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第7話 リリアナは、姉の椅子に座って初めて震えた

姉の椅子は、少しも優しくなかった。


 背もたれは真っ直ぐで、肘置きは硬く、座面は長く座る者の身体に合わせて沈むような作りではない。


 華やかな王宮の奥に置かれている椅子なのに、まるで修道院の書見台の前にある椅子のようだった。


 リリアナは、その椅子に腰掛けたまま、机の上の引き継ぎ書を見つめていた。


 昨夜まで、自分は姉の場所を奪ったのだと思っていた。


 王太子殿下の隣。

 王宮での立場。

 未来の王太子妃という称号。


 それらは、きらきらしたものに見えていた。


 けれど今、目の前に積まれているものは、少しも輝いていない。


 書類。

 帳簿。

 予定表。

 確認印。

 薬草の納入記録。

 救貧院からの願書。

 隣国大使館への返答案。


 そして、そのすべてに姉の字があった。


『急ぎ。王妃陛下の体調に関わるため、午前中に確認』


『保留不可。支払いが遅れると西地区の救貧院に影響』


『リリアナが確認する場合は、先にマルタ侍女長に内容を聞くこと』


『殿下には要点のみ。詳細は別紙に』


 リリアナは、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。


 姉は、自分を陥れようとしていない。


 それどころか、自分が困らないように道筋を残している。


 その事実が、どうしてこんなに苦しいのか分からなかった。


「リリアナ様」


 書記官のエルンが、恐る恐る声をかける。


「こちらの書類だけでも、先にご確認いただけますでしょうか。救貧院への支払いが止まっております」


「救貧院……」


 リリアナは書類に視線を落とした。


 数字が並んでいる。

 去年の支出。今年の見込み。不足額。薬草費。食糧費。冬越しで傷んだ寝具の補修費。


 どれも大切そうに見える。


 だが、どれが一番大切なのか分からない。


「これは、私が判断するものなのですか」


「本来であれば、財務局と王妃宮の確認を経て、王太子殿下のご決裁に回ります。ただ、今年は春風邪が早く広がっておりまして、セレスティア様が仮承認の案を――」


 エルンはそこで言葉を止めた。


 また姉の名。


 リリアナの胸がちくりと痛む。


 書記官は慌てて言い直す。


「……前任の方が、案を残しておられました」


 前任の方。


 その呼び方が、かえって不自然だった。


「お姉様で構いません」


 リリアナは小さく言った。


 エルンが目を上げる。


「ですが」


「セレスティアお姉様が残した案なのでしょう」


「はい」


「なら、そう言ってください」


 自分で言ってから、リリアナは少し後悔した。


 強がりだった。


 姉の名を避けられれば、まるで自分がその名に怯えているように見える。

 それが嫌だっただけだ。


 エルンは一礼し、別紙を差し出す。


「こちらが、セレスティア様の案です」


 そこには、細かな配分が書かれていた。


 西地区の薬草費は削らない。

 食糧費は南地区の余剰分を一時移管。

 寝具補修は王宮予備費ではなく、冬季慈善基金から半額を補填。

 ただし慈善基金を使う場合、ローゼン侯爵夫人への事前説明が必要。


 リリアナは眉を寄せた。


「なぜ、ローゼン侯爵夫人が?」


「慈善基金の監査をなさっている方です」


「では、その方にお願いすれば」


「お願いだけでは通りません。昨年、別件で財務局が基金の扱いを誤り、侯爵夫人は王宮の支出にかなり厳しくなっておられます」


「では、どうすれば」


 エルンは、さらに別紙を出した。


「セレスティア様が、説明文の下書きを残されております」


 リリアナはそれを受け取った。


 文面は丁寧だった。

 救貧院の現状、春風邪の広がり、基金使用の理由、返済計画、監査への協力姿勢。


 すべてが書かれている。


 これなら、自分は署名するだけでいい。


 そう思った瞬間、背筋が冷えた。


 署名するだけ。


 それは、つまり。


 姉は、自分が何も分からなくても形だけは整うようにしていたのではないか。


 リリアナの指が震える。


 守られていた。


 また。


 自分は姉から奪ったつもりで、まだ姉に守られている。


「……私、これは」


「リリアナ様?」


「これは、私が書いたことになるのですか」


 エルンは答えに詰まった。


 その沈黙が苦しかった。


 リリアナは書類を机に置く。


「お姉様の案なら、お姉様の名前で出せばよいのでは」


「それは難しいかと」


「なぜですか」


「セレスティア様は現在、王宮実務から外されております」


 外された。


 誰が外したのか。


 王太子殿下だ。

 父だ。

 そして、自分だ。


 リリアナは唇を噛んだ。


 そのとき、扉が勢いよく開いた。


「リリアナ!」


 明るい声とともに、アデルが入ってくる。


 彼は今朝と同じように、リリアナを励ますつもりの顔をしていた。


 リリアナは反射的に立ち上がろうとしたが、机の端に手が当たり、書類が数枚ずれた。


「あっ」


 エルンが慌てて押さえる。


 アデルは笑った。


「そんなに緊張しなくていい。君はまだ慣れていないのだから」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ重くなった。


