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なっちゃんのターン
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世界人口は約十人。人とヒトとは違うのだ。
ひとつ言葉を投げれば誰もがそれを追い掛けて走って果てには崖から落ちる。頭の良い振りをした霊長目ヒト科に属する哺乳類は実は単純な動物であってけして賢くなんて無いのだだって、馬鹿な俺に惑わされて殺されるくらい、だし。人は、俺の家族やあの賢くも愚かな少女は俺に殺されたりなんかしない、特に彼女に於ては殺したくて仕方が無いのに殺す為の確かな方法が思い当たらないのだ。ある者は俺が投げた餌を静観して誰かが拾うのを待ち、その誰かが拾えればそのヒトからそれを貰う。ある者はそれに怯え手を伸ばす事すらしない。ある者は俺が投げる前にそれを掻っ攫う始末。ある者はその存在にすら気付かないのだ。そして彼女には餌など投げる気も起きない。彼女を呼びよせ、はいどうぞと彼女に手渡すのはいつものことだ。
言わばヒトか人かは他人とそれより親しい人間の区別というだけで特に深い意味はなく、俺はその親しい人間の定員が際立って狭いのだと、それだけである。誰しもがこういった境界線を持っているはずだ。例えば誰かが死んだとして、その事実に可哀相だと心を痛めつつも次の話題になればころっと表情を変え笑うならばそれは他人だという証拠だ。幾年付き合いがあっても相手に何かあったとき涙を惜し気もなく流せないようなら間違いなく他人なのだ。他人なら死んだって構わないつまり、俺が認めない殺人はその十人程度が死ぬ事だけであり他は愛玩動物の価値もない生き物だ。魚や牛と同じそれを殺して俺は生きている。ああいやこれは俺だけではないヒトゴロシダメゼッタイと謡う一般人諸君にも十分当てはまる事である。友人である動物だけを保護する団体は友人ではない人間をどう扱うのだろう。殺人を頭から否定している人間の宣う同族殺しだから罪だなんて言葉はあまりに身勝手ではないか、では同族を殺したから同族を殺すのは同族殺しに該当しないというのだろうか。
まず人間は必ず誰かを殺している。これは法律の定める範疇な殺人ではなくほんの些細、間接的な殺人だ。例えばニュースに取り上げられた犯罪者、死刑判決か無期懲役かで定まらずにいた。それに対して誰かが宣うのだ、そんな奴は死ぬべきだと。確かに悪意ある殺人は裁かれるべきだが、果たして発言した人間に悪意は無いのだろうか。例えば民衆の意見によりその犯人が死刑になったとして、それは一種の集団リンチ、それによる殺害とは思えないだろうか。初めに発言した人間に悪意が無くとも、その後に誘発されたように犯人を死刑にした大衆の中には少なからず悪意や冗談でもって発言した人間がいるはずだが彼等は、罪に問われないのだろうか。
まあ結局のところ他人なんてどうでもいいんだ。ただ殺人はどこまでが罪なのか、悪意がなければ良いのかを考えていたらいつの間にか殺人に対する対応の矛盾や逆説的な事を追求しだしてしまった。導き出したい命題は、愛情による殺人は認められるのかということだ。好きだから全てが欲しくて殺してしまったり、抱きしめる加減が出来ずに殺してしまったり、そういった殺人は悪とされるのか、どうか。俺が考えたって答えは導き出される筈も無いけれど。