第四部:脱落の作法 第一章:空白の席
研究室の空気は、昨日までと何も変わらないはずだった。
使い古されたコーヒーメーカーの底には焦げた豆の滓が張り付き、インクが半分ほど乾きかけた青いボールペンが無造作に転がっている。窓ガラスの向こうでは、いつものように蝉の声が乾いたコンクリートの熱気とともに揺らいでいた。
視覚的な情報に、不自然な点は何一つない。
ただ、部屋の隅に、昨日まで誰かが使っていた机だけが、何事もなかったように残されていた。
開いたままのノートの端が、エアコンの風で乾いてパリパリと音を立てている。
飲みかけの紙コップの底には、黒ずんだコーヒーの輪染みが残っていた。誰かが途中まで飲んで、そのまま席を離れた――その時間だけがそこに残されている。
仁は手元の資料から顔を上げ、その席に歩み寄った。
その椅子は、わずかに引き出されたままだ。机の上のプラスチックケースには、愛用の替え芯や付箋が詰まっている。物はすべて揃っている。
しかし、その椅子に座るべき人間の姿だけがなかった。
隣の席にいた同僚の男は、パソコンの画面に顔を張り付けたまま、リズミカルにキーボードを叩き続けている。カチャカチャという乾いたプラスチックの音が、妙に耳にこびりつく。
仁は低く声を投げた。
「……あの席、昨日まで誰か使ってなかったか」
男の手が、一瞬だけぴたりと止まった。
しかし、ディスプレイから目を離すこともなく、男は心底不思議そうな顔で首をかしげた。
「誰かって?」
「……ずっと空いてただろ」
男の目はどこまでも真面目で、記憶を検索している素振りすらなかった。
仁は言い返そうとせず、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を開き、履歴をまさぐる。数時間前まで確かにやり取りをしていたはずのメッセージの欄には、何も表示されていなかった。
仁は画面を閉じ、もう一度開いた。
同じだった。
仁はスマートフォンを伏せ、再びあの机に目を落とした。
開いたノートの一行目に、昨日、誰かが途中まで書いていた文字が残っている。
だが、その文字の並びを見つめていると、目が眩むような違和感がこみ上げてきていた。そこにあるのはただのインクの染みにしか見えなくなっていく。
仁は何も言わず、自分の席へと引き返した。




