愛せないので、愛さなくても構いません
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イリーナ・サイゼルドの悪評が広まったのは、学園で告白をしてきた男子生徒をこっ酷く振った後だった。
まぁ、私にですか? ありがとうございます。けれど私の結婚につきましては両親に一任されていますので、私個人がここで答えをだすわけにはまいりません。正式に申し込んでくださったら考えます。……ところで、お名前を伺ってもよろしいですか?
イリーナとしては至極当然のことを言ったまでで。それで責められ悪評を立てられるのは心底納得がいかない。その後男子生徒に懸想していたという女子生徒に酷いわ、あなたなら身を引いてもいいと思ったのに、と詰られたのも納得がいかない。
数日後には、イリーナ・サイゼルドという名前には『冷酷で人形のようだ』という単語がつきまとうようになった。
ちなみに件の男子生徒と女子生徒は、イリーナを踏み台にしめでたく結ばれた。イリーナに不名誉な噂を撒き散らすだけして。
それから二年の月日が流れた。
瑞々しい葉が、光を遮り影を作る。風が吹く度に葉は揺れ、イリーナに光と影を交互に落としていた。
ふと、自分はなにをしていたかと我に返った。
頬に手を当ててから、横を見て思い出す。今日は婚約者となる男とのお見合いだった。あとは二人でごゆっくり。ありふれた言葉で庭へ送り出されたのだ。
イリーナをエスコートする男は、前を見据えている。
自分より五歳年上の男は、商いで大成した、らしい。両親からもっと沢山の説明を受けた気がするが、もう頭に残っていない。今日言われたのはただ一つ。愛想よくいなさい、それだけ。
笑えばいいの? それなら簡単。淑女教育で培いましたから。
心の中で安請け合いをしたイリーナは、ニコニコと笑みを浮かべ続ける。
平民らしい地味な色彩の彼は、エスコートが不慣れだった。歩き辛い。
そうだった。この結婚はお金が欲しい我が家と、貴族との繋がりが欲しい彼の政略結婚だ。
それならば、つつみ隠さず言うべきだろう。あとで知られた時、余計な遺恨を生みたくない。
「エメリヤン様。私は学生時代『よく切れるナイフ』のような渾名をつけられていました」
「……もしや、『氷の令嬢』ですか?」
「私がそう呼ばれるようになったのは、とある方を振ってからです。振ったつもりはありませんでした。当たり前のことを言っただけと記憶しています。我が家に正式に申し込んで欲しいこと、私の方からも両親に伝えるために名前を教えて欲しかったこと」
昨今は貴族の間でも恋愛結婚が主流だ。けれどイリーナは順応できないまま。貴族として生まれた限り、生き方一つで多くの人の人生を左右することになるのだから。
結ばれたあの二人を見た。
卒業パーティーで惜しみない拍手を送られた二人は幸せそうに頬を緩めていた。イリーナも緩く手を叩き、二人を祝福する。シャンデリアの光が目に痛かった。
目を開けることができなかった。
イリーナは目を開いたまま、エメリヤンの腕に添えた手に力を込める。
愛のある結婚を両親はイリーナに求めてもいた。平民との結婚に、申し訳ないと涙ながらに謝られた。
「私はきっと、人を愛することができないのでしょう」
二人の卒業パーティーでの姿を見て確信を持った。私は人を愛することができない。
あの幸せそうな顔を向ける先を、私は上手く想像ができない。
「愛せないので、エメリヤン様も私を愛さなくても構いません」
仲良くしましょう。定位置に戻っていた口角を軽やかに上げる。
こうしてイリーナ・サイゼルドは婚約を結んだ。
◇◇◇
婚約を結び、半年が経った。最初の冬が訪れる。
イリーナは手を擦り合わせながら、馬車に乗っていた。膝の上には封筒がのっていて、時折触ってきちんとそこにあることを確認する。
暫く揺られていれば、ようやく馬車が止まった。扉が開き、御者に手を差し出される。
半年前のイリーナは忘れていたエスコートだった。
エメリヤンのお陰で傾きかけていたサイゼルド家の財政はなんとか持ち直し、父と母が昼夜問わず奔走したお陰で、昔と変わらない生活を送れている。
商会の前で下ろされたイリーナが扉を開ければ、カランコロンと鐘の音が鳴る。
「イリーナ様」
商会の中で一番上等な机を使っている男が顔を上げた。立ち上がりイリーナの下まで来たエメリヤンは流れるような動作でエスコートしてくれる。腰を抱かれ、近いと胸板を押した。
「これを届けに来ただけです。欲しいでしょう? 是が非でも」
「ありがたい、ですが……そんな悪徳商人のような言い方」
「あら、ごめんなさい。やり手の商人のつもりだったのだけれど」
人差し指と中指で挟んだ封筒をピッと掲げる。エメリヤンは長いため息をつきながら額を手で覆った。
やり手の商人とはあなたのことだと言えば、もっと長いため息を吐かれる。
首を傾げていれば、そっと手に触れられる。封筒を雑に机に放ったエメリヤンは眉根を寄せた。
