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恥の多い生涯を送ってきました。
この男の遺言はまずこの一言で始まるべきである。かの太宰治の代表作のひとつ、人間失格の一文はまさしく、彼に似合いだ。作り物の笑顔を浮かべた少年時代、人の道からわざわざ駆け足で離れて行ったこの男は、まさに人間失格である。悪い意味で。
例えばこの胸に埋まっている頭を、誰かが銃で撃ち抜いてしまえば、彼は簡単に死んでしまうのだろうか。私を道連れにでもして。彼の性格上ありえないとは思っていても、私をソファに押し倒したまま、いや薙ぎ倒したまま動きを見せない彼はあまりにも無防備過ぎるのだ。ラフな格好の分ひょろっちい肢体が晒されていかにも体育会系とは言えない体格であるのがわかる。よく今まであんないつ殺されるかも分からない立場にいて、さして大きな怪我もせずに生きていられたのか、いっそ都市伝説とも謂うべき神秘だ。
「重いです」
「我慢、してよ」
そうはいえどもソファの上に寝転がるには首も痛い、彼は私に布団の如く覆いかぶさっているためその体重がほぼ全てかかることもあり、身動きのひとつもとれなかった。もう成人したのだから少しくらい人の迷惑を考えるべきだとは言っても馬の耳に念仏であるから、私は彼の胸を押し返すのも諦め、彼の背にその手を回す。呼吸は落ち着いているのに、鼓動が早いことや緩んだ口元には気づかないでおいた。だって理由なんて知りたくない。
「そのまま、寝ないで下さいね」
「わかってるよ五月蝿いな、黙ってて」
穏やかに起伏する背を撫でる。そこに特に意味は無かったが、彼がふっと一度だけ溜め息にも似た笑い声を漏らした。何かを言ったようで、彼の唇が押し付けられた肩の辺りがくすぐったい。聞き返すが答えはなく、私は見た目よりも筋肉質な背を撫でつづけた。細いが筋肉はあるらしい。私に五月蝿いなどとほざくあたり、きっともう、私を呼び出した理由である頭痛は治まっているのだろう。
マンションの一室にある彼の部屋は広い割に極端に物が少なく、目立つのは私には理解の追い付かない資料を収めたファイル類であるとか、画面の大きなコンピューターぐらいだ。当たり前だが若者向けのファッション雑誌や、パソコン以上に大画面のテレビ等もあり家具も揃っているが不思議なことに生活感がないのは、彼自身が人間らしくないからだろう。といっても衣食はここで済ましているというが、私はどうも信じがたかった。私がここを訪れるのは八割方彼の偏頭痛の為であり、彼に用があり私から会うことは数える程しかないのだ。だから私の会う彼はひとでなしか病人に限られてしまっている。だから私は彼の普段通りの暮らし振りを知らずまた、一切の興味が無かった。
「実家にいた頃はそうでもなかったんだよ。別に雨が少ない訳じゃなくて、ただちょっと怠いとか耳が痛いとか我慢なんて幾らでもできた。でも駄目だなぁ、痛くて何も考えられない。君を呼ぶくらいで精一杯」
「頭痛、ですか。というか実家とかあるんですね」
うるさいよ、と彼は私の頭を叩いた。まるで私を抱き枕のようにしてソファに寝転がり、彼は動く素振りを一向に見せない。そうだった彼も人間である。私が彼と知り合ったとき彼は高校を出たばかりで一人暮らしをしていたために、私が彼の学生時代を知る訳が無いのだ。私達の数十メートル下で車が警笛を鳴らすのが聞こえると彼はひどく不快げに顔を歪めた。テーブルに置かれたグラスの中で水が震える。
「兄貴と、弟と、妹がいてね。あと姪がいる。兄貴の養子だけど」
私は彼から語られる彼自身の情報を逃すまいと相槌を打つ。君が興味を示すなんて珍しいねと彼は心地良さそうな声を出した、私だって、と言いかけた口を閉ざす。私だって、興味が無いと思っていた。
会社員と兼業して作家をやっているという彼の兄は、何を考えているのか自分にもわからない、らしい。ただ自分ら家族、それと見たことはないがひとりの恋人がいたく大事にされているのは明白である、と。弟は現実的な子供で、とても賢いが少しばかり不器用で、自己嫌悪に陥りやすいと彼は言った。何かを愛することがとても下手くそだ、とも付け加える。妹はお世辞にも可愛らしいとは言えない性格だが、行動力とリーダーシップは褒めたたえるべきとひどく楽しそうに言った。対して、姪は弟と同い年だがどうしようもなく果敢無く愛らしいのだ、ただ父親に似ているのが玉に傷である、と。きっと彼の家族はとても優しいのだろう、と私は羨みながら感じる、だって彼の偏頭痛及びパニックは不安から来るのだから。彼が、他人をまるで物のように扱う彼が安心と信頼を寄せるくらいである。
