第5話「夜更けの外套と距離の縮まり」
プレ開業の成功は、劇的な変化をもたらした。
ファンタジー・ガーデンの噂は、風に乗るようにヴァルディア領全域へ広まった。
休日のたびに街中から人が押し寄せ、更地だった敷地は常に熱気と歓声で満たされるようになった。
シエルは休む間もなく次の計画に着手していた。
重力制御の魔法を応用した滑り台コースだ。
前世で言うところの、小規模なジェットコースターだ。
安全性を確保するための軌道計算と、魔力の出力調整に頭を悩ませる日々が続く。
ルクスの視察の頻度も、目に見えて増えていた。
以前のように馬上から一瞥して去るのではなく、馬を降りて作業現場の奥まで足を踏み入れるようになった。
言葉数は相変わらず少ない。
しかし、滞在する時間は確実に延びている。
夕暮れ時の作業場。
オレンジ色の光が、巨大な木組みのレールを長く引き伸ばしていた。
シエルは手元の図面とレールを交互に見比べながら、指示を出している。
「ここのカーブの角度、あと二度緩めてください。遠心力が強すぎます」
背後から、静かな足音が近づいてきた。
振り返らなくても、空気が張り詰める感覚で誰が来たのかわかる。
「順調そうだな」
ルクスの低い声が、背中に落ちる。
「問題山積みですよ。重力魔法の制御が不安定で、このままでは乗客が空の彼方へ飛んでいってしまいます」
シエルは苦笑しながら振り返った。
ルクスは図面を覗き込み、複雑な数式の羅列に僅かに目を細める。
「これが完成すれば、人が空を飛ぶ感覚を味わえるというわけか」
「はい。恐怖と快感は紙一重なんです。心臓が跳ね上がるようなスリルのなかで、人は日常の悩みを忘れることができます」
シエルは熱っぽく語る。
前世で経験した、急降下の瞬間の無重力感だ。
風を切り裂く音だ。
隣の席の知らない誰かと、恐怖と歓喜を共有する一体感だ。
ルクスは口を挟むことなく、ただ静かにシエルの言葉に耳を傾けていた。
その藍色の瞳の奥に、以前のような冷たい氷の壁は感じられない。
どこか穏やかで、思索に沈むような色を帯びていた。
「お前の頭の中には、いったいどれだけの世界が詰まっているんだ」
ぽつりとこぼれ落ちたルクスの言葉だった。
シエルは少し驚いて目を瞬かせる。
「まだまだありますよ。水の上を滑る船も、星空を飛ぶ馬車も、いつか必ず形にしてみせます」
ルクスは微かに顎を引き、それ以上何も言わずに去っていった。
二人の間の空気は、最初の頃の殺伐としたものとは確実に変わっていた。
身分も性別も超えた、奇妙な信頼関係のようなものが芽生え始めている。
数日後の深夜。
敷地の隅に建てられた簡素なプレハブ小屋の窓から、微かなランプの光が漏れていた。
シエルは机に突っ伏したまま、深い眠りに落ちていた。
右手には羽ペンを握りしめ、インクで汚れた羊皮紙が頬の下敷きになっている。
限界まで張り詰めていた糸が切れ、抗えない疲労の波に飲み込まれたのだ。
静寂を破り、小屋の扉が音もなく開いた。
夜風とともに流れ込んできたのは、冷涼で微かに甘い、雪解け水のような香り。
ルクスだった。
彼は足音を殺して机に近づき、眠りこけるシエルを見下ろす。
インクの染みがついた頬。
無防備に開かれた唇から、規則正しい寝息が漏れている。
起きている時の強気な態度は影を潜め、年相応のあどけない表情があった。
ルクスの胸の奥で、奇妙な感情が疼く。
それは庇護欲のような、あるいはもっと複雑で名前のない熱だった。
オメガであるシエルが、アルファの自分に対して一切の媚びも恐れも見せず、ただ真っ直ぐに夢を語る姿。
その危うさと力強さに、いつしか目が離せなくなっている自分がいる。
ルクスは自身が羽織っていた重厚な黒い外套の留め具を外す。
布の擦れる微かな音が響く。
彼は外套を脱ぎ、シエルの丸まった背中の上に、音を立てないようにそっと掛けた。
体温の残る重い布地が、シエルの身体を包み込む。
ルクスはシエルの寝顔をもう一度だけ長く見つめ、静かに小屋を後にした。
翌朝だ。
窓から差し込む陽光の眩しさに、シエルはゆっくりと瞼を開ける。
首の裏に痛みを感じて身じろぎすると、背中から重い布が滑り落ちた。
床に落ちたそれを見て、シエルは息を呑む。
ヴァルディア公爵家の紋章が銀糸で刺繍された、最高級の漆黒の外套。
布地からは、鼻腔をくすぐる微かな香りが漂っていた。
雪解け水のような、清冽で静かな香り。
ルクスの香りの名残だ。
オメガとしての本能が、その香りに反応して微かに心拍数を上げる。
しかし、そこに恐怖や嫌悪感は微塵もなかった。
あるのは、分厚い壁に守られているような、絶対的な安心感だ。
シエルは床に落ちた外套を両手で拾い上げる。
布の重みと手触りが、昨夜ルクスがここにいたという事実を実感させる。
顔を埋めると、香りがさらに強く肺を満たした。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
シエルは窓の外の青空を見上げ、外套を抱きしめたまま、小さく笑みをこぼした。




