01
―――――あれは、何時のことだっただろうか。
遠くで、近くで、ありとあらゆる所で緑が燃えていた。
ぱちぱちと火が付いた木が弾ける音がする。
先ほどまで聞こえていた悲鳴はもう聞こえなくなっていた。
炎の音にかき消されてしまったのか、あるいは。
あるいは、自分以外が全て死に絶えたのか。
朦朧とする意識の中、歩を進める。
踏み出すたびに赤く濡れた地面がぐじゅりと音を立て、おぞましい泥が靴を汚した。
呼吸が苦しい。
熱で肺が焼ける。
確か、煙を吸ってはいけなかったはずだ。
そんな考えが過ぎり、苦笑する。
今更だった。
やがて、歩みは小高い丘へ至る。
小さな家が設けられた、見晴らしのよい丘だった。
見覚えのあるハズの丘は、今や全くの別物と化していた。
色とりどりの花が咲いていたのだ。
今の季節に誇らしく咲いていた花が、次の季節に咲くはずだった花が。
鮮やかな青、鮮やかな黄、鮮やかな緑。
それが、今やどうだ。
全てが赤に塗りつぶされていく。
そして、小さな家もまた、燃えていた。
「――――ぇラ!!」
名を呼んだはずが、ほとんど音を成さない。
喉が痛い。
ひりつく。
だが、そんな事はどうでも良かった。
燃える花壇の先、倒れ伏している一人の女こそが、最優先事項だった。
体の痛みなど頭から消え失せ、無心に彼女に駆け寄る。
死んでいないことを祈った。
今までに無いほど、強く。
信じていなかった神に縋るほど、死んでいないことを祈った。
息が、ある。
「……トール」
うっすらと目を開けた女が、微笑んだ。
恐ろしいことが去ったのだと、女の澄んだ目が語っている。
「ああ、無事で、よかっ――」
言いかけ、絶句する。
息は、たしかにあった。
意識も、あった。
だが、完全に無事ではなかったのだ。
なだらかな曲線を描く腹に、不釣り合いな大剣。
男の身長ほどもある大剣が、ずぶりと突き刺さっていた。
手遅れ。
これは完全に手遅れだった。
助かるわけがない。
治癒魔法を使える者もおらず、医術を身につけた者もおらず、そもそも生きている者すら居ないこの場所で。
こんな大怪我の人間を助ける術を、男は知らなかった。
「あなたは、無事だったのね」
まるで、怪我などしていないかのように女が微笑む。
健気な、いつも通りの笑顔。
差し出された細い手を、握り締める。
―――――ここで、終わりが訪れるのだ。
「トール、あなたは―――――――」
この後の言葉を、どうしても思い出せない。
この言葉を言った女の名前を、女の顔を、どうしても思い出せない。
この言葉を聞いた自分の事すら、どうしても思い出せない。
そもそも。
―――――これは、何時のことだっただろうか。
/忘れん坊の騎士様 01/
「トール!!」
透き通る声で名前を呼ばれ、意識が浮上する。
顔全体を覆う兜から真正面に覗きみた敵は、剣を振りかぶっていた。
斬るというよりは、叩き潰すことを主目的にした事が見て取れる剣。
人間ならば持つだけで難儀するそれを苦もなく振り回すのは、牛人だった。
ミノタウロス、とこの国では呼ばれているのか。
筋肉それ自体が鎧となったような屈強な体、凶暴な顔、槍よりも鋭利な角。
防御力が薄い冒険者ならば、腕の一振りで体中の骨を砕かれて死ぬ。
しかし、トールは恐れず一歩踏み出し、剣を振るう腕に自分の腕を叩きつけた。
黒い篭手が、凶悪な音を立ててミノタウロスの腕を打つ。
篭手に刻まれた魔力陣が発動し、強化された衝撃を出力する。
大きく仰け反ったミノタウロスを、すかさずトールの仲間が放った魔力弾が追撃する。
トールの様相は一言で言えば、歩く要塞だった。
黒く染めた凄まじい重量の全身鎧、ミノタウロスの剣と同じほど大きな剣。
予備の剣として、腰に左右二本ずつの長剣。
バックポーチには、投げナイフ、即効性かつ強力な痛み止め、僅かばかりの傷薬。
総重量を考えれば、歩くことすら困難な超の付く重装備。
どちらかと言えば、馬に乗り突撃する重装騎兵の装いに近い。
