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私選和歌集  作者: 如月瑠宮
中古三十六歌仙より
59/73

その伍

立田姫たむくる神のあればこそ秋の木の葉のぬさと散るらめ 兼覧王

 龍田姫という手向ける神が居るからこそ、秋の木の葉はお供えとして散るのでしょう。


※別の解釈として「龍田姫が手向ける神が居るからこそ、秋の木の葉は餞別として散るのでしょう」といった意味合いも感じられます。龍田姫は紅葉と結び付けられた神なので美しい紅葉だったのでしょうね。




秋の野の草のたもとか花すすきほに出でてまねく袖とみゆらん 在原棟梁

 秋の野の草の袂なのでしょうか。花薄の穂が出て人を招く袖に見えます。


※薄が風に揺れている様子が手を振っているように見えたのを詠んでいます。在原業平の子である彼の雅さを感じる歌です。




吹くからに野べの草木のしをるればむべ山風を嵐といふらん 文屋康秀

 吹くから野辺の草木が萎れてしまうので、山から吹く風を嵐と言うのでしょう。


※ふざけて訳してみると「ねぇねぇ、めっちゃ風吹いてる。山から吹いて野原を荒らして行くから嵐って言うんじゃね?」といった所でしょうか。康秀の地位は低かったので現代風に言えばこんな感じだったかもしれません。




きりぎりすいたくな鳴きそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる 藤原忠房

 コオロギが酷く鳴いているが、秋の夜の長い物思いは私の方が勝っているのです。


※当時、キリギリスは機織と呼ばれて夏に鳴く虫だったので、このキリギリスはコオロギの事です。人を訪ねた時にコオロギの鳴き声を聞いて詠んだ歌。




まだしらぬ古郷人はけふまでやこむとたのめし我を待つらん 菅原輔昭

 まだ知らない故郷の人は今日までに来ると期待させた私を待っているのでしょう。


※藤原公任撰の「金玉集」によると都に戻って来たが直ぐにまた派遣される事になった人の代作。その事をまだ知らない妻の事を詠んでいます。




川舟にのりて心のゆく時はしづめる身ともおぼえざりけり 大江匡衡

 川舟に乗って、心の清んだ時は沈んでいる身だと思えません。


※「司召にもれての年の秋、上の男ども大井川にまかりて舟にのり侍りけるによめる」歌。不遇な身でも舟に乗っている時は心が晴れやかになったのでしょうね。




天くだるあら人神のあひおひを思へばひさし住よしの松 安法法師

 天降って現れた人神の相老を思えば久しい住吉の松です。


※住吉に詣でて詠んだ歌なので、この神は住吉の神になります。源融の子孫に当たり、出家後に河原院に住んだそうです。




夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ 清少納言

 夜の深い内に鳥の鳴き真似で謀ろうとも、逢坂の関は許さないでしょう。


※藤原行成と雑談中、内裏の物忌に参内する為に急いで行成が帰ってしまい、翌朝に「鳥の声にもよほされて」と言付けて来て、「夜深かりける鳥の声は函谷関の事にや」と答えた所、「これは逢坂の関に侍り」と返して来たので詠んだ歌。函谷関は孟嘗君が食客の中の鶏鳴の真似の名人を使って関門を開けさせ、まんまと脱出したという故事があります。

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