「赤くなってる」
「手袋を買い忘れていました」
手袋は必要最低限には入らないと買わなかったのだが、自身が冷え性なことが頭から抜け落ちていた。
「心配していますか?」
「えぇ、それはもう多分に」
商会の奥の方へとイリーナを置いて行ってしまった彼は、程なくして一組の手袋を持って帰ってきた。
淡いレモンイエローのミトンを渡される。手の甲の部分に白い毛糸の玉があしらわれたミトンをつければ、エメリヤンの顔が安心したように綻んだ。
一言二言会話して、仕事の邪魔にならないようにと帰ることにする。馬車に乗り込めば、行きよりも寒くない。
手を擦ることもせず手持ち無沙汰になれば、一昨日両親にされた話が脳をぐるぐると巡った。
曰く、無理に婚約を続ける必要はないらしい。エメリヤンも大分貴族に航路を広げていて、もうサイゼルド家という看板は必要ないのだとか。
むしろ王女に献上した品がいたく気に入られた彼には、サイゼルド家よりよい縁談が来ているとのことだった。そんな話、聞いてない。
言葉を返せずにいれば、頂いたお金は全て返すと父は強い光を宿した瞳で宣言した。
「イリーナには、愛する人と結婚してほしいの」
両親の言葉がイリーナの心臓を落ち着かなくさせる。
エメリヤンと婚約を解消する。他人に戻る。そんな未来、想像していなかった。
イリーナは人を愛することはできない。けれど彼には、人に愛され人を愛する権利がある。
「エメリヤン様」
名前を呼ぶ。目を閉じ、クッションに体を預けた。
二人で夜会に行くことは数え切れないくらいあった。しかしイリーナがドレスのデザインに口出ししたのは初めてだった。
つらつらと要望を述べるイリーナに、デザイナーは口を挟まずデザイン画につけ足していく。その展開に追いつけていないのはエメリヤンだけだった。
帰り道、エメリヤンが人目を憚るようにイリーナの耳に口元を寄せる。
「なにかありましたか?」
「いいえ、なにも。強いていうなら二度と冬の寒さを舐めないという決意表明ですね」
厚い生地やファーをつけ冬の寒さもへっちゃらなドレスをオーダーしていたイリーナの姿を思い出したのか、なるほどとエメリヤンは納得したようだった。
――当日。着飾ったイリーナをエントランスで待っていたエメリヤンが、目を輝かせる。
毎回新鮮な反応をしてくれるものだからこそばゆい。
「どうでしょうか」
「可愛いです」
「今回のイメージは薔薇の棘なのですが?」
「可愛いです」
まぁ、いいか。
エメリヤンにエスコートされ足を踏み出す。もう歩き辛くはなかった。
◇◇◇
会場に入れば、すでに楽団員によって落ち着いた音楽が流れていた。
一曲目は婚約者や夫婦で、というしきたりがあるため、今回も例に漏れずダンスをする。
「様になってきましたね。私、足を踏む心づもりはありましたが踏まれるのは想定外でした」
「本当に申し訳ないです」
「中々刺激的な体験でしたよ」
家での練習中。イリーナの足を踏んだエメリヤンが顔を蒼くさせ、横抱きにして医者の下へ走ったのは記憶に新しい。街を走るエメリヤンに抱き上げられ運ばれている姿を領民たちに見られていたのは中々に恥ずかしかった。
けれど息を切らしながら走る彼に抱きしめられているのは悪くなく、それを刺激的と表現したのだが上手く伝わらなかったようだ。エメリヤンは滝のような汗を流し始めている。
一曲終わる。次は少しアップテンポの曲が流れ始めた。
ダンスが苦手なのかすぐに輪から外れようとするエメリヤンをこの場に留める。まだ踊りたい気分だ。
心得たとばかりにまた無骨な手が背中に添えられた。
イリーナは踊る。突発的な動きをして時にエメリヤンを翻弄し、時には身を委ねながら。
今は身を委ねるターン。
「この時間が終わらないでほしいと思ったのは、久しぶりです」
前回は、イリーナの誕生日の日だった。次の日、領内を流れる川が大雨で氾濫した。
不器用な笑い声が空気を揺らす。
「終わらせないでほしいの」
「はい」
それから三曲踊って。足がガクガクになり立っていられなくなったエメリヤンの訴えで、ダンスは終わりになった。
エメリヤンが休みたいと言ったので、バルコニーに出た。ここでなら中から見えない位置で座り込むこともできる。
そう提案したが、彼は首を横に振り壁に背を預けるのみとしている。
イリーナは果実水をもらってくることにした。
給仕が持つトレイの上には、グレープフルーツとオレンジの果実水がそれぞれあった。グレープフルーツの方をもらい、彼が待つバルコニーに急ぐ。
――バルコニーもいくつかあって。イリーナが出るべきバルコニーを間違えたのだと気づいたのは、久しぶりに二人に声をかけられたからだった。
「お久しぶりですね、サイゼルド様」
「私たちの名前、わかりますか?」
幸せそうに身を寄せ合う二人は、イリーナを目にした途端鼻の穴を膨らませている。
「えぇ、お久しぶりですね」
ではこれで。去ろうとしたが、女の方に腕を取られた。振り払えば余計な諍いを生みそうで、足を止める。
