。ドクターが何とかしてくれる。
フルーは、震える手で痛む胸を服の上から掴んで、落ち着かせる。落ち着かなくてはならない。今度は自分の事を考えないと、いま窮地に立っているのはまさにフルー自身なのだから。
「マリウス、ここはどこだ! どうして僕をさらった」
「あれ、もうクロードの事はいいの? ふーん、芝居かと思ったけど、君さ本当に記憶がないんだ……」
マリウスは、フルーの様子を一瞥してから、何を思ったのか、フルーの前に腰を下ろした。
――やっぱりだ。マリウスは僕の事を知っている。
フルーがマリウスを知らないという事は、フルーは記憶を失う前にマリウスと会っている事になる。フルーは自分の正体を知る手がかりを見つけた。しかし、どうしてだろうか、マリウスを前にすると気分が悪くなる。今も警笛が鳴っているような耳鳴りが止まない。フルーは自分の耳を引っ張り、うるさい耳鳴りを抑えようとするが、そんな事では止まない。
――聞いてはいけない。そんな警告にも聞こえる。
だが、フルーは今この場で、情報を得なければ、次の一歩が踏み出せないとも感じていた。選択は一つしか残されていない。
「どういうことだ」
フルーはマリウスに質問を投げかけた。
「僕は親切だから特別に教えてあげるよ。まず、ここはどこかだけど、魔族領だよ。しばらく魔法で眠らせて運んできたんだけどさ……」
「魔族領だって!」
フルーは周囲を見回した。しかし、フルーの今いる場所は岩で囲まれており、景色さえ碌に見る事が出来ない。固い黒い岩で覆われ、空が見えるだけだ。空や大気は人間領と何ら変わりはない。
「信じられないという顔だね。まあこんな殺風景な場所じゃ仕方ないか。悪党達の隠れ家だからね、周りは何もないんだよ。店の一つくらいあってもいいのにさ……」
マリウスが与える情報は、フルーを混乱させるばかりだ。フルーは、アルデゥイナから外の世界を知らない、まして魔族領内がどういう物なのかも知る由もない。
「それと、どうして君をさらったかだよね。それは……君が探していた宝石だからだよ」
「何言っているんだ、僕は人間だ!」
「なんだ、それも覚えていないのか、君は自分を人間とでも思っていたようだけど……君は人間じゃない、鉱物人間だよ」
マリウスは、唐突にフルーにとんでもない事実を告げた。
――何を言っているんだ。僕が『人』ではない?『鉱物人間』だって?
意識を失う前、フルーはその単語を聞いたような気がする。『鉱物人間』とは一体何なのだろうか。
「……そ、それは何だよ」
フルーは反射的に質問をしていた。
「鉱物人間ていうのはね……精霊の一種だよ」
「せ、精霊?」
この世界には、人間と魔族の他に精霊という種族が存在している。精霊も魔族同様自分達の領土に引きこもり、今では姿を確認することも出来ない。精霊は自然と共に生き、人や魔族が立ち入れない深い奥地に隠れ住んでいる種族だ。
――僕が精霊?
「精霊は自然から発せられる魔力で生まれる生命体だよ。君の場合は、地中に眠る鉱物から発生した精霊で、イエローダイヤモンドが核らしいよ。珍しい宝石だから結構な高値で売れるんだってさ。良かったね」
「そんな……嘘だ!」
フルーはマリウスの言っていることに納得できなかった。マリウスは、突然フルーの顎を掴むと顔を自分の方に向かせた。
「嘘なものか、この精霊特有の男か女か分からない外見といい、そして……まあいい、自分の身で体験してみるんだね。すぐに自分が人間ではないと気づくさ」
マリウスは、フルーの顎から手を離すと、今度は胸倉を掴み体を持ち上げた。
マリウスとフルーはそんなに体格差があるわけではない。だがフルーの身体は軽々と持ち上げられた。マリウスの圧倒的な力の前にフルーは抵抗する事が出来ない。
「離せ!」
「それは出来ない相談だね」
マリウスは、フルーを立たせると、岩地の上を引きずるように歩かせた。そしてしばらくすると立ち止まった。
「この下が丁度いいかな」
フルーは、頬に冷たい風を感じだ。
――風、どこから?
