41番から43番
ことのはの中をなくなくたづぬれば昔の人にあひみつるかな 壬生忠見
和歌の中を泣く泣く探せば、亡き人に逢う事が出来ました。
※天皇から「歌たてまつれ」と言われて、亡き父忠岑(30番の作者)の残した和歌等を集めて献じた際、その奥に書き付けた歌。「ことのは」は和歌、「たづぬる」は探すという意味。
忠見にはある逸話があります。天徳内裏歌合にて平兼盛(40番作者)と「恋」を題に勝負した際、判者が優劣を付けられず持(引き分け)にしようとした所、天皇(当時は村上天皇の御代)から勝敗を付ける様に言われました。判者は補佐に決めて貰おうとしましたが、補佐も決められず。その時、天皇が兼盛の歌を口ずさんでいるのを聞き、兼盛の勝となりました。この負けを苦に忠見は病になり、死んでしまったというものです。勿論、その後の作が伝わっているのでこの逸話は嘘ですよ。ちなみのその時の両者の歌は小倉百人一首に選ばれています。
春は惜し時鳥はた聞かまほし思ひわづらふしづごころかな 清原元輔
春が過ぎるのは惜しいが、時鳥の声も聞きたい・・・思い煩うしづ心です。
※四月一日に詠んだ歌です。「しづ心」は静かな心を意味しています。春が惜しいけども、夏を告げるホトトギスの鳴き声も聞きたいという相反する思いで平静ではいられない、何とも風雅な歌ですね。
清少納言(62番作者)の父で、深養父(36番作者)は祖父。
雲ゐにて雲ゐに見ゆるかささぎの橋をわたると夢に見しかな 権中納言敦忠(藤原敦忠)
雲の上の更に上に見えるカササギの橋を渡る夢を見ました。
※「敦忠集」では「やむごとなき人に」贈られた恋歌。「雲ゐ」は宮中を暗喩しており、「雲ゐにて雲ゐに見ゆる」とは宮中でも高い地位にある相手という意味でしょう。「かささぎの橋」はカササギが七夕の夜に天の川に翼を並べて橋を作るという伝説があり、そこから男女の仲の橋渡しや宮中の殿舎の階段の事を示します。
醍醐天皇の皇女雅子内親王との関係もあったので、もしかしたら・・・と思いますね。しかし、新勅撰和歌集ではこの歌への返歌の作者は「読人知らず」です。




