殺人と恋愛に於けるパラドックス
目下停滞中の長編恋愛小説の派生です。
だいぶ前に書いたものですがいまよりごちゃっとしてます。ヒロインは淡々と喋るイメージです。
「君は誰かを殺したことはあるかい?」
はあ、と私は彼の言葉に相槌を打つ。勿論現状に対する不満と彼の質問に対する不信を込めた声音だ。私の前で白い椅子の背もたれに身体を預けた彼は、いつもと大差ない私の態度が気に食わなかったのか整った顔をわずかに歪めた。
彼は多分産まれてきた事がもう間違いなんだろうってくらいに常識から数キロ離れた思考回路になってしまって、いつのまにかそれが通常運転になった可哀相な男だ。突拍子もない質問などは最早日常茶飯事である。私は彼と出逢わなければ良かったし、延いては彼と友人なんていうものにならなければきっと今頃は極々幸せに青春を謳歌していたんじゃないだろうか、と溜息をつく代わりにコーヒーを口に含んだ。苦味と深み、などと言う表現をするには私の舌はあまりに幼い。はじめに口にしたときより幾分か冷めたそれは私の唾液と混ざって嚥下されてゆく。美味いか不味いか、私には判断しかねた。別にコーヒーなんて好きでも何でもないのだ。
私の怪訝そうな表情を見た彼の口角が、少しばかり持ち上がる。狐のような狡猾な表情に些かの嫌悪感を覚えた。悪役の様な微笑みを美しく見せる端正な顔立ちは羨ましいが、出逢ってから悪化の一途を辿るのみの彼の趣味の悪さはレットデータブックに載るいたいけな動物達より早く、そう迅速に、一抹の細胞も残さず絶滅すべきである。殺人犯であるかといった質問などは、少なくとも昼休みの学生を連れ出したファーストフード店でする話ではない、と一般論から私は思った。彼はそれでも私に同じ質問を投げ掛ける。君は人を殺したことがあるのか、ないのか、きっと素直にありますなんて頷くのは、服役経験もしくは犯罪歴のある人間、それでなければ気のふれた者だ。仮令私が殺人を隠しているとしてもそう易々と、少なくともこの人でなしには口にしないだろうが。
「ないですけど」
それがどうした至極当たり前の意見じゃあないのか、と私は彼に言う。彼は張り付けたような薄ら寒いくらいの笑みでそう、と私に言う。彼はいつも私の理解に及ばない所にある質問をし私に答えさせたまま、その質問の意味もそして正解も堪えないのだ。私は彼が差し出したフライドポテトを受け取り咀嚼した。冷めたが為に更に油脂を感じる。彼も同じ様に、けれど私よりも早く其れを胃に落とす。ただまずいかと言えばそうではなくジャンクフードなんて所詮この程度と許容できる味だった。彼は紙のカップに入れられたアイスティーをぐいと煽る。がらがらと、小さくなった氷が自己主張していた。
「君は夏が好きかい?」
「嫌い、ですよ。当たり前です嘗めてるんですか馬鹿ですか馬鹿でしょうああ馬鹿でしたねすみません気の遣えない女で」
私が常通り抑揚の少ない声で一息に言えば、それはちょっとばかり酷くない、と渇いた笑みを彼は浮かべた。彼がこういった、人間味のある表情をするようになったのはごく最近の事だ。酷くなんてない、と私は首を振る。私は夏が嫌いだったし彼はそれを知っていた。彼も夏に多い雨自体は嫌いであると以前頼みもしないのに豪語していた覚えがある。だから私は夏が嫌いだった。茹だるような暑さは汗を誘うし虫はもとより寝付きの悪い私を更に不健康にさせる、また熱を閉じ込める温く長い雨とそれによる彼の偏頭痛で私は苦しめられる、だから私は夏という漢字が入る彼の名前も引っくるめて夏が嫌いだった。今、彼と私が対面している理由も、頭が割れそうなんだ、という彼の電話からである。
雷を伴った通り雨は、もう止んでいる。
初めは、彼と出逢って数ヶ月経った日だった。去年の夏だから、私はまだ中学生だ。彼に用があり、彼の住むマンションを訪れた私は、そこでこの先も一生その日彼に会おうとしたことを後悔していくだろう出来事を目の前にしたのだ。部屋にあった見るからに高級そうな黒いソファのカバーは無残にもナイフで切り裂かれ、隅に立たされていた観葉植物も幹が折れている。特に酷いのはテレビで、画面にぽっかりと穴が開いていた。玄関のドアが開いていたため、強盗でも入ったんですかと私は聞いたが、彼は、そんな柔なセキュリティじゃないよと疲れきった様子で笑った。頭が痛いんだ、雨が降ると頭が痛くなる、今日は今までで一番かもね、と彼は私の身体にもたれ掛かるように私を抱きすくめた。
