再演ー消失ー
短編になります。
雑然とした六畳一間。
古いパソコンの前で、間宮真司は煙草を咥えていた。
壁際には、雑誌や新聞、取材で集めた資料が無造作に積まれている。
真司は煙を吐きながら、画面を眺めた。
地方紙の小さな記事だった。
――大学教員、高橋直人。三十四歳。
三日前、仕事を終えて大学を出たのを最後に、行方が分からなくなっている。
財布も携帯電話も持ったまま。
家族から捜索願が出され、警察が行方を捜している。
「……失踪か」
事件。
事故。
あるいは、自分から姿を消した。
今のところ、どれもあり得る。
真司はページを閉じようとした。
そのとき、最後にある地名が目に入った。
「……ここ」
見覚えがある。
椅子の横に積まれた資料を漁り、古いファイルを引っ張り出す。
半年前の記事。
――佐伯美咲。二十九歳。
仕事から帰宅する途中、行方不明。
真司は二つの記事を見比べた。
年齢も違う。
性別も違う。
職業も違う。
ただ――
最後に確認された場所が近い。
「……偶然か」
しばらく眺めたあと、煙草を灰皿に押しつける。
財布と鍵を掴んだ。
「まあ、行ってみるか」
フリーランスのルポライター、間宮真司。
このときはまだ、
二人とも、ただの失踪者だった。
*
翌日。
真司は、高橋直人が勤めていた大学に来ていた。
数人の学生に話を聞いたが、変わった様子を見た者はいなかった。
「次の講義の話はしてました」
一人の学生がそう答えた。
「資料を読んでおくようにって」
「そう」
真司は手帳に書き込んだ。
少なくとも、高橋は次の講義をするつもりだった。
研究室の前には、
――都合により、当面の講義を休講とします。
とだけ掲示されていた。
真司が眺めていると、後ろから声がした。
「高橋先生の取材ですか?」
三十代くらいの男だった。
「同じ研究室にいた者です」
「少し聞いていい?」
「はい」
真司は手帳を開く。
「いなくなる前、何か変わったことは?」
「特には」
「研究は?」
「普通に続けていました」
「何の研究?」
「認知科学です。知覚や認識について」
「最後に会ったのは?」
「いなくなった日の夕方です」
「何か話した?」
「来月の研究会の日程を確認しました」
真司のペンが止まった。
「本人から?」
「はい」
「行くつもりだった?」
「そう見えました」
「なるほど」
次の講義。
来月の研究会。
少なくとも、突然すべてを捨てる人間の予定には見えない。
*
大学を出た真司は、高橋が利用していた駅へ向かった。
数駅先。
高橋が降りたとされる駅で、真司も降りる。
自宅までは徒歩で十五分ほど。
高橋が歩いたと思われる道を辿った。
コンビニ、飲食店、住宅。
どこにでもある帰宅路だった。
最後の目撃地点は、古い商店の前だった。
「高橋直人さんのことで、聞きたいんですけど」
「ああ、いなくなった人か」
店主は高橋を見ていた。
「どんな様子でした?」
「普通に歩いてたよ」
「一人?」
「たぶんな」
「何時くらい?」
「九時過ぎだったと思う」
「どっちへ?」
店主が指したのは、高橋の自宅方向だった。
真司は礼を言い、同じ道を歩いた。
途中には細い路地がいくつもある。
その先には交差点。
数分歩けば、高橋のマンションだった。
「……何もねえな」
途中で道を変えた。
誰かと会った。
自分の意思でどこかへ行った。
可能性はいくらでもある。
今のところ、ただの失踪だった。
*
その日の夕方。
高橋の姉が取材に応じた。
「弟は次の日、母を病院へ連れていく予定だったんです」
「何時に?」
「朝八時に迎えに行くって。前の日にも電話で確認してました」
「最後に連絡があったのは?」
「いなくなった日の夜です」
「何時?」
「九時前だったと思います」
「内容は?」
「母に、今から帰るって」
真司のペンが止まった。
「それが最後?」
「はい」
次の講義。
来月の研究会。
翌朝、母親を病院へ連れていく約束。
そして、九時前の「今から帰る」という電話。
高橋は、少なくとも先の予定を残したまま消えていた。
*
夜。
六畳一間。
真司は机の上にメモを広げていた。
「……理由がないな」
理由が見つからないだけで、自発的な失踪を否定できるわけではない。
事件や事故の可能性もある。
それでも、何かが引っかかった。
真司は半年前の記事を開いた。
佐伯美咲。
二十九歳。
会社から帰宅する途中で行方不明。
最後に確認されたのは、駅前のドラッグストア。
午後九時十二分。
その後、自宅には戻っていない。
「……九時十二分」
高橋のメモへ目を移す。
九時前、母親へ連絡。
九時過ぎ、商店の前で目撃。
「時間も近いのか」
二人の最後の確認地点を地図に記した。
さらに、それぞれの自宅までの経路を引く。
二本の線が近づいていく。
真司の指が止まった。
「……ここ」