私は私の家族を思うがどの点においても彼の家族に勝る部分は見当たらなかった。まず私には兄弟などいないし、親と仲が悪い訳ではないが私と親とは人間の根本的な部分が違っているのか、それとも単に私がおかしいのかはわからないがあまり家族らしいとはいえない。
「……羨ましい?」
ふと彼の顔が目の前に現れる。零距離に危機感は覚えなかったがまるで優位に立ったようないや優位なのは確かだが態度に腹が立ち私は幾許か彼を睨んだ後で眼を背けた。くすりと耳元で笑い声が聞こえる。
「羨ましく、なんて」ない。そう言い切れない自分が不甲斐無い、だって私は今までこの状況をよしとしてきた訳だし、この街ではそう珍しくも無い核家族の関係な訳だから今更兄弟であるとか胸を張って愛を語る相手がいる事に対する羨望や憧憬などあるわけがないあってはいけないのだから。彼が紡ぐ言葉に息が詰まりそうになる。この男はいつもそうだ、私のそれまで抱いてきた概念であるとか思想をいとも簡単に拭い彼の常識に引きずり込もうとする。こういった事を考えながらも表情が変わらなくなったのは彼の影響に間違いない。
いつの間にか私の人格に入り込んで来ていたのだから迷惑極まりない男である。思えば十四歳の私は浅はかで、あの時目にした新商品の菓子に一瞬でも立ち止まった事が過ちだったのだ。彼はそれを運命だなんて宣うがそれから私の人生まあ一年余りだが其れは急降下に急旋回を加えていったわけであるから運命といえども宜しくない運命である。
先程までしとしとと申し訳程度に降っていた雨が止んでいる。やけに気分が良さそうなのはきっと彼の頭痛の原因が退いたからだろう。しかし彼の体重が私から取り去られる気配はまるでなく、彼は私の顔を眺めては時折、長い瞬きをした。彼の言わんとする事は解ったが、そういった自己満足にわざわざ私が恥をかく必要性は考えられない。きっと私が家庭でどういった状況にあるのかまたその原因も彼は知っているだろうしかし、私は人に頼ること或いは頼られることに億劫になっている節があるのかも知れない。自身の性格であるにも関わらず憶測でしか無いような私のことなど、親より友人より彼が抜きん出て理解しているのは承知の上、なのだけれど。
「絶対、言いませんから」あなたになんて。これは最低の大人だ、ひとを陥れて自分の方に引き入れる汚い大人。私が彼を見据えると彼は何だ残念、と満足げに笑んだ。
「……今日はもう良いよ。子供は早く帰らないと変態に襲われちゃう」
「夏哉、さん、みたいなですねわかりました」
「初めて呼ばれた名前が不審者扱いなんて!」
笑いながら歎く彼に私はそうだったかと首を傾げた。しかし自分の一挙一動全て記憶しているはずもなく私の記憶からは事実は定かではなかった。ただ、今日彼の名前を呼んだのは初めてだというのは確実である。彼は重々しい動きで起き上がると、私の手を引いて起き上がらせた。ずっと同じ姿勢だったため肩や腰が痛んだが私を支える彼の手つきは思いのほか丁寧で、すこし、驚く。
「今日でも明日でも一年後でも、辛くなったら遠慮なく。仕事なんてすぐ終わらせるよ」
例えば皺だらけになった私の制服を直す仕種とか、私の頭を撫でる力加減だとか、伏せられた睫毛の長い瞳だとか、穏やかに持ち上げられた口角だとか、その理由は考えてはいけないんじゃないだろうか。言葉の意味も声音の暖かさも、深読みすべき事ではない。私がもしそれと同じ様にしたとして、彼はそれを望むのかそれすらもわからないのだ。彼は私に私のバックを手渡し私の肩を抱いて、玄関まで誘導した。靴下から伝わる床は酷く冷たく、ワイシャツ越しの彼の体温はまるで子供のそれのように温かかった。
「またね、水脈」みお、と鼓膜が小さく震えた。
彼は知っているだろうか、私だけじゃない、彼が私の名前を呼んだのはこれが初めてだと言うことを。おかしな名前だからあえては言わなかったけれど、覚えていたのかと少し驚く。彼だってそうだ、私の存在をどこかで認めていなかったのだろう。彼を受け入れなかった私と同じ様に、彼は私が存在することそれによる感情や出来事を認めたがらなかったのだ。
「……また」
会いに来ます、そこまで言えずに、口を閉ざした。彼はきっとわかっているのだ、私が彼の今までしてきたことを許せないのも、それでも彼にしか頼れないのも全て。私だってわかっている。彼は私が彼の思いのままに動く駒ではない事に苛立つのも、それでも私だけが彼を人として生かしている事も。きっといつか私がひとを意図して殺すのであれば、それは彼だけだ。そして彼が憎悪以外の感情をもって殺したいと思うのも、私だけなのだろう。
「夏哉さん」
彼の目を伏せる仕種も、ん、と鼻を小さく鳴らした柔らかな返事も、私の顔を見る、表情もそこはかとなく、嗚呼言わないほうが身の為だろうか。
「……何でもないです」
飲み込んで、未消化のまま排出したら、この異物はどうなるのだろう。