澄行かば藤の花房匂ひけり
備前長船と言えば数ある名刀、名刀工で夙に知られているが、美濃国の関も土、水、炭に恵まれ、鎌倉より良質な刃物の産地として鳴らしていた。
天正(1573~1592)の初期、その関に、近隣に名人との誉れ高い刀鍛冶がいた。彼の名工「関の孫六」の再来と称される腕の持ち主であった男は、師匠に使われる身分の時から既に才覚を現し、あちこちの領主らから仕官の声が掛かる鬼才振りであった。
名を赤七と言った。
赤七は鬼才振りの割りに人柄は穏やか、人好きのする男で、刀鍛冶仲間からも妬みより好意を寄せられる人徳に恵まれていた。
前生、余程に功徳を積んだのであろう、と人々は噂し合った。
火の神、竈の神である荒神を厚く信仰し、謙虚でもあった。
神棚の水は毎朝一番に汲み換え、艶々とした榊の葉が萎れる気配が無いかを確認する。
世は戦国乱世なれど、鍛冶場こそが、赤七の戦場だ。
真っ赤な灼熱の棒切れに、赤七が小槌を振り上げ打つ。
この連打する最中、赤七の面相は何かに憑かれたように神がかっており、弟子たちは、やはりうちのお師匠は只人とは違いなさるのだ、と頷き合い、誇りに思った。
刀一振りを売る値も他の刀工より一桁違うことさえ、ざらであった。
ある時、流石に妬みが高じた仲間の一人が浪人を雇い、腕を斬らせようとした事件が起きた。
細い二日月が昇る晩だった。折り良く通り掛かった武士に助けられ、難を逃れたが、これを聴いた土地の領主はこの仲間の刀工に激怒し、その刀工が赤七にと目論んだようにその刀工自身の利き腕を斬るという苛烈な罰を与えた。
鬼才と謳われた赤七が、駄刀しか打てなくなったのは、それ以降のことである。
赤七はただ、火の神を近くに感じながら小槌を振るい、煤塗れになっても思う様、刀を鍛え上げるのが好きであった。その生業で、妻子を喰わせてやれることを幸いと思っていた。
まさか腕を斬ろうと思うぐらいに憎まれることがあろうとは、夢にも思わなかったのだ。
ましてやその相手が、罰として自らの腕を斬られることになろうとは。
毎晩、腕を失った男の悪夢にうなされ、あれ程に親しんだ火と刃が厭わしくなった。
明らかに出来が粗悪になってゆく赤七の刀に、顧客も離れていく。
弟子も一人を残すのみとなり、蓄えは減る一方。
このままでは、一家揃って首を括るしかなくなる。
そこまで追い詰められた赤七の元を、友人である鍔細工の職人が訪ねてきた。
家の入口に生えた、藤の大木の花が盛りの時期。
花房が美しく堂々としている。
それとはまるで逆に憔悴し切った赤七に、彼は一人の武士を紹介した。
武士は、いつぞや赤七を危難から救った男であった。
赤七の困窮を聴き、わざわざやってきたと言う。
酔狂な男もいるものだ、と赤七は埃の積もった板の間に案内した武士をつくづくと見た。
精悍な、好い男振りである。双眸はぐり、として目尻がすいと上がり、幅広い唇の左下にある小さな黒子に何とも色気がある。しかし骨格の大振りな顎のあたりの線が、柔和より頑健を思わせた。
着る物とて質素だが、藤色の上衣にはそこはかとなく品がある。その武士の所作から、長年武芸者を見てきた赤七には、かなりの剣腕の持ち主であると知れた。
であればこそ己は救われ、こうして苦しんでもいる。
有り難いような恨みたいような気分だった。
「難儀しておると聴いた」
「……へえ。その節は、折角にお助け頂きましたものを。面目ねえことでごぜえやす」
ふふ、と武士が笑う。
「心底、そうも思うておらぬようだが?」
「………」
「赤七。このお武家様はな、お前に刀を打って欲しいんじゃと。業物をな」
取り成すように鍔細工職人の六郎が言った。
「業物…」
「左様。さてもお主は小野桐峰と言う杵築大社(出雲大社)の御師(信仰普及従事者)を存じておるか。御師と言うても、凄腕の剣客よ。尼子に与して毛利に抗いし後は、先の島津と大友との戦で活躍した、刺突の達人だ」
「…いえ」
「丹生、と言う銘に心当たりは?」
それは、あった。
何でも吉野の名工が鍛えた、刀身の赤く澄んだ大太刀であると。
「はい、それは」
赤七がそう答えると、武士は得たりと頷いた。
「その、丹生にも劣らぬ業物を打って欲しい。お主ならば出来よう」
「―――――――いいえ。いいえ、儂はもう」
「言い値を払うぞ」
「いえ、そうしたことじゃあなく」
「刀身は。そうだな。青味がかった物が良い。うむ。丹生と切り結んだ時にはさぞや映えよう。赤と青と―――――――――」