だが、トールはそれらを見につけ、狭いダンジョン内を平然と闊歩する。
デメリットは腐るほどあった。
不意打ちに対処しにくい。罠に対処しにくい。狭いダンジョンでその装備なら素早い敵に対処できない。
様々な場所で様々な人々が告げたその忠告、あるいは侮蔑をトールは鼻で笑う。
そもそも、この重装備は自らが戦功を重ねるためのものではない。
不意打ちに対処するのは仲間。罠に対処するのも仲間。素早い敵に対処するのも仲間。
自らの役割は、別にある。
『GUUUUUUUUUUURYAAAAAA!!』
興奮したミノタウロスが絶叫し、剣を腰だめに構えて足をどんどんと地面に打ち付けた。
その鋭利な角がトールたちに向くようにして低く構えたその姿勢は、ミノタウロスの一撃必殺。
ただただ愚鈍に突撃するだけのそれは、単純であるがゆえに強力で、これまで数えきれない冒険者を沈めてきた。
トールの背後にいる仲間たちが弓矢と魔法を次々と放つ。
ダメージは通っているが、突撃を中断させるほどの効果はない。
そも、興奮したミノタウロスは痛覚が消え去ると言われている。
突撃の構えになった後にある道は、ミノタウロスが死んで攻撃をやめるか、冒険者たちが死んで攻撃をやめるかの二つだけ。
がんっ!!
地面が爆発したかのような音をたて、ミノタウロスが加速する。
ミノタウロス専用攻撃スキル。
『ただ愚昧であるが故の突撃』
トールの背後で仲間たちが息を飲むのがわかった。
だが、ただ怯えているわけではない。
ミノタウロスの突撃後にある大きな隙、それを突くために各々が強力な魔術を詠唱し、あるいは技のを構える。
トールは兜越しの僅かな視界で、まっすぐにミノタウロスを睨みつけた。
足、角の位置、剣の切っ先。
それらを頭の中に叩きこみ、突撃に対して――――踏み込む。
回避ではない。迎撃でもない。
ただ、踏み込む。
ミノタウロスが最大速度に入る一瞬前を突くように、二本角の間へ体を滑り込ませる。
同時、握っていた大剣を地面に突き刺した。
さしずめこれはトールの体を逃さぬための杭。
激突。
そして、内蔵が破裂したかと思うほどの、衝撃。
瞬間、篭手で角の一本を掴み、頭を思い切り外側へ引っ張る。
鎧がギリギリと軋み、体全体が後ろへ押し込まれていく。
凄まじい重量を誇る鎧でなければ、当たった瞬間に死んでいただろう。
―――――背後にいる者を庇う。
それこそがトールの役割だった。
攻撃されてもいい。攻撃しなくてもいい。
代わりにただの一撃さえ背に庇った者には通さぬ。
ミノタウロスが咆哮する。
それはミノタウロスにとって今までにない感覚だろう。
突撃を食らった相手が吹き飛ばされないなど、今まで無かったに違いない。
「ぎ、ぎぎぃ……!!!」
腹がちぎれるかと錯覚するほどの痛みを、トールはこらえた。
ヘソの下に力を込め、角を握った手を今度は内側へ勢い良く抱え込むように振り抜いた。
音を立てて角が折れる。
それを合図とするかのように、トールの背中越し、ミノタウロスに数々の魔法、攻撃が叩き込まれる。
炎の槍。風の槌。雷を纏った矢。冷気を纏った長剣の連撃。
ダメージの蓄積に、痛覚は無くともミノタウロスの体が悲鳴をあげる。
ぶちぶちと体の至る所から血が吹き出し、突撃する力が緩む。
もはやトールの防御力を通すような威力はなくなっていた。
大剣を握っていた手を離し、ミノタウロスの首を抱え込む。
威嚇の声を無視し、大樹ほどもある太い首に、全体重をかけた。
「おおおおおおおおお!!」
鎧の重量を首の骨一点にかけ、絶叫と共に折った。
鈍い手応えが確かに伝わってくる。
鼻と口から血を吹き出したミノタウロスが、とうとう前に進む力を完全に失った。
後退し、それでも警戒を欠かさぬトールの前で、巨体が地面に沈んでいく。
突撃していた時の力強さが嘘のように、ミノタウロスはぴくりとも動かない。
トールはひとつ深呼吸をすると、言った。
「討伐完了」
歓声が、沸いた。
ダンジョン"忘却の軛"25階層守護者、"ミノタウロス"討伐完了。