古い住宅が密集した一角。
細い道がいくつも入り組んでいる。
二人とも、この辺りを通って帰宅していた可能性がある。
証拠はない。
ただ――
場所が近い。
時間も近い。
真司は煙草を灰皿に置いた。
「……同じ時間に行ってみるか」
*
翌日。
午後八時五十分。
真司は駅前に立っていた。
帰宅する会社員や学生が改札から流れ出てくる。
半年前、佐伯もこの中にいた。
三日前には、高橋も。
真司はスマートフォンで時刻を確認した。
佐伯がドラッグストアを出たのは午後九時十二分。
高橋が最後に目撃されたのも、その前後。
真司はドラッグストアへ向かった。
店は今も営業している。
店長は佐伯の名前を覚えていた。
警察が来たからだという。
「その日、何か変わったことは?」
「特には。普通に買い物して、普通に帰ったと思いますよ」
「一人?」
「そうだったはずです」
「誰かが待ってたとか?」
「聞いてないですね」
高橋と同じだった。
直前まで普通。
妙な行動もない。
ただ、帰宅していた。
真司は店を出た。
スマートフォンを見る。
午後九時十一分。
「……ほぼ同じだな」
佐伯が歩いたと思われる道を進む。
大通りから住宅街へ入った。
車の音が遠くなる。
古い一戸建て、低いマンション、小さな駐車場。
どこにでもある夜の住宅街だった。
九時十六分。
少し先に、昨日も通った交差点が見えた。
「ここに出るのか」
右へ行けば、高橋のマンション。
左へ進めば、佐伯が住んでいた場所。
その間に、住宅の隙間へ伸びる細い路地がある。
真司はスマートフォンの地図と見比べた。
「……ここだな」
時刻は九時十九分。
正確な時間までは分からない。
だが、二人ともこの時間帯に、この辺りを歩いていた可能性がある。
真司は路地を見た。
古いブロック塀、電柱、壁際の自転車。
奥で道が左へ曲がっている。
何の変哲もない。
「さて……」
真司は細い路地へ足を踏み入れた。
室外機の音。
家の窓から漏れる明かり。
遠くを走る車の音。
何も変わったところはない。
それでも、なぜか落ち着かなかった。
途中で一度、後ろを振り返る。
誰もいない。
「何やってんだ、俺」
真司は小さく笑った。
二人も人が消えたかもしれない場所を、同じ時間に一人で歩いている。
そう考えていれば、妙な感じがするのも当たり前だ。
路地は途中で左へ曲がっている。
真司も曲がった。
一分もしないうちに、少し広い通りが見えてきた。
「……何もないか」
路地を抜けた。
一度だけ振り返る。
古い住宅の間に伸びる、ただの細い道。
真司は煙草を取り出し、火をつけた。
煙を吐きながらスマートフォンを見る。
「……ん?」
圏外。
真司は足を止めた。
「こんなとこで?」
駅から、それほど離れていない。
一度電源を落とし、入れ直す。
変わらない。
「壊れたか?」
軽く舌打ちし、ポケットへ戻した。
そのまま駅へ向かう。
やがて、少し広い道路へ出た。
正面から一台の車が近づいてきた。
真司の前を通り過ぎる。
「……ん?」
振り返る。
車はそのまま遠ざかっていく。
「逆走?」
道路を見る。
工事はしていない。
障害物もない。
片側一車線の、ごく普通の道だった。
「何やってんだ。危ねえな」
真司は煙草を咥えたまま歩き出した。
少し先にコンビニがあった。
喉も渇いている。
店へ入る。
冷蔵棚の前で足を止めた。
「……ん?」
見たことのない缶コーヒーが並んでいた。
黒地に銀色の文字。
商品名に覚えがない。
手に取る。
メーカー名にも見覚えがなかった。
「新発売か?」
いつも飲んでいる銘柄を探す。
ない。
「売り切れか」
真司は見知らぬ缶コーヒーを持ってレジへ向かった。
財布から千円札を出す。
店員は何事もなく受け取り、釣り銭を返した。
新商品くらい、いくらでも出る。
真司も、それ以上は気にしなかった。
店を出る。
道路を一台の車が通った。
真司は何となく目で追った。
車は、センターラインの右側を走っている。
「……また?」
さっきとは別の車だった。
少しして、反対方向からもう一台来た。
その車も、右側を走っている。
真司の足が止まった。
「……待て」
車は何事もなく、互いにすれ違った。
「何なんだよ」
*
電車は、いつもと変わらない時刻に来た。
真司は空いている車両へ乗り込み、ドア脇に立った。
会社員が数人。
学生らしい若者。
座席でスマートフォンを見ている女。
特に変わったところはない。
自分のスマートフォンを見る。
やはり圏外だった。
「やっぱ壊れたか」
ポケットへ戻す。
電車が走り出した。
何となく顔を上げる。
吊り広告が目に入った。
――大阪タワー 秋の展望フェア。
「……大阪タワー?」
赤と白の細長い塔の写真。
どこかで見たような形だった。
「こんなのあったっけ」
大阪に詳しいわけではない。
新しくできたのかもしれない。