風は下から上へと吹き上げていた。
フルーは気づいた。風は地面の下から吹いてくる。ここは一面岩ばかりの場所だと思っていたが、そこには地面がなかった。地面の変わりに、円形状にぽっかりと穴が開いているではないか。どれくらいの深さがあるのだろうか、底は見えるが目視ではその深さは測れない。
「これから、何をすると思う?」
フルーは、眼前に広がる穴を見た。そしてもう一度マリウスの方を見た。マリウスの血色の悪い顔がフルーを見てニタリと微笑んだ。
――まずい。
直感が警告をしている。フルーは、十中八九ここに突き落とされる。背筋に悪寒が走る。
「止めろ……」
フルーは、消え入りそうな声で懇願した。今自分が出来る事はもうそれくらいしか残っていない。
しかし、マリウスはフルーの懇願を気味の悪い笑顔のまま、聞き流す。そしてフルーを穴の際まで追い立てる。
「大丈夫、鉱物人間なら死なないから」
――死なない? どういう事だ。
「あ、そうだ。僕としたことがさっきの説明少し間違えていたよ。ごめんごめん訂正するね。鉱物人間は『元精霊』だったよ。鉱物人間は、魔族の奴隷の呼称だった」
マリウスはそう言うと、何の躊躇も予告もなくフルーの背を押し、穴に突き落とした。
「奴隷はさっさと、身分相応の所に落ちろ!」
「わあっ!」
フルーの身体は重心のバランスを失い、空中でくるりと回転した。突き落としたマリウスの姿が見えた。楽しそうにこちらを見ている。しかしその姿はすぐに視界から消え、変わりに空が真ん前に見えた。遠ざかるでもなく近づくでもない青い空。
フルーは空に向かい両手を伸ばすが、指先が宙をかくだけで何も掴めない。落下はほんの数秒の事だったが、酷く長い時間に感じた。せめて意識がなくなればどんなに楽だろうと思ったが、世界はスローモーションのようにコマ送りで進む。
フルーは身を強張らせ、瞼を固く閉じて、次に襲ってくる事に備えるしかなかった。ドスンッという衝撃音が耳元で響く。それはまるで港で船から荷袋を下ろす時の音に似ていた。フルーは洞窟の底にたどり着いた。
背中から落ちたため、まだ空が見えている。落とされた穴の形が丸く広がり、その中に青い空がある。何故だろう、雲一つない青空はとても綺麗だ。
「……ははっ」
フルーは、そっと声を出してみた。だがすぐに咳き込み大量の血が口や鼻から吹き出す。瞳から血の混じった涙が伝う。
「うっううっ……」
先日の怪我が可愛く思えるような痛みが襲い掛かってきた。フルーは、冷たい地面に頬を付け、口の中の血を地面の上に吐き出した。血が気管を塞ぎ息が出来ない。
フルーは生温い物が背中に広がるのを感じだ。岩にぶつかり、出血をしたのだろう。もしかしたら骨が折れて肉が飛び出して……それ以上は考えたくはない。
「いた……い……」
痛いのは生きている証拠と治療中ドクターによく言われたが、この痛みはなんだろう。ただ底なしの絶望しかない痛みだ。痛みに狂いそうな精神と、どこか冷静に分析する一面が共存していた。
フルーは、諦めず体を起こそうとした。しかし少し身動きをするだけで激痛が走る。動くのは断念するしかなかった。
――誰か……助けて……
この痛みを、苦しみを、終わらせてほしい。例えそれが、自分の死を意味する事になっても……
フルーは心の中で願った。しかしフルーの意識は、なかなか途切れず、苦しみが続く。
――ならばこのまま、眠ろうか。
フルーは瞳を静かに閉じようとした。しかしその時、目の隅に黒い影が横切った。閉じかけの瞳を動かすと、そこには無数のネズミが身体の周りを取り囲んでいた。
血の匂いを嗅ぎつけてきたのだろうか。最初はフルーから流れ落ちた血を舐めていたが、それに飽き足らなくなれば、フルーの服から出ている皮膚に食いつく。
「うわああ!」
木に穴を空けるほどの鋭い牙がフルーの全身に襲いかかる。フルーは、まともに動かない手足で必死にネズミを払いのけた。しかし多勢に無勢、弱った体では肉を奪い取ろうとするネズミを払い落とせない。
この牙に喉を食い千切られたら終わりだ。
――これで終わるのかな。
このネズミたちは死に損ないを処理してくれるのだろうか。彼らにとって自分は絶好の食糧なのだろう。
フルーは抵抗するのを諦めた。
しかし、そこに赤い光る何かが飛んできた。カランという乾いた音がしたかと思うと、フルーの身体に纏わりついていたネズミが散り散りに逃げ惑う。
フルーは音のした方に視線を動かすと、そこには火のついた松明が落ちていた。
――明かり?