「命の遣り取りに、美をお求めですか」
つい、尋ねた赤七に、武士は真面目な顔で答えた。
「無論。命の遣り取りであるからこそ、美が肝要なのだ」
やはり酔狂だ、と赤七は思う。
武士は一人で話を進めると、金糸の縫い取りが一面に施された萌黄色の重そうな袋を置き、また来る、と言って去ってしまった。
「厄介なお武家様を連れて来てくれたのう、六郎…」
「したがよ。お前さん、今のまんまじゃ一家野垂れ死にだわな。それよか、一か八かの勝負に賭けるほうが男ってもんよ。違うかい」
六郎はいつもの、しゃきしゃきした口調で叱るように赤七に言った。
「…お千さんもお由ちゃんも、見てらんねえよ」
愛妻と愛娘の名前を出されると、赤七も言葉が詰まった。
目に見えて二人がやつれたのは、自分のせいだ―――――――――。
嘗ての栄光が、去って行った人々が、脳裏をよぎる。
己にも驕りがあったのだ。
そこまでの才も無いのに驕り、重用に甘んじたから罰が当たったのだ。
もっと気遣いが要りようだったのだ。
人を疎かにした報いだ。
ぎらぎらと自分を睨んだ嘗ての仲間の目。
吐き捨てられた唾。
わざと踏まれた足。
怨嗟、呪詛の叫び。
ぽん、と六郎が赤七の尖った肩に軽く手を置くと、堪えていたものが溢れ出した。
どうしようもなく傷んでぼろぼろになった己の在り様がまざまざと尖鋭になり、赤七の胸を穴を穿つように深く抉った。
「うぐ。ぐうう。おおおぉぉぉお………っ…」
ぱたたたた、と、溢れた涙が板の間に落ち、埃に吸われた。
身の内に凝ったものを出し切るように、赤七の、絞り出すような嗚咽は長く続いた。
(それでも打たねばならん。――――それでも。儂に出来ることは、打つことしかない)
打つことしかない。
打つことしかない。
打つことしかない―――…。
その晩、赤七は家の外の、藤の大木の隣にある井戸脇で一夜を明かした。夜通し水垢離をして精進潔斎し、火の神と荒神に祈りを捧げたのだ。
残っていた貴重な鉄を惜しまず使い、赤七は再び、小槌を振るった。
薪を加え松炭を加え、鞴によって空気の流れを生み高温の燃焼を促す。
寝食も忘れ全身全霊を籠めて、赤七は一心不乱に刀を鍛え上げることだけに専念した。
小槌が打ちつけられるたび、灼熱の魂は澄んだ音を響かせ、赤七の心をも蘇らせていった。
そうして誕生した一振りは、大業物と呼んで差支えない逸品だった。
刀身は三尺(約90センチ以上)。丹生と同じく大太刀の部類である。
六郎より知らせを受けて来た武士は、その刀紋の優美、肉厚にして繊細な刀身の輝きを見て、しばし絶句した。
藤のように匂やかに冴えた太刀だった。
しかもその刀身は確かに、注文通り、初夏の空のように蒼く澄んでいたのである。
「見事。流石、鬼才・赤七よな…」
溜息交じりに武士は言うと、先日、置いて行った金子に加えて更に、同じ額の金子を置いた。
「お主程の刀工の魂、取り戻したるを我が手柄と思うぞ。赤七」
「いいえ。手前こそ、お武家様にはお礼を申し上げねばなりやせん…。なまくらの目を、腑抜けていた魂を、醒まさせて頂きやした」
武士が笑むと、口元の黒子も動き、それが妙に愛嬌を感じさせた。
「まだ名乗うておらなんだな。私は明榛と申す。姓は伏せておこう。赤七。お主のお蔭で良い仕合が叶いそうだ。鍔の拵えは六郎に任せるぞ。良いな」
「へい」
それまで赤七の打った刀の光輝に魅入られていた六郎が、はっとしたように頭を大きく上下させた。
赤七と長い付き合いである六郎であっても、初めて見るような会心の出来栄えであったのだ。
「この太刀の、銘は何と致そうか」
訊かれて、赤七は考えた。
赤い刀身であると伝え聞く丹生と一対を成すような大太刀。
初夏の空のように朗らかに明るく、澄んで青味がかった刀。
「―――――澄行では、如何でございましょうや」
明榛が微笑んだ。
「澄行か。晴れた、佳き名だ」
澄行を打って以来、赤七の腕は戻り、昔の顧客や弟子たちも戻ってきた。
その後、桐峰の丹生と明榛の澄行が切り結んだと言う話はまだ聴かない。
火の神と荒神に祈る際、自分を蘇らせる契機を与えてくれた明榛の無事も、赤七は祈るようになった。
藤の花房が見られる季節になれば、斬り合いにおいて美に拘った武士を思い出した。
〝命の遣り取りであるからこそ、美が肝要なのだ〟
武芸者とはやはりよく解らない。所詮、自分は骨の髄まで刀鍛冶でしかないのだ、と赤七は思った。




