第七章──戦線復帰②
一瞬、黒田冴子は遠くの壁を見つめた。
それはまるで受け入れがたい答を知る者が真実を相手に明かすことを前にした躊躇に見えた。
二秒ほど沈黙した冴子は押えた口調で切り出した。
「ヨーロッパ史から見たサミア人の歴史が弾圧の連続であった事は、もちろん理解しているわね。キリスト教においては、お金を貸して利潤を得ること、金貸しは賤業とされ、宗教の異なるサミア人にその役割があてがわれた」
冴子はコーヒーをすすり、続けた。
「結果的にそれが一部のサミア人たちを富ませることにつながり、それに嫉妬したキリスト教徒が──自分たちが賤業として金貸しを押しつけた事を棚に上げ、サミア人たちを弾圧した。ポグロム──ロシア語で言う『暴力的な破壊』という言葉が産まれたのも、一八二一年のオデッサにおけるサミア人に対する暴動からだったわ」
「はい」
「結局、ヨーロッパとロシア全域にサミア人差別が浸透していた事が、ゲルマニアがサミア人差別を推し進めるバックグラウンドになっているのよ」
「私たちサミア人は欧米人から憎まれてしまっている、ということですか」
「ありていに言えばそういうことね。私や彩夏があなたに対し偏見がないのも、私たちが欧米人ではなく日本人である事が大きいわ。私たち日本人から見たら、サミア人の外見は他の欧米人と同じで区別がつかない。宗教的教義や食べ物の制約は『そういうものか』と単に納得するレベルの範囲に収まっているから、偏見の持ちようがないのよ」
「知らない事が差別のない背景に繋がっている、ということですね」
「仮の話だけど、来日したサミア人の集団が日本国内で暴れ出し、日本人を苛めたり殺すような事をしたら日本でもサミア人差別が広がるかもしれない。結局、バックグラウンドとそれまでの歴史経緯が重要なのよ。ヒトラーはそれを利用してゲルマニア国内で強烈なサミア人差別体制を確立した。欧州各国がサミア人の救出にあまり熱心でないのもこうした背景からある程度説明できるわ」
「救いのない話ですね」
「それでもあなたと家族はリンデベルンへの亡命を果たせた。暗闇の中にも一筋の希望はあるのよ」
クレアは寂しげな笑みを冴子に返した。
「一筋の希望、ですか」
「The darkest hour is just before the dawn.ブリタニアの諺に『一番暗い時は夜明けの直前』というのがあるわ。暗闇は永遠に続かない。連合軍がゲルマニアを打倒したその時、永きにわたるサミア人差別も終焉を迎えるのよ」
俺は息が一瞬止まった。
黒田冴子に対する俺の印象は『徹底的なリアリスト』だった。
感情を排し、冷静かつ合理的に物事を判断する鉄の女。理性と合理の化身のような存在だと思っていた。
その同じ口から、想像を超えるクレアへの同情と励ましが語られたことに驚きを禁じ得ない。
クレアははっきりと判る笑みを浮かべ、冴子を見つめた。
「励ましの御言葉、ありがとうございます、冴子さん」
「生きてさえいれば、希望は蘇る。何事もあきらめず食らいつくのが戦時下における基本よ」
「はい」
ほんのわずかまなじりを下げた冴子は、次の瞬間肩をすくめ、押えた口調で言った。
「〇九〇〇、私はこの基地を飛び立ち、北回りで日本への帰路につきます」
「あと一時間……もないですね。見送ります」
「私も見送らせて下さい」
俺とクレアの声に黒田冴子は苦微笑を返した。
「そうね。二人ともそうしてもらえると助かるわ」
応じた冴子はカップの中のコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「じゃあね、二人とも」
そう言って洗い場にカップとトレイを返し、振り返らず食堂を後にしていった。