動物は火を怖がる。こんな暗がりにいたネズミならば、尚更かもしれない。
それからしばらくして、何かが小走りに近づいて来る音がした。
「少し我慢してください!」
近づいて来たのは人だった。声が高い。まだ子供か女性だろうか。フルーは目を凝らして声の方に視線を向けるが、目の焦点が定まらず見る事が出来ない。その人はフルーの背に腕を差し入れると、身を起こしてくれた。
「ネズミに食い尽くされたくなかったら立ってください! 早く!」
それはかなり難度の高い注文だ。
フルーは、身を起こされただけで全身に激痛が走り、意識が朦朧としてきた。さっきまで意識が途切れずに苦しんだのに、この肝心な時になんてやわな意識だろう。最初痛みは熱さに似ていたが、今度は寒気がする。血を流し過ぎてしまったのだろうか。視界が更に狭くなってくる。その狭い視界の隅で、足元に蠢く物を感じた。松明の火に一瞬怯んだネズミたちが戻ってきたのだ。
「駄目です。意識を失っては!」
フルーを担ぐ人は、フルーを叱咤激励する。
――分かっている。ここで倒れたらたぶん本当に終わりだ。
フルーは、歯の奥を噛み締める。そして体の奥に力を入れると、助けを借りて立ち上がった。
「上出来です。こちらへ!」
助けに入ってくれた人は、足元の松明を拾い上げると、それをネズミたちの前にかざし道を切り開いてゆく。
フルーに肩を貸してくれ、共に穴の地底を歩いた。
右足を前へ、次は左足、今度は右……気が遠くなるのを必死に堪えて、フルーはその作業を繰り返した。
どれくらい歩いただろうか。フルーを誘導してくれた人は足を止め、フルーを地面の上に下ろすと横たわらせてくれた。
「傷の塞ぎ方分かりますか?」
フルーは一度首を横に倒して、否定の返事をした。するとフルーを助けてくれた人は、フルーの手を取ると、両手を胸の前に組ませた。
――傷の塞ぎ方? 手当の事だろうか。
この状態で間に合うのだろうか、遠のきそうな意識の中フルーは思った。
「ここ、胸の中心に私達の本体があります。そこに語り掛けて力を引き出すイメージをしてください。それから体を正常に動かしている時のイメージをしてください」
――何を言っているのだろうか。
フルーは言われていることを正しく理解できなかった。イメージするだけなら容易だ。
フルーは言われた通りにイメージした。街中を飛び回る元気な自分の姿を想像した。石畳を駆け上って、仕事の荷物を持って届ける自分。もうあんな風には走れないだろう。
「まだ諦めないで! 本体に話かけてください」
声はフルーの手に自分の手を重ねると、強い力で握りしめた。フルーは何に話かければいいのか分からなかった。声の主が手を乗せ掴む位置は、胸の中心だ。
――ここに語りかければいいのだろうか? ……ねぇ、僕の事、助けてくれるかい?
フルーは、自分の中の何者かに語りかけた。
――お願いだ……助けて!