「もう少しお話しましょうよ。恋愛結婚っていいものですよ。毎日楽しくて、私本当に幸せです。ありがとうございます、イリーナ様」
「あなたのお陰でこうして愛する人と出会えました。感謝してもしきれませんよ」
ひゅぅ、と冷たく乾いた風が首元を撫であげた。
「それで今、イリーナ様は誰と婚約中でしたっけ? えーと、商人の方でしたよね?」
「そうですよ」
きゃらきゃらと女が笑い出した。男が同情的な目をイリーナに向ける。
「気位が高いサイゼルド様もお金のためとなれば……いえ、元から両親の勧める方なら誰でもよかったのでしたね」
彼らの止まらない会話よりも、詳しいことはなに一つ明かさなかったエメリヤンの方がイリーナの心を揺らしたのはなぜなのだろう。
困窮した時、イリーナは母から譲り受けた宝石をこっそりと売った。少しでも足しになれば、と。
お金を渡された両親は怒っているのか悲しんでいるのかわからない表情でイリーナに謝罪した。売る時はなんの躊躇いも抱かなかったのに、両親の涙を見てふっと後悔が迫り上がったのを覚えている。
もう戻ることはないと思っていた。けれどエメリヤンと婚約を結んで二ヶ月後、
「あなたに似合うと思うアクセサリーを見つけました」
間違いなく母から譲り受け、薄情にも手放した宝石がイリーナの手の上できらめいていた。
着けてみてほしいとねだられ言う通りにしたら、満足そうに彼は頷く。イリーナは目を見開くことに必死で、息もできなかった。
イリーナを嘲笑う二人から視線を外し、目を伏せた。
声が震える。
「――どうして、あなたたちにそのように言われなければならないのですか……?」
声は小さすぎて、冬の風に攫われていく。
あぁ、握り締めた指先が白くなっていく。
聞こえないとこちらに体を近づけてくる気配がして体が縮まりそうになる。必死に足を踏ん張るが、今にも崩折れそうだった。
体が、よく知った熱で包まれた。
「探しましたよ、イリーナ様」
「エメリヤン、様」
息を切らす彼は、イリーナが持っていたグラスを取り一気に呷ると、二人に向き合った。
「私はこういう者です、以後お見知りおきを」
名刺を差し出された二人は調子を崩されたのか言葉を詰まらせた。
「それで、なにかご用だったのでしょうか。代わりに私が伺いますが」
「いや、別になんでもないよ。行こう」
「そ、そうね」
二人はそそくさとホールに戻ろうとする。エメリヤンは感情の読めない目で見送りながら口を開く。
「私は、ご両親に正式に申し込んでくれと言われたのならそうします。名前を尋ねられたのならその度に名前を言います。愛するとは、そういうことではないのでしょうか。それから彼女は人を愛する心を持っていますよ。あなたが向けられなかっただけです」
一気にまくし立てたエメリヤンに逃げるように、彼らは足を速めた。
すっかり姿が見えなくなったところで、エメリヤンに顔をずいと近づける。
「私が愛する心を持っているとは初めて知りました。ホラを吹かないでください」
「吹いていませんよ」
肩をすくめられる。
「イリーナ様は、ご両親を愛しているんです。そうでなければ、どうしてあんなに信頼しきった表情を向けることができるのでしょうか。信じていたのでしょう。私と結婚し援助してもらえば、必ず両親は立て直すことができると」
「愛、してる」
それきり、なにも言えなくなる。ないと思っていたものが最初からこの胸にあった。
渦巻く心情をそのままに、イリーナは歩き出した。遅れて、エメリヤンもついてくる。
もう帰ることにし、馬車に乗り込む。ゆっくりと車輪が回り出す。
「私は、両親を尊敬しています。領民に惜しみのない支援をして、税も免除して、そうして自分たちが困って。愚かだと言われる行動を当たり前のようにする両親を、私は守りたかったのです」
指を絡める。瞼の裏に、くっきりとエメリヤンの顔が浮かぶ。
両親によって決められた結婚相手の名前を、イリーナはわざわざ尋ねるまでもなく知っている。
「両親に愛のある結婚を望まれているんです。叶えてくださりませんか?」
「私でよければ」
見つめ合う必要はない。イリーナたちは同じ方向を見据えているから。
「他の人を全て蹴散らしてこの世の全てを敵にして、そうやって私を愛して」
「あなたが望むなら」
「冗談です」
「そうですか? 私はイリーナ様のためならこの世の全てに牙を剥きますが」
「本気ですか?」
「さすがに冗談ですよ」
睦言なんて、初めてだから上手く言えない。決定的な言葉には辿り着かない。
そうしている内に、イリーナたちは暗闇をかき分け、屋敷の前についた。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
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また次の満月(10/26)にお会いしましょう。




