第三章:ハチの残り香
表面の釉薬は古びて艶を失い、頭をなで続けた指の油ですこしだけ黒ずんでいる。
静まり返った研究室のデスクの上で、タヌキの置物がぽつんと座っていた。
仁はマウスから手を離した。直前までモニターの青白い光に照らされていた指先が、妙に冷たく痺れている。
自分の意思で誰かを切り、線を一本だけにした世界には、驚くほど音がなかった。
エラーも警告音も鳴らない。
仁は、その静けさのほうが怖かった。先ほど自分の手で行った切り捨てもまた、父・惣一のシステムと同じ論理の延長線上にある。
ふと、部屋の隅の暗がりから、掠れた声が聞こえたような気がした。
「――学者ボケ。正解ばっか探すなよ」
仁は反射的に顔を上げた。
だが、そこにいるのは埃をかぶった古い書架と、パイプ椅子の影だけだ。
誰もいない。
その声が誰のものだったのか、今の仁には痛いほどよく分かった。正解という名の直線を選び、不要なものを切り捨てることの冷酷さを、かつて真っ向から否定してくれたモノの残響。
「……ハチ」
小さく呟いた名前の響きすら、部屋の冷たい空気の中に吸い込まれていく。
仁は立ち上がり、デスクの上のタヌキの頭にそっと触れた。
指実に、陶器の冷たさが残っていた。
それだけだった。
それだけなのに、自分の手で誰かの存在を消し去ってしまったその罪悪感を拭う気にはなれなかった。
仁はタヌキから手を離した。
研究室の奥の扉は、閉じたままだった。
その向こうから、機械の低い駆動音が聞こえていた。