その変化は、一瞬のうちに起きた。
フルーは自分の体の中心で稲妻が走るような衝撃を受けた。フルーの心の声に答えたのは、己の心臓を強く打つ脈だった。今まで感じたことのない強い鼓動が、体の中心から刻み始める。
フルーは、衝撃に閉じかけていた瞳を見開いた。
そしてその衝撃が走った次の瞬間、身体全体から今まで感じた事もないような感覚が現れる。それは、経験がないため例えようもない。草木が芽吹くような、水が大地を這うような、そんな感覚だ。
「えっ……」
フルーの身体を支配していた痛みは、卵の殻が剥がれ落ちるようになくなってゆく。何が起こっているのだ。
フルーは、ゆっくり身体を起こした。そして血がべったり絡み付くカーディガンの裾を無理やりめくると、自分の背に手を回して、恐る恐る背中を触ってみた。
――嘘……
血で指が滑るが、そこには正常な皮膚の感触があった。落下して時出来たであろう傷が何もなかった。
フルーは慌てて服の上から自分の身体を弄った。どこも痛い箇所はない。落下する前の状態に戻っていた。いやそれ以上だ。今の状態はマリウスに捕獲される前と同じだ。
フルーはじっと自分の両腕を見つめた。両腕には、まだネズミにつけられた擦過傷が残っていた。その傷も、水が蒸発するかのように肌から消えてゆく。フルーの思考はあまりの出来事に停止していた。
「良かった、魔力が随分残っていたみたいですね」
フルーを助けてくれた人物が声を掛けて来てくれた。どうやら、フルーの傷が全て塞がるのを見守っていてくれたようだ。フルーは、この時ようやく自分を助けてくれた人物の姿をきちんと見る事が出来た。
フルーを心配そうに見つめている人物は、黒い髪に少し垂れ気味の大きな黒い瞳をした少年だった。年の頃はジョゼくらいだろうか。肩まで伸びた黒い髪、顔も体も酷く汚れているがとても愛らしい外見をしていた。彼はあちこち継ぎ接ぎだらけの布を着ている。それはとても服とは言えない。小麦が入っている袋の方が余程綺麗かもしれない。そんな酷い服装の彼だが、首からとても綺麗なネックレスを下げていた。その先端に黒い大粒の石が付いている。普段のフルーならそんな装飾など気づかなかったかもしれない。しかし、そのネックレスは彼の服装と酷く不釣り合いで、違和感を与えていた。
彼は、フルーの手を取ると、脈を診てくれていた。
その小さな手は、今にも血が吹き出しそうなほどあかぎれていて、痛々しい。フルーの服や体は血まみれだったが、気にせずフルーの状態を丁寧に見てくれている。
「大丈夫そうですね」
そう言うと黒髪の少年は微笑んだ。マリウスの気味の悪い笑顔と違い、とても柔らかくまっすぐな笑顔だった。
フルーは、止まっていた思考が動き出した。
「……助けてくれてありがとう」
最初に口を出たのはお礼の言葉だった。
「私は大したことはしていませんよ。でも運が良かったです。あの通路は数日おきにしか通らないので、見つけられて本当良かった」
少年は、そう言うと持っていた荷物から水筒を取り出し、フルーの手の平の上に水を注いでくれた。
「これで口と顔を漱いでください。血が固まります」
確かにフルーの口の中は血の味が充満している。フルーは言われるがまま、手の中に注がれた水を口に含んで吐き出した。そして余った水で目を漱いだ。
「立てますか。ここにいるとまたネズミが来るかもしれない、辛いかもしれませんが、もう少し安全なところで休みましょう」
「う、うん」
フルーは、少年の手を借りて立ち上がった。立ち上がると立ちくらみを起こしよろけた。眩暈がする。
「ごめん、君が血だらけに」
「構いませんよ」
黒髪の少年は、フルーの背に手を回すと、倒れないよう寄り添ってくれた。
「あれだけの出血量です。血液の生成には、少し時間が掛かるので、あまり急激に動かない方がいいですよ」
少年は、フルーの状態についてとても詳しい。彼はいったい何者なのだろうか。
「ねぇ、君はいったい誰なの?」
フルーは、突然現れ自分を助けてくれた少年に質問を投げかけた。彼も魔族なのだろうか。助けてくれたという事は敵ではないはずだ。
「僕はフルール、皆からはフルーって呼ばれていた」
フルーは自分の事を先に告げた。それが礼儀だと思った。黒髪の少年は、フルーの言葉に一瞬驚いたような顔をした後、にっこり微笑んだ。
「……では、これからフルーとお呼びしますね。私はオニキスです。貴方と同じ鉱物人間ですよ」
「オニキス……」
――僕と同じ鉱物人間だって?