あ、やばい、これ、良いかも。彼の言葉はいつもながら理解できない。だが私はそれから雨が降る度に彼に呼ばれ、物を破壊する前に彼を落ち着かせるようになっていた。勿論彼に触れられて。はた迷惑な話である。
「俺はあるよ」
彼の声が鋭いものに変わったような気がしてはっと我に返ると、彼が珍しく質問の続きを話している所だった。店内の喧騒が一気に耳になだれ込んできて私は不快感に眉根を寄せた。なんて顔してるんだい、彼が笑う。
彼の声は狡いと私は思う。低くてゆったりとした抑揚のある声には、人を魅せる何らかの成分があるのではないだろうか。ないにしてもそれほど、語り口も影響しているのだろうが、彼の声は洗脳に向いていた。ふわりと眠気を誘う声音で話したと思えば、刺すような声で現実に引き戻す。それは存外気持ちの良い感覚であった。だから私は、彼との会話や偏頭痛を起こした彼に呼び出される事に辟易しながらも、彼に会いに行くのではないだろうかと思い始めたのは、つい最近のことだ。彼と話した後は割合よく眠れる。
「知ってます」
そんなの、貴方が沢山の人に死を選択させていることぐらい、厭でもわかっている。いつだったか私の前で他人が心臓を撃って死んだことがあるが、あれも彼によって唆された人間だった。美容学校に通いファミリーレストランのアルバイトをする傍ら、彼はそういう仕事をしていた。趣味なのかも知れないが。殺し屋と謂うにはあまりにも穏和で、人間としては十二分にいかれている。あの優しい人が死ぬ時の表情が声が言葉が私を見る瞳が、あまりにもその人らしくて、優しくて。頭に流れ込む記憶に私は先程のポテト諸共胃の内容物が逆流しそうになるのをコーヒーで抑えた。
「俺はさあ、無性に君を殺したくなるときがあるんだよね」
奇遇ですねそれは私も同じですよ、などとは言う訳にもいかず、私ははあ、とまた相槌を打つだけだった。すると彼は、何がおかしいのかいきなり声高らかに笑い出す。周りの視線が痛いが、気にするまでもなくよくあることだ。それでもやかましいと私が彼を睨むと彼は大口を開けるのをやめて、楽しげに、私にいわせれば厭らしい笑みを浮かべた。それでも様になる様な顔だから腹立たしい。
「君は、俺が怖くはないの?」
彼は笑んだまま私に聞く。今日は何か嫌なことでもあるのか、彼の話が繋がっていることに驚きながら、私は彼の目を見据えて微笑んだ。
「今更じゃないですか阿呆ですかとうとう頭湧いたんですか、もうどうしようもないので死にます? 助力は惜しみませんよ」
「……君は最近俺に似てきた気がする」
彼の苦笑する姿なんて、彼を愛しいと宣う女らからしたら写真に収め額に飾り枕の下に入れて寝たい程だと思う。私はけしてそんな変態紛いの事はしないが、客観的に見れば格好良いのだろうとは感じる。ただ私が彼に似てきたというのは思い違いも甚だしい。私が似てきたのではない、もとより似たような本質だっただけだ。それが露わになっているだけで。例えば実際声にする言葉数に対して頭の中は有象無象のような文字や思考が蟻の巣のように羅列して連鎖し蠢いている思考であるとか、物や人に対してさほど執着せず、してしまえば抜け出せないという面倒極まりない性格は見事に一致している。けれど私は彼よりも常識を重んじるたちであるのだと、そこだけは譲れない。
「……時間が無いので、私は戻ります」
彼は私の言葉に時計を見遣る。納得したように頷くと、立ち上がりカウンターへ向かう。そういえばコーヒーを飲み干していないと気が付くが、それを一気に飲むなんて事は私には出来ない。コーヒーに罪は無いが、時間も時間である。私は背後をついて来る彼を見ずに、相変わらず騒がしい店を後にした。またね、と彼の声がしたが私は応えない。また会う約束などしてしまえば、それこそまともな人生から手を離す羽目になるのだ。無駄だと笑われても、私はただの高校生らしく生きる時間を一秒でも増やしたかった。例えば、授業に遅刻しまうと走って教室に入り先生や友人に笑われる事なんてどうだろうか。
ああどうしよう、本気で遅刻する。