第八章──決心と覚悟③
「おはよう、彩夏」
ニールスの呼び方に俺は反応した。
起床が一時間速まっても身体は案外順応するらしい。手元のランプのスイッチを入れるとニールスは既に車椅子姿だった。
ほとんど同時に起床を意味するニールセンの交響曲がスピーカーから流れ始めた。
「顔を洗うにはどうしているんだ?」
「いつもは姉がたらいに水を張って持ってきてくれるよ」
「了解だ」
俺は扉の脇に置かれたたらいを手に持ち扉を開けた。いつも通り、廊下は起床したての下級兵でごった返していた。俺は水道で素早く顔を洗い、たらいに水を張りニールスの元に戻った。
「ありがとう、彩夏」
ニールスはたらいからコップ一杯の水を取ると素早く歯磨きを始めた。俺も自分のタオルとコップ、歯磨きセットを取って洗面台に戻る。ものの二分とかからず歯磨きと洗顔を終えた俺は自室にとって返し、ニールスのたらいとコップ、歯磨きセットを処理する。
続いて俺はベッドメイクを整え、ニールスのベッドも整え、たらいを洗いに外へと出た。洗面台は相変わらず混んでいたが軽く雪ぐだけなので手間はかからなかった。
部屋に戻った俺は、車椅子のニールスを伴い食堂に向かった。行き交う兵士たちもほとんど口を聞かない。あと数時間足らずで祖国が降伏する、その前にゲルマニア軍と一戦交える──戦死する恐れがあるとすれば口数も減るだろう。
魔石の力で階段を降りた彩夏に、俺は後ろから車椅子を押した。
行き先は食堂だ。
八時間何も食べなければどうしても腹が減る。祖国が敗北するその日でも人間の生理機能は変わらない。
食堂の入り口まで進むとノアとクレアが俺たちを待ち構えていた。おはようの挨拶を交わしつつ四人が座れる席を首尾良く確保した。俺とノアの二人が席を立ち、朝食セットを四人分確保することになった。
「二人とも眠れた?」
ノアの問いかけに俺は肩をすくめた。
「寝る前にニールスの足の事をいろいろ聞いたよ。魔力障害で車椅子とは大変だな」
「ええ……ここまで来るのに決して楽じゃなかったわ。政府がニールスへの支援を本格化させたのは学者になってからだし、それまでは普通の車椅子が精一杯だったのよ」
「魔石組み込み型は特注品というわけか」
食堂の係からトレイを二つ受け取りつつ、俺たちは列から離れた。テーブルに座しているクレアとニールスにトレイを渡し、自分たちも椅子に着く。
朝食はパンとコーヒー、ソーセージだった。
俺たちは事務的に食事を取りつつ、柱時計に視線を向けた。
「昨日も訊ねたけど、国王機は何時に現れるんだ?」
俺の質問にノアは
「〇九〇〇前後と聞いているわ。それから給油と必要な人員、物資を詰めこんで出発ね」
「その護衛を基地の全戦闘機、ドラゴンで行うということか」
「そう。約四〇機のスピットファイアとドラゴン二頭で国王機を護ることになる」
「それでブリタニアの領空に入るのは……」
「全速で飛べば一時間とかからないけど、巡航速度も併用すると九〇分と言ったところね」
「全速で飛んだら護衛機の燃料が先に尽きるからな。ドラゴンが時速六〇〇キロで飛べる事と、編隊全体にそれができるかは……」
「イコールじゃない。編隊の指揮を執るのはペーターセン少佐か?」
「そう聞いているわ。傭兵隊を率いるシャール少佐は次席として傭兵編隊を担当するはず」
「あとは敵──ゲルマニアの戦闘機が出て来るかどうかだな」
ノアを初めとする四人のコーヒーを飲む手がぴたりと止まった。
やはり懸念はその一点に尽きるのだ。
不意にスピーカーから音声が流れた。
「起床一時間繰り上げにより、各セクションのブリーフィングは〇六三〇より実施する。各員とも個別の用はそれまでに済ませること。以上」
俺たちは顔を見合わせた。
ブリーフィングとは事前説明の事で、軍事、航空用語の一つだ。戦後はビジネス説明でも取り入れられ、短時間の打合せを意味するなど民間でも定着した英語の一つだ。
「ブリーフィングの間は一緒にいられるね」
ニールスの声にノアはうなずく。
「そうね。国王専用機でも一緒だから、気を強く持つのよ」
「彩夏は国王専用機の近くを飛ぶのかな?」
