第四話∶花嫁候補と揺れる心
凛の突飛な、しかし現代的なマーケティング戦略は、驚くべき効果を発揮した。彼女が考案した、可憐な女性モデル(もちろん、久遠寺の使用人の娘に、凛が自らポーズや表情を指導したのだ)を起用した新聞広告は、読者の目を惹きつけた。キャッチコピーも、商品の成分を羅列する代わりに、使用することで得られる「美しさ」「輝き」といった、女性の感情に訴えかける言葉を選んだ。さらに、主要な百貨店の店頭に、商品を試せる小さな台座を設け、使用人が使い方を丁寧に説明する、という方法を提案した。
結果は、歴然だった。それまで埃をかぶっていた化粧品が、飛ぶように売れ始めたのだ。特に若い女性たちの間で評判となり、「あの久遠寺の新しいおしろい」「つけると肌が明るくなる」と、口コミで広がっていった。最初は懐疑的だった久遠寺の重役たちも、目の前の売り上げ増加に驚きを隠せない。
屋敷の中での凛への視線は、劇的に変わった。単なる記憶喪失で保護された可哀想な娘、という憐憫の眼差しは消え失せ、代わりに向けられるのは、感心、尊敬、そしてある種の畏敬の念だった。女将さんや他の親戚らしき人々も、以前は当たり障りのない対応だったのが、今では会うたびに丁寧な挨拶をし、「橘様のおかげで…」と深々と頭を下げるようになった。タエは我が事のように喜び、「凛様は福の神でございますよ」とまで言った。
自分の力で、この世界の、しかも日本有数の財閥の危機を救った。インフルエンサーとして、何十万、何百万という人々に影響を与えてきた経験は、100年前の帝都でも通用したのだ。その事実は、凛に大きな自信と、この世界で生きていくための足がかりを与えてくれた。
(すごい…私のやってきたことって、この時代でも通用するんだ…!)
成功の喜びと、久遠寺家の人々からの感謝は、凛の心を温かく満たした。しかし、同時に、心の中で警鐘が鳴り響いていた。この成功は、彼女が未来から来たという、最大の秘密の上に成り立っている。いつか、それが露見する日が来るのではないか。そして、その時、この温かい居場所を失うのではないか、という不安が常に付きまとった。
そして、もう一つ、凛を取り巻く空気が変わったことがある。それは、暁人との関係性だった。
事業の危機を共に乗り越えたことで、暁人の凛に対する態度は、以前のような分析するような、冷たい視線から、明らかに変化していた。彼は、凛と顔を合わせるたびに、どこか安堵したような、そして探るような色の代わりに、複雑な感情を瞳に宿らせて見つめてくるようになった。
「橘殿のおかげで、助かった。感謝する」
二人きりになった時、暁人はまっすぐに凛の目を見て、そう言った。その声は、以前のような冷ややかさはなく、心からの感謝が込められているように聞こえた。
「いえ、あの…私にできることでしたら…」
照れくさくて、つい言葉に詰まる凛。暁人は、そんな凛の様子を見て、わずかに口元を緩めた。彼の纏う空気が、以前よりも柔らかくなったように感じる。
それからも、暁人は何かにつけて凛に話しかけてくるようになった。事業のこと、この帝都のこと、そして、彼自身の抱える重圧について。久遠寺財閥の跡取りとしての責任、周囲からの期待、そして、それを一人で背負う孤独。彼は、普段誰にも見せないであろう弱い部分を、凛には見せた。
凛は、彼の話を聞くうちに、彼の抱える孤独や苦悩を理解し、共感するようになった。そして、彼の知性、誠実さ、そして財閥を背負う者としての気概に、強く惹かれていった。それは、現代のキラキラした世界で出会った、どんなに素敵な男性とも違う魅力だった。彼の傍にいると、心が落ち着き、安心できた。
ある日、女将さんとタエがひそひそ話をしているのを、凛は偶然耳にした。
「…橘様のような、賢くて、度胸のあるお方が、もし久遠寺の嫁御寮になってくだされば…若旦那様も、さぞお心強いことでしょうに…」
「ええ…全くでございます。あのように新しい考えをお持ちの方ならば、久遠寺の未来は安泰でございましょう…」
「嫁御寮」。「若旦那様」。
凛の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。花嫁候補。自分が、暁人の花嫁候補として、久遠寺家の中で真剣に検討されている…?