 まだ慣れていない。


 それは事実だ。


 だが、書類の期限はリリアナが慣れるまで待ってくれない。


「殿下」


 リリアナは書類を胸に抱えた。


「この救貧院の支払いですが、お姉様の案を使ってよろしいのでしょうか」


「セレスティアの?」


 アデルの表情がわずかに曇る。


「君が決めればいい」


「でも、私にはまだ」


「大丈夫だよ。君は優しい。救貧院のことを思って判断すればいい」


 優しい。


 また、その言葉。


 リリアナはその言葉にすがりたいのに、今はうまくすがれなかった。


 優しければ、数字が読めるのか。

 優しければ、基金の監査を通せるのか。

 優しければ、遅れた支払いの責任を取れるのか。


 分からない。


 分からないことばかりだった。


「殿下は、この案をご覧になりますか」


「今は会議前で時間がない。要点だけ後で聞かせてくれ」


 アデルはそう言って、机の上を軽く見た。


「それにしても、セレスティアは本当に細かいな。こんなもの、君に全部読ませる必要はないだろう」


 リリアナは顔を上げた。


「必要が、ない?」


「そうだろう。君が疲れてしまう。彼女は昔から、物事を難しくしすぎるところがあった」


 エルンが何か言いたげにした。


 だが、王太子の前では黙るしかない。


 アデルはリリアナの肩に手を置いた。


「君は君らしくいればいい。セレスティアの真似をする必要はない」


「でも、真似をしなければ、この仕事は」


「仕事は周囲に任せればいい」


 アデルは当然のように言う。


「王太子妃に必要なのは、皆に愛されることだ。細かい数字や書類に埋もれることではない」


 リリアナは、その言葉を聞いてほっとするはずだった。


 ずっと、それを望んでいたはずだ。


 姉のように完璧でなくてもいい。

 姉のように難しい書類を読めなくてもいい。

 愛されればよい。


 そう言ってほしかった。


 なのに、机の上の赤印の書類が目に入る。


 救貧院。

 王妃の薬。

 隣国大使館。

 南方大使夫人への弔問。


 これは、誰かがやらなければならないことだ。


 姉は、これをやっていた。


 愛されるためではなく。


 誰かが困るから。


「殿下」


 リリアナの声は、自分でも思ったより小さかった。


「お姉様は、愛されていなかったのでしょうか」


 アデルは一瞬、きょとんとした。


「何を急に」


「お姉様は、王太子妃に必要なことをしていたのではないのですか」


 アデルの眉が寄る。


「リリアナ、君は優しすぎる。昨夜あれほど傷つけられたのに、まだ姉を庇うのか」


「庇っているわけでは」


「なら、気にしなくていい」


 アデルは少し強い声で言った。


「セレスティアは、自分が必要とされていると思い込みすぎていた。王宮は一人の令嬢がいなくなったくらいで止まらない」


 エルンの指が、机の端でかすかに動いた。


 リリアナはそれを見てしまった。


 書記官は反論したいのだ。


 だが、できない。


 リリアナは初めて、王太子の言葉が誰かの口を塞ぐ瞬間を見た気がした。


「……はい」


 リリアナは頷いた。


 それ以外に、どう答えればよいか分からなかった。


 アデルは満足そうに微笑む。


「会議が終わったら迎えに来る。無理はしないように」


「ありがとうございます」


 アデルは部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 その直後、部屋の空気がどっと重くなった。


 エルンは黙って書類を整えている。


 リリアナは、その手つきを見ていた。


 丁寧だが、どこか焦っている。

 彼もまた、時間に追われているのだ。


「エルン」


「はい」


「この救貧院の支払いは、遅れるとどうなりますか」


 エルンは少し迷ってから答えた。


「西地区では、すでに薬草が不足しております。数日遅れれば、発熱した子どもたちへの薬湯が薄まるかと」


「薄まる……」


「食糧も、今週分は何とか。ただ、寝具の補修が遅れれば、病人を分けて寝かせられません」


 リリアナは書類を見下ろした。


 数字が、人の顔に変わっていくようだった。


 これまで数字は、姉が扱うものだった。


 自分には冷たく、難しく、愛らしくないもの。


 だが、そこには子どもの薬湯があり、病人の寝具があり、食事を待つ人たちがいる。


「……お姉様は、これを知っていたのですね」


「はい」


「毎年?」


「はい。少なくとも私が書記局に入ってからは」


「あなたは、何年目ですか」


「四年目です」


 四年。


 リリアナは、自分がその四年の間に何をしていたかを思い出そうとした。


 新しいドレス。

 茶会。

 王太子殿下との散歩。

 姉に止められた見舞い。