オニキスというのは、漆黒色をした石の名前だ。そういえば、彼が首から下げているネックレスも黒い石が付いている。もしやそれもオニキスなのだろうか。
「はい、オニキスの鉱物人間なので、オニキスです。そのままですね」
オニキスはそう言い笑ってみせた。
「オニキス、会って早々失礼なのは承知しているけど、僕に鉱物人間の事を教えてくれないだろうか」
オニキスと名乗った鉱物人間の少年は、再び驚いた顔をした。
「フルー……もしかして記憶がないんですか?」
「うん、半年前以前の自分に関する記憶が全くないんだ。もしかして僕は君と会っていたかな?」
「いえ、はじめてですよ」
オニキスは話しながらフルーの手を引き、縦穴の奥に通じる洞窟へと案内してくれた。そこには、フルーが落ちた縦穴とは違った空間が広がっていた。
「自分の記憶が一切ないなんて、珍しいですね。自分の素性など多少は覚えているものなんですが……ここまで来れば大丈夫です」
オニキスは、唐突にフルーの手を離した。
「あのフルー、お話の続きなのですが、少しだけお待ちいただけないでしょうか。少しやらなければいけない事がありまして……」
「うん、いいよ。先にそちらを済ませて」
「ありがとうございます。では、私は少し離れます」
オニキスは、そう言うとフルーを手近な岩の上に座らせると、奥へと続く岩場の方へと小走りに駆けて行った。
――いったいなんだろう。
頼りのオニキスに突然置いて行かれたフルーは、途方に暮れた。ここの勝手が分からない。
――どうしよう。
取りあえずオニキスの後を追ってみようか。オニキスにはここに居ろとも来るなとも言われていない。
「そうしよう」
フルーはここに居てもやることがない。オニキスが消えた岩場を目指した。まだ眩暈が治まっていないため、岩の上を歩くのは意外と難しかった。フルーはオニキスのように上手く岩場を渡れない。靴の底で岩の面を取って、バランスを取りながら進む。
少し進むと、そこは人が生活しているような気配が感じられた。たき火の跡、どこにあるのか薪が集められている。窪地には、雨水が貯められた小さな池らしきものもある。ここで誰かが暮らしているのだろうか。少し行くと人の背丈ほどの横穴が現れる。オニキスは確かこの方向に行ったはずだ。
フルーは暗い空洞に目を凝らした。縦穴から少し離れると太陽の光が入らず薄暗い。片手で岩の壁を伝いながら先に進む。すると中から変な臭いがしてきた。地下の湿気た空気に混ざって、鼻を刺すような腐敗臭が辺りに充満していた。フルーは思わず袖口で鼻と口を覆った。この匂いは目にも沁みる。目から生理的な涙が零れ落ちる。
――何だここは。
一つの岩の上で何かが動いた気がした。
「オニキス?」
フルーは中を覗き込んだ。
――これは!
フルーが見たのはオニキスではなかった。そこには大勢の人々が岩の上に身を預け横たわっていた。
そこにいる人々は全身傷だらけだった。碌な治療を受けていないのか、傷口が腐り、ある者はその傷口にウジが沸いていた。フルーは、彼らを直視することが出来なかった。この洞窟内の匂いの発生源は彼らだ。
「……フルー、ついて来てしまったのですね」
オニキスが現れた。手には水の入った容器と、食糧らしき物を手にしていた。オニキスはそれを洞窟に住む人々に配り与えていた。
「……ごめん待っていれば良かったかな」
「いいえ、……そのうち、分かることなので、……私が貴方への説明を先延ばしにしたかったので、置いてきたんです。すいません」
オニキスはそういうと、フルーに謝った。
「オニキス謝る事はないよ……教えてくれるかい? この人達はいったい……」
岩の上に寝かされている人々は、フルーと同じくらいの歳恰好をしていた。男女比は、圧倒的に女性の数が多いようだ。 オニキスと同じように碌な衣類を与えられておらず、ある者は毛布にくるまり、遠くを見つめ。ある者はただ笑い続けている。共通して言えるのは、皆、生気がない。
「彼らは私たちの同族、鉱物人間です」
「えっ……」
――同族だって?