驚きと同時に、形容しがたい感情が胸に広がった。それは、少しの戸惑いと、そして…淡い期待のようなものだった。久遠寺家の安定した地位。そして、暁人の隣。それは、この未知の世界で、自分が得られるかもしれない、最も確かな居場所だった。
しかし、その期待はすぐに、激しい葛藤へと変わる。久遠寺の嫁になるということは、この大正時代に骨を埋めるということだ。元の世界との、完全な断絶。家族、友人、愛するSNS、そして自分のキャリア…全てを、永遠に失うということ。
一人になると、凛は激しいホームシックに襲われた。この時代の生活にも慣れ、着物での立ち居振る舞いも板についてきた。食事も、初めは物足りなかったものが、この時代の素朴な美味しさに気づくようになった。流行りの洋装や、モダンなカフェー(タエに連れられて、こっそり行ったことがある)の華やかさにも、大正浪漫の魅力を感じていた。
それでも、ふとした瞬間に、強烈な郷愁が襲い来る。
(あー、スタバの新作飲みたい…! マジで、今すぐタピりたいんだけど…! あと、あの時の撮影のデータ、どうなったかな…? インスタ、みんな何載せてるんだろう…)
失った日常を思うたび、胸が締め付けられる。この時代には、自分の存在を知る者は、今目の前にいる久遠寺の人々だけだ。令和の日本には、自分の生きた証が、データとして、記憶として、確かに残っているはずなのに。
密かに、元の世界に戻る方法を探す努力は続けていた。タエにそれとなく、この辺りで変わった出来事や、不思議な現象がなかったか尋ねたり、書物で雷に関する記述を探したりした。しかし、有力な情報は皆無だった。雷に打たれてタイムスリップなんて、この時代の人間に話しても、笑われるか、本気で心配されるだけだろう。
時間が経つにつれて、元の世界に戻るということが、非現実的な夢のように思えてきた。この時代の生活に深く根を下ろしつつある自分を感じる。久遠寺の人々との絆。そして、暁人への気持ち。
暁人も、凛への気持ちを隠さなくなってきた。彼の視線は、もはやビジネスのパートナーを見るものではなく、一人の女性に向けられる、熱を帯びたものになっていた。彼は、凛の現代的な考え方や、困難に立ち向かう強さを心から尊敬し、同時に、記憶を失いながらも前向きに生きる凛の姿に、惹かれているようだった。
ある夜、月明かりの下、庭を散策していた凛に、暁人が声をかけてきた。
「橘殿は…この帝都に、いつまで滞在されるおつもりだ?」
その問いに、凛は言葉を失った。滞在。それは、いずれは去ることを前提にした言葉だ。しかし、彼女にはもう、帰る場所がない。
「私…その…どこへ行けばいいのか、分からないんです…」
絞り出すような声で答える。暁人は、一歩近づき、凛の瞳を覗き込んだ。
「もし…もし、君が望むのであれば…久遠寺に、留まってくれないか」
月の光を浴びて、暁人の顔が微かに赤らんでいるように見えた。その真剣な眼差しに、凛の心臓が激しく脈打つ。
「久遠寺に…?」
「ああ。記憶が戻るまで、とは言わず…いや、例え記憶が戻らずとも…君がこの場所を、この時代を、受け入れてくれるのであれば…」
暁人の言葉には、続きがあった。しかし、その続きを口にする前に、彼は一度言葉を区切った。そして、意を決したように、凛の手をそっと取った。
「…私の傍に、いてほしい」
その言葉は、飾り気のない、純粋な響きを持っていた。久遠寺財閥の若旦那ではなく、一人の青年としての、真っ直ぐな想い。凛の手を握る、彼の少し震える手に、その全てが込められているように感じた。
凛の頭の中では、現代の喧騒と、この時代の静寂が同時に響いていた。フォロワー100万人超えのカリスマインフルエンサーとしての自分。そして、記憶を失った異邦人として、この時代に流れ着いた自分。どちらの自分も、真実だ。
(私は…どうしたいんだろう…?)
遠い過去への郷愁と、目の前にいる暁人への恋情。二つの時代で揺れる心は、今、最も激しく、そして切なく脈打っていた。
(第五話に続く)