 姉に注意された招待状。


 それらの裏で、姉は救貧院の薬草費を見ていた。


「この案で進めてください」


 リリアナは言った。


 エルンが目を上げる。


「よろしいのですか」


「私には、これ以上よい案が分かりません。ですから、お姉様の案を使います」


「署名は」


「私の名で出します」


 その言葉を言うのは、ひどく苦しかった。


 姉の案を自分の名で出す。


 また奪うような気がした。


「ただし」


 リリアナは続けた。


「控えには、セレスティアお姉様の案を基にしたと残してください」


 エルンがわずかに目を見開く。


「それは、殿下が」


「表に出さなくて構いません。でも、記録には残してください」


「……承知しました」


 エルンは深く頭を下げた。


 その礼は、先ほどまでのものと少し違った。


 リリアナは胸が痛くなった。


 こんな小さなことで、少しだけ信用されたように感じてしまう自分が情けない。


 だが、その直後。


 廊下が騒がしくなった。


 マルタ侍女長が、厳しい顔で部屋に入ってくる。


「リリアナ様」


「マルタ様」


「王妃陛下の療養記録をお持ちでしょうか」


 リリアナは慌てて机の上を探した。


 青い紐。

 赤い札。

 薬草納入。

 食事制限。


 どれだろう。


 分からない。


 引き継ぎ書を開く。


『王妃陛下関連は、黒い革表紙の記録帳を最優先。机右上段。鍵は小箱の中』


 セレスティアの字。


 リリアナは机の右上段を開けた。


 小箱がある。


 鍵を開けると、黒い革表紙の帳面が入っていた。


「これですか」


 マルタは受け取ると、すぐにページをめくった。


 その表情が、わずかに和らぐ。


「ええ。これです」


 リリアナは息を吐いた。


 見つかった。


 自分が見つけたのではない。


 姉の文字が教えてくれた。


 マルタは帳面を抱え、リリアナを見た。


 その目は冷たくはなかったが、優しくもなかった。


「昨夜、陛下は熱を出されました」


「え……」


「薬湯は遅れましたが、何とか落ち着いておられます」


「そう、ですか」


「セレスティア様は、夜会の前にすでに注意を書き残しておられました」


 リリアナは言葉を失った。


 夜会の前。


 つまり姉は、断罪される前から王妃の体調を気にしていた。


 自分が王太子殿下の隣で涙を浮かべていたあの夜も。


「リリアナ様」


 マルタの声は低かった。


「王妃陛下は、あなたを責めておられません」


 リリアナは一瞬、ほっとしかけた。


 だが、続く言葉で凍りつく。


「ですが、セレスティア様も責めておられません」


「……王妃陛下が、そう」


「はい」


 マルタは深く一礼した。


「失礼いたします」


 彼女が去ったあと、リリアナは椅子に座り込んだ。


 責めていない。


 姉は王妃にも責められていない。


 では、自分たちは何をしたのだろう。


 王太子殿下は、何を裁いたのだろう。


 父は、何を見捨てたのだろう。


 リリアナは引き継ぎ書を見つめた。


 姉の字は乱れていない。


 最後のページには、こう書かれていた。


『困ったときは、一人で抱え込まないこと。必ず誰かに確認すること。あなたは私ではないのだから、私と同じやり方をしなくてよい』


 リリアナの視界が滲んだ。


 優しい。


 優しすぎる。


 どうして。


 どうして、姉はこんなものを残したのか。


 どうして、自分を責める言葉を一つも書かなかったのか。


 責めてくれればよかった。


 お前には無理だと書いてくれればよかった。


 奪ったくせにと罵ってくれればよかった。


 そうすればリリアナは、姉を悪者のまま憎めたのに。


「お姉様……」


 声が震えた。


 エルンは何も言わなかった。


 リリアナは椅子の肘置きを握りしめる。


 その硬さが、掌に食い込む。


 姉の椅子は、少しも優しくない。


 けれど、ここに座っていた姉は。


 あまりにも、優しすぎた。


 そのことに気づきかけたリリアナの背筋を、冷たいものがゆっくり這い上がっていく。


 この椅子に座り続ければ、自分は姉のことをもっと知ってしまう。


 姉が悪女ではなかったことを。

 自分が知らないところで、何度も守られていたことを。

 王太子殿下が見ていなかったものを、姉だけが見ていたことを。


 そして、きっと。


 自分が何を奪ったのかも。


 リリアナは震える手で、赤印の書類を一枚取った。


 読むしかない。


 逃げれば、また誰かに守られる。

 けれど、今度守ってくれる姉はもういない。


 その事実が、初めて本当に怖かった。

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