広告の下には、
――西日本を代表する電波塔。
と書かれていた。
「……へえ」
真司はそれ以上考えず、視線を外した。
*
しばらくして、最寄り駅に着いた。
いつものホーム。
見慣れた階段。
乗客に混じって改札を抜ける。
そのまま、いつもの出口へ向かおうとして――
足が止まった。
「……あれ?」
正面の案内板を見る。
東口。
南口。
北口。
「西口は?」
いつも使うのは西口だった。
自宅へ帰るなら、それが一番近い。
だが、案内板のどこにもない。
「……工事か?」
閉鎖を知らせる張り紙はない。
西口へ続いていたはずの場所へ行く。
そこには壁があった。
「……」
新しく塞いだようには見えない。
壁の前には自動販売機が並び、その横には古びた駅案内図が貼られている。
真司は近づいた。
西口は――
最初から存在していなかった。
「……何だよ、これ」
しばらく案内図を見つめる。
「俺がボケたか?」
真司は南口へ向かった。
*
駅を出る。
少し遠回りにはなるが、自宅までの道は分かる。
煙草に火をつけ、歩き始める。
古い居酒屋、小さなクリーニング店、狭い駐車場。
知っているものもある。
それだけに、少し安心した。
交差点を渡ろうとしたときだった。
電柱に貼られたポスターが目に入った。
男の顔写真。
その上に大きく、
――日本統一党。
と書かれている。
真司は通り過ぎかけ、足を止めた。
「……何だ、この党」
聞いたことがない。
候補者の名前にも見覚えはなかった。
地方の小さな政党かと思った。
だが、少し先の電柱にも同じ党名。
その向こうにも。
「こんな政党あったか?」
真司はスマートフォンを取り出す。
相変わらず圏外だった。
「……使えねえな」
ポケットへ戻す。
少し歩いたところに、小さな定食屋があった。
前を通り過ぎようとしたとき、
開いた扉の奥からニュースの音が聞こえてきた。
『――続いて、愛知の国会議事堂からのニュースです』
真司の足が止まった。
「……愛知?」
振り返る。
店内のテレビには、議事堂らしき建物が映っている。
聞き間違いかと思った。
だが画面の下には、
――愛知・国会議事堂
と表示されていた。
「……何だよ、これ」
会社員が真司の横を通り過ぎる。
自転車に乗った女が、何事もなく交差点を曲がっていく。
定食屋では、客がテレビを見ながら食事をしていた。
誰も驚いていない。
誰も立ち止まらない。
『――政府は本日、愛知の国会議事堂で――』
ニュースはそのまま続いている。
真司は周囲を見回した。
さっきの政党。
大阪タワー。
駅の西口。
右側を走る車。
全部、
この街では普通なのか。
「……違う」
真司は小さく呟いた。
「何かが違う」
急に、自分だけがこの街から浮いているような気がした。
「……帰ろう」
真司は歩き出した。
次第に、その速度が上がった。
*
ようやく、自宅のアパートが見えた。
見慣れた建物。
錆びた階段。
薄暗い廊下。
何も変わっていない。
真司は自分の部屋の前まで行き、ポケットから鍵を取り出した。
鍵穴へ差し込もうとして――
手が止まった。
「……」
嫌な感じがした。
高橋直人。
佐伯美咲。
二人は、本当に消えたのだろうか。
もし――
「……迷い込んだ?」
真司は小さく呟いた。
消失したのではない。
どこかへ迷い込んだのだとしたら。
そして今、自分も――。
「……まさかな」
鍵を差し込む。
ゆっくり回す。
カチッ。
鍵が開いた。
真司はしばらく動かなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……やっぱ、気のせいか」
自分の鍵で、自分の部屋が開いた。
少しだけ肩の力が抜けた。
ドアを開ける。
見慣れた玄関。
狭い上がり框。
壁際の傘立て。
何も変わっていない。
そう思った。
だが――
真司の視線が、床で止まった。
「……靴?」
見覚えのない革靴が、一足置かれていた。
黒い、少しくたびれた革靴。
真司のものではない。
「……誰だよ」
部屋の奥を見る。
明かりがついている。
真司はゆっくり靴を脱いだ。
「……おい」
返事はない。
一歩。
また一歩。
部屋の奥へ進む。
六畳一間。
積み上げられた雑誌。
壁際の新聞。
机の上の灰皿。
古いパソコン。
見慣れた自分の部屋だった。
ただ――
パソコンの前に、誰かが座っている。
画面に向かったまま、
こちらを見ようともしない。
「……おい」
男の肩が動いた。
ゆっくりと振り返る。
真司の足が止まった。
「……」
何も言えなかった。
男も、真司を見たまま動かない。
しばらくして、
男が椅子から立ち上がった。
真司も無意識に一歩下がった。
そして――
鏡で何度も見た顔が、
そこに立っていた。
世にも奇妙物語風になってしまいました。
感想お願いします。




