鯱
夢で体験した話を元に、ほんの少し脚色や再構成を加えて書いています。
自分自身、どうしてこんな夢を見たのか理解出来ず、不可解であるからこそ形にしておくべきと考えました。
鯱の脳に、薄紅色の薬を塗っている。
小さな鯱だ。その白と黒の凛々しい模様さえ無ければ、海豚と見違えてしまう程。体格の割りに大きな頭を縦に抉られて、肌色が露出している。俺はその色が、一見ランダムに見えて規則正しい間隔で走り回る皺が、一切見えなくなるまで薬を塗り付けていた。
手桶で水を掛けてやりながら、「お前は何処から来た」と呟く。小さく鋭い歯の並ぶ、だらりと下がった顎からは何の声も聞こえない。もう息が無いのではと疑って、デタラメな位置に付いた臍の様な、呼吸器に水を垂らした。ブス、という存外に力強い音と水飛沫が上がった。彼らには人間のルールが解らない。
どうしてこうなってしまったのか、親父は「きっと海賊共のボートに当てられたんだな」と断定した。口から出任せの推断に間違い無いが、俺は、ああ、と納得した。真っ黒なボートを昼夜問わず乗り回してる奴らは、環境保護の名目で目に付く漁船やヨットに攻撃を加えている。このならず者が闊歩する海域に迷い込んだ悲運の鯱は、たぶんボートの影を仲間と思って近付いて、頭の表皮を削り取られ、頭蓋まで砕かれたのだろう。馬鹿だと思う。けれど憐れにも思う。
アイスコーヒーをすっかり空けた親父が、ところで、と切り出した。「ちゃんと手は洗ったか」と訊く。間髪入れず「当たり前さ」と答えを返した。いつまでも子供扱いはやめて欲しい。俺はとっくに二十三の誕生日を迎えているのだから。「本当に?」親父はしつこく何度も俺に確かめた。そう繰り返し尋ねられると、自信を失う。俺は本当に手を洗ったか? いや、すっきりと洗った。でないと俺のこの手が鯱を殺す事になる。
「もう良いだろう」と親父は言った。「いやまだ駄目だ」と俺は言った。肌色や皺が見えなくなるまで厚ぼったく薬を盛らないと、ばい菌が入ってしまう。
やっと終えて、船を初出航させる様に海に入れてやる。鯱は海辺にプカリと浮かんだ。その内ブスと潮を噴き上げて、弱々しく尾びれを振り始めた。ゆっくりゆっくり、泳ぎ去っていく。俺に礼の一言も言わずに。彼には人間のルールが解らない。
少しずつ遠ざかっていく彼の背中をじっと見送った。本当は傷が癒えるまで手元に置いてやるべきなんだろうが、うちには彼を自由に泳がせておけるプールも無いし、大食らいを養える財力も無い。結局、彼らの底力に期待するしか無い。
遠く遠く、殆ど点としか見えない彼を、まだ見詰めている。彼が最後の最後、海に帰らなければ、俺は満足出来なかった。
「あ」思わず声を立てていた。鯱の黒点の上を、横様にあの真っ黒なボートが高速で通り過ぎた。激しく掻き立てられた波に埋もれて、鯱はもう見えなくなっていた。
彼らには人間のルールが解らない。