「私たちも自室に戻りましょうか?」
「そうだな。見送り時には上着を羽織らないと失礼に当たるだろうし」
俺たちもまた食堂を後にした。俺は個室に戻ると鍵をかけ、彩夏に向け囁いた。
「思った以上に優しい姉さんじゃないか、彩夏」
(俺も驚いたけど……何か裏にあるのかもしれん)
「そいつは少し……うがち過ぎと違うか」
(そうかなあ……)
「少なくともクレアに対する言葉には、真実があったと思う。TPOをわきまえた言葉が使えるのも大人の資質の一つだ」
(かもしれない。ああ……疑心暗鬼の自分がこんな時はほとほと嫌になる。おまえから見たら、俺の考えなんてまるっきり子どものそれに見えるんだろうな)
「そこまでは言わないよ。実際、彼女がクレアを励ますまで、黒田冴子の事は『徹底したリアリスト』と思っていたからな」
(そうか……やはりその見方でも正しいんだな)
一瞬、俺の心の中に彩夏に対する憐れみにも似た思いが湧いた。
産まれてから一六年、彩夏はリアリストである黒田彩夏から延々と干渉を受け、指導を受ける立場だった。
自分より遙かに知力に勝り、参謀本部の将校たちと論戦を戦わせても一歩も引かぬ明晰な頭脳を持つ姉の存在は彩夏にとって喩えようもない重い存在だったはずだ。
だからこそ彼は俺に『自分の事は上書きされた存在──すなわち死んだものとして対処して欲しい』と願った。
一六年間の鬱屈した思いとその呪縛は、今でも黒田彩夏の心を縛っている。
俺はいささか乱暴にロッカーを開けた。
制服の上着を取りだし、ベットに広げ、表面にある毛羽立ちと埃を丁寧に取った。それからロッカーにはめこまれた鏡を使い、櫛で頭髪を整え、軍帽を点検した。
制服、軍帽の整備を終えた俺は、それからベッドの隅に腰掛け、時が訪れるのを待った。
腕時計を見ると〇八五〇だった。
俺は整えられた上着を羽織り、軍帽を目深に被り、個室を後にした。
そのまま外に出る通路を選び、ハンガーに通じる通路を選んで進むと、牽引車に引かれたDC3が飛びこんできた。
外に出るとシャール少佐を初めとするお偉方も俺と同様に軍装を整え、黒田冴子と別れの挨拶を交わしていた。彼らとの儀式が終わる数分間、俺は合流したクレアと共に末席で時を待った。
黒田冴子は一瞬俺に憐れみにも似た視線を向け、言葉を継いだ。
「これからもあなたの事を黒田彩夏と呼んで構わないのね」
「構いません。この身体の持ち主は、黒田彩夏のものですから。俺──鳥飼理人は間借り人に過ぎません」
「そう。だとしたら、これをあなたに安心して託せるわ」
そう言って彼女が顎をしゃくると、背後に控えていた男が油紙に包まれた長物を冴子に渡した。
長物の長さは一メートルほど。形状から類推して……小銃の類だった。
「私からの贈り物よ。部屋に戻って、中身をじっくり確かめなさい」
「いったいこれは……」
「贈り物と言ったでしょう。受け取って」
「はい」
俺は言われるままそれを受け取り控え銃の動作を取った。
「じゃあね。彩夏も、クレアさんもお元気で。いずれ近いうち、会う事もあるでしょう」
そう言い残した黒田彩夏は踵を返し、DC3の機内に消えていった。
やがて両翼のエンジンが始動、爆音を高めつつDC3は滑走路に向け針路を取り、鮮やかに離陸する。
それから一分と経たず、係留されていた日本のドラゴンが大空に飛び立ち、DC3と融合、北西に向け飛び立っていった。
シャール少佐等の視線を受けつつ、俺は彼女から託された贈り物を手に自室に戻った。
鍵をかけ、ベッドの上で油紙を取り、確認する。
中身は想像通り、小銃だった。
が──。
俺は凝結した。このデザインは──。