「その辺はブリーフィングの指示次第だろうが、俺を含め戦闘機パイロットが総掛かりで国王専用機を護るんだ。その意味では、最後までみんな一緒だ。そうだよな、クレア?」
「傭兵団はデンマーク軍に忠誠を誓っているから一枚岩よ。安心して」
打てば響くクレアの声に俺はかすかにほっとした。傭兵団の実態について俺が知る知識はあくまで通り一遍、二年に渡り傭兵団に所属しているクレアとは比べるべくもない。その時、ニールスが穏やかな笑みを浮かべこう言った。
「信じるよ。クレアと彩夏のことは絶対に」
「信頼をありがとう、ニールス」
俺はそう応じつつ、年端もいかない一四歳の少年が示す現実主義に肌が粟立った。
ニールスは傭兵団全体を信じてはいない。
確率は低いが裏切り者がいるかもしれない。
その観測が出てから彼が信じる者はほんの一握りの身内のみになったのだ。
考えて見れば当然か。俺が精神転移してからこの基地に対するゲルマニア軍の攻撃が強化され、傭兵団は損害を出し続けている。俺自身も敵ドラゴン複数と遭遇、交戦で目をやられ、リンデベルン本国に緊急医療送還された。
誰かが情報を漏らし、その結果として今がある。
その認識へ早々に達したのは他ならぬニールスなのだ。
気持ちを切り替えるべく俺は立ち上がった。
「俺はいったん自室に戻るけど皆はどうする?」
「僕は食堂でいいかな。他にやる事もないし」
「私も同じね。クレアは?」
「私は彩夏と同じ。自室に戻るわ。身辺整理をしっかりしておきたいし」
「そう……次に会うのはブリーフィングの時ね」
「それじゃノア、ニールス、またね」
俺とクレアは結果として連れ立つように食堂を後にした。二、三歩歩いた所でクレアがそっとため息をつく。
「難しいわね、ニールス。全て見透かされてる気がしてきたわ」
「傭兵団全体の信頼は無理でも、個人的な信頼は勝ち得たんだ。今はそれで満足するしかないな」
男女区画の分かれ目に来た俺たちはそこで別れた。女子区画の二階を上がるクレアの背を見送り、男性区画の階段を上がった。
それから自室で暇を潰し、ブリーフィングが始まる一〇分前、飛行服に着替え終えた。
ロッカーを占め、スピーカーで指示された区画に足を向ける。
ブリーフィングが開かれる部屋は大部屋だった。既に数十名を超えるパイロットたちがそれぞれ着席し、指揮官の到着を待っていた。
俺はノア、ニールス、クレアが座す一角を素早く見つけ、椅子に腰を下ろした。
「時間ぴったりだね、彩夏」
ニールスの声に軽くうなずいて見せた途端、壇上に近いドアが開き、幹部たちが入ってきた。
先頭を切るのはデンマーク空軍のペーターセン少佐、続いて副官のアヌセン大尉、最後がリンデベルン傭兵団指揮官シャール少佐だ。
「皆、そろっているようだな。ではこれよりブリーフィングを始める」
ぶっきらぼうに切り出したペーターセン少佐は、壇上に立って説明を始めた。壇上の後ろにはデンマークを中心とした大判の地図が掲げられ、端には黒板が置かれていた。
「端的に言おう。国王専用機は〇九〇〇に到着、到着後、ただちに護衛機八機に対し給油を開始、給油完了と追加乗りこみを命じられたノア・ニールセン、ニールス・ニールセンの専用機搭乗を以て直ちに離陸する」
先任下士官とおぼしき者が挙手した後、質問を発した。
「給油までの時間と上空警戒任務機の配置はどうなります?」
「アヌセン大尉、応えてやれ」
副官のアヌセンが前に出、チェックリストを見つつ説明する。
「給油時間は一〇分。上空警戒任務機は、デンマーク空軍、傭兵団それぞれ四機が担当します。今から名前を呼ぶので起立するように。モルク少尉、ヤコブセン少尉……」
名前を呼ばれた彼らは素早く立ち上がり、うなずき合った。
「確認は済んだな。続いてフォーメーションだが、国王専用機の前後をデンマーク空軍が護衛、左右側面を傭兵団が護衛する。今から呼ばれた者は起立しろ。トムセン……」
前回同様、次々と名を呼ばれ、照合が終わり次第着席する。頷いたペーターセンは押えた口調で言った。
「以上が戦闘機隊のシフトと配置だ。次にドラゴンナイトになるが、ノア・ニールセン少尉は国王専用機と融合、そのままブリタニアを目指す。続いて彩夏とクレアだが……そっちへの説明はシャール少佐に任せる」