「フルー、先程私に言った事、本当に鉱物人間の事を知りたいですか? 世の中には知らない方が幸せな事もありますよ」
オニキスはフルーをじっと見上げた。
――知りたい? いや本当は、知りたくはない。
フルーは、本当は自分の正体など知りたいとは思っていなかった。今になって真実を知らないままの方がどんなに良かったかと思っている。しかし、この場で耳も目も塞いでいる事は出来ない。
――知らなければいけない。でも真実と現実を知っても、思考を止めないでいられるだろうか。前に進む強さと勇気が、卑屈な自分の心に残っていてくれるのだろうか。
フルーは、両手をきつく握りしめると頭の中に浮かぶ負の考えを押しやってオニキスの瞳を見た。黒い瞳が不安げにこちらを見ている。
――前に、前に進まなきゃ。
「教えてオニキス、お願いします」
「……分かりました。ではそこに座って話しましょう」
オニキスは、手にしていた食糧を置くと、近くの岩を指差しフルーをそちらに誘った。フルーとオニキスは手近な岩に肩を並べて腰かけた。
「フルー、鉱物人間は、元は鉱物の精霊でした。精霊は分かりますか?」
「うん」
上でマリウスが言っていた事と同じだ。鉱物人間は元精霊であったと、なぜ『元』なのだろうか。フルーはその理由を知らなかった。
「精霊は、魔族の祖先なんです。魔族と呼ばれるようになった一族は自分の身体で魔力を作り出せるようになりました。でも元来の精霊は自分で魔力を作り出すことが出来ません。その変わり、自然から湧き出る魔力を吸収して体の生命機能を維持して生きています。魔力は命の源なんです」
「へぇ、そうだったのか」
「でも私達、鉱物人間は、もう精霊ではありません」
「それはマリウスが僕をここに落とす時言っていたよ。でも僕はそれがどういう事なのか分からなかった」
「マリウス……」
オニキスは『マリウス』の名を聞いて一瞬表情が曇った。しかし、すぐ立て直すと説明を続けてくれた。
「私達の同胞は、その昔魔族達に乱獲されました。鉱物の精霊は、核が宝石なので容姿がとても美しかったからです。そして非力でした。他の精霊達のように身を守る手段を持っていれば、魔族達に簡単に狩られずに済んだかもしれません。捕まった精霊は、本体に封印式を刻まれます。その封印式を刻まれた精霊は、永久に自然から魔力を吸収することが出来なくなるんです」
「永久……って、じゃあどうやって僕達は体を維持するんだい? 供給出来なければ僕達は生きていけないよね」
「そうですね。だから私達を捕獲した魔族から魔力を貰わないといけないんです。体を、命を維持するために、私達を捕まえた魔族から一生離れる事が出来ません」
――魔族から離れられない……そんなこれはつまり……
「私達に刻み込まれた封印式は、魔力を供給する主に服従をするための式です。主が生き続ける限り私達は、主の望む姿で命を握られ続けるんです。これが精霊の成れの果て、魔族の奴隷として生きる鉱物人間です」
――奴隷……
フルーはマリウスが言っていた事が今になりやっと理解できた。つまりはフルーやオニキス、ここにいる鉱物人間達は、魔族により飼い殺されているということだ。フルーはオニキスの説明を聞き、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じた。これはフルーの本体が悲鳴を上げている痛みだ。過去に味わった捕獲された経験をフルーは記憶がなくとも、本体は覚えている。
「フルー大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ。あちらで少し休める場所がありますので……」
「オニキスありがとう。最後に一つ聞いてもいいかな?」
「はい」
「ここは、どういう場所なんだい?」
「ここですか……」
オニキスは、フルーの質問に答えにくそうにしている。それは答えが残酷という意味だろう。
「オニキス、大丈夫。僕はだいたい想像は出来ているよ。言って」
「……ここは、残存魔力が残っている子達が、魔力が尽きるまで閉じ込められる岩牢です。魔力が尽きれば、私達の身体は消えます。でも本体の宝石が壊れない限り、私達は死なない。魔族の魔力で何度でも体は甦ります」
「魔力があれば甦る……」
先ほどフルーの身体は再生し甦った。それは紛れもない鉱物人間の証だ。だが残存魔力が切れればこの体は消滅していた。フルーが助かったのは、まだ傷口をふさぐだけの魔力がその身に残っていたからだ。フルーは自分の手をじっとみた。マリウスが言った『鉱物人間なら死なない』とはこのことだ。
「オニキス話してくれてありがとう」
フルーは自分の過去と真実を知ることになった。この身の内にある魔力が尽きれば、次に目覚めた時フルーは違う記憶と新しい体に置き換わっている。死は免れるかもしれない。しかしそれは生きていると言えるのだろうか。フルーが知った真実は、知らなければ幸せだったと思わせるものだった。