第7話「甘い熱波と氷の守護者」
首筋の奥で、何かが焦げるような熱を感じた。
午後3時の陽光が、建設中の滑り台コースの白木を眩しく照らし出している。
シエルは設計図を握りしめたまま、現場の足場に立っていた。
視界の端が、不自然にぐにゃりと歪む。
額から噴き出した汗が、まつ毛を伝って目尻に落ちた。
塩辛い痛みが走るが、それを拭うために腕を上げる気力すら湧かない。
膝の裏側から力が抜け、立っているのがやっとの状態だった。
呼吸が浅く、早い。
肺の中に熱した砂を吸い込んでいるような感覚だ。
オメガとしての本能が、警鐘を鳴らしていた。
ヒートの予兆だ。
抑制剤は、今朝も規定量を飲んでいたはずだった。
だが、遊園地の拡張工事と連日の客の対応による極度の過労とストレスが、オメガの身体に限界を迎えさせていたのだ。
前世の知識を具現化する喜びに夢中になるあまり、自身の体力の底が抜けていることに気づけなかった。疲労で薬の効力が薄れ、予定よりもはるかに早く突発的なヒートが誘発されてしまったらしい。
己の不甲斐なさを呪う余裕すらない。
甘く、そして暴力的な熱の波が、下腹部から全身の血管を這い上がってくる。
「シエルさん、ここのレールの角度ですが」
下から職人の声が聞こえた。
返事をしようと口を開いたが、喉から出たのは掠れた乾いた音だけだった。
視界が白く明滅する。
足元の板の感覚が消え、重力が反転したような錯覚に陥った。
落ちる。
そう認識した瞬間、誰かの強い腕がシエルの身体を空中で受け止めた。
硬く、しかししなやかな腕だ。
黒い布越しに伝わってくる、氷のように冷たく心地よい体温だ。
そして、雪解け水のような清冽な香りが、シエルの鼻腔を強制的にこじ開けて入り込んでくる。
ルクスだった。
定期視察に訪れていた彼が、足場から崩れ落ちたシエルを間一髪で抱き留めたのだ。
「……閣下」
シエルの口から、熱に浮かされたような甘い吐息が漏れる。
ルクスの藍色の瞳が、微かに見開かれた。
至近距離で交わる視線だ。
ルクスの冷たい瞳の奥に、かつてないほどの鋭い光が宿るのをシエルは見た。
「人払いしろ」
地を這うような、絶対的な命令だ。
職人たちが弾かれたように作業を止め、蜘蛛の子を散らすように現場から遠ざかっていく。
アルファの頂点に立つ者の、有無を言わさぬ威圧感だ。
シエルはルクスの腕の中で、恐怖ではなく、安堵で身体を震わせた。
オメガの身体は、優れたアルファの香りを前にすると、完全に抵抗の意志を奪われる。
だが、シエルが感じていたのは本能的な屈服ではない。
この人なら、自分を傷つけない。
理性がそう叫んでいた。
ルクスはシエルを軽々と横抱きにし、無言のまま歩き出す。
向かった先は、敷地の端にあるシエル専用の休憩小屋だった。
木製の扉を足で押し開け、中に足を踏み入れる。
外の喧騒が遠ざかり、薄暗く埃っぽい空間に、二人の呼吸音だけが響いた。
ルクスは部屋の隅にある粗末なベッドに、シエルを壊れ物を扱うようにそっと横たえる。
背中に硬いマットレスの感触が伝わる。
シエルは荒い息を吐きながら、自分の身体を抱きしめた。
熱い。
身体の内側で、得体の知れない炎が燃え盛っている。
オメガの発情期は、理性を溶かし、ただ快楽と交わりを求める獣へと変貌させる。
前世の田中春樹としての尊厳が、抗いようのない本能の波に飲み込まれそうになっていた。
爪を手のひらに食い込ませ、痛覚で意識を繋ぎ止める。
シエルの唇の端から、血が滲んだ。
ルクスはベッドの傍らに片膝をつき、シエルの様子をじっと見下ろしていた。
彼の顔に表情はない。
だが、その手は強く握り締められ、革手袋が悲鳴を上げるような音を立てていた。
「……薬は」
短く、硬い声だった。
「飲んだ、はずなのに……効かなくて……僕の、不注意です」
シエルは途切れ途切れに答える。
オメガの甘い香りが、狭い部屋の中に充満していく。
熟れた果実が腐り落ちる直前のような、濃密で抗いがたい香りだ。
並のアルファであれば、この匂いを嗅いだ瞬間に理性を失い、獣のようにオメガに襲いかかるだろう。
ルクスの額にも、微かに汗が浮かんでいた。
彼はアルファとしての本能と、強靭な精神力で戦っているのだ。
シエルは自分の醜態を晒していることが、ひどく惨めだった。
遊園地を作り、人々を笑顔にしたいと豪語しながら、結局はオメガという生物学的な枷から逃れられない。
前世の記憶と、この世界の現実との間に横たわる、決して埋められない溝。
「……出て、行ってください」
シエルは顔を背け、絞り出すように言った。
「こんな姿、見られたくない」
涙が頬を伝い、シーツに黒い染みを作る。
ルクスは動かなかった。
ただ、静かな呼吸を繰り返し、シエルの苦痛に満ちた姿を網膜に焼き付けているかのようだった。
どれほどの時間が流れただろうか。
熱波に苛まれ、意識が遠のきそうになるシエルの視界に、黒い布が被せられた。
ルクスの外套だった。
ずっしりとした重みと、そこに染み付いた冷たい香りが、シエルの全身を包み込む。
ルクスの香りが、シエルの暴走するオメガの香りを優しく中和し、鎮めていく。
「無理をして、言葉を発するな」
頭の上から、低い声が降ってきた。
シエルが目を開けると、ルクスの分厚い手が、シエルの熱を持った額にそっと触れていた。
氷のように冷たい手のひらだ。
その感触が、狂おしいほどの熱を少しずつ奪っていく。
「私は、ここから動かん」
ルクスの言葉には、一切の淀みがなかった。
「ヒートが収まるまで、私が守る」
その言葉は、どんな魔法よりも強力にシエルの心に響いた。
守る。
オメガを性的搾取の対象としてしか見ないこの世界で、最強のアルファが発した絶対的な誓い。
シエルは外套を握りしめ、声にならない声を上げて泣いた。
惨めさからの涙ではない。
心の奥底に張り詰めていた緊張の糸が、ルクスの言葉によって断ち切られたのだ。
前世の記憶に縋り、一人で戦ってきた。
誰にも弱みを見せず、ただひたすらに前を向いて走り続けてきた。
でも、もう一人ではない。
この人の傍にいる限り、自分は安全だ。
シエルの心の中で、ルクスという存在が、単なる後援者から、かけがえのない何かへと決定的に変わった瞬間だった。
発情期の波は、ルクスの冷たい香りに包まれることで、穏やかな潮の満ち引きへと変わっていった。
熱に浮かされながらも、シエルはルクスの手の感触と、雪解け水の香りを深く記憶に刻み込む。
外では陽が落ち、夜の帳が下り始めている。
窓の隙間から入り込む夜風が、火照った頬を心地よく撫でていった。
ルクスは本当に、一歩も動かなかった。
シエルの呼吸が落ち着き、深い眠りに落ちるまで。
彼はただ黙ってベッドの傍らに座り、オメガの青年の寝顔を守り続けていた。
静かな夜の闇の中で、二人の心の距離は、もはや言葉を必要としない領域にまで近づいていた。




