/Scene03
朝、可純は電車で紗羅と会う。
そして、同じ日、グラウンドで彼女の諦観した考えに触れることになる。
3.
確かに柚木紗羅は気まぐれだった。
その日の朝、可純は登校途中の電車で彼女と会った。学園都市まで後ふた駅というところで、紗羅が乗り込んできたのだ。
ドアのすぐそばで吊り革を持って立っていた可純は、それが開く前から彼女の姿を認めていた。遅れて彼女も可純に気がつき、わずかに目を見開いてブラウンの瞳に驚きと戸惑いの色を見せた。それが――電車がホームに止まって、ドアが開くまでの、一瞬のやり取り。
そして、ドアが開いた。
と同時に、紗羅の顔からすっと表情が消えた。電車に乗り込み、可純の横をすり抜けていく。まるで可純など見えていないかのように。
――あぁ……、
可純は落胆した。あのときの先輩だ。ハンカチを渡しに教室まで行ったときに出会った、自分にまったく関心のない先輩だ。
わからなくなってきた。
体育を見学していたときや廊下でばったり会ったときに笑顔で声をかけてくれた先輩と、今の冷たい先輩。どちらが本当の先輩なのだろう。それになぜこんなにもころころと態度が変わるのか。――わからない。
と、そのとき、可純の視界の端に紗羅の姿が映った。
驚いてそちらを見る。
すぐ隣に紗羅が並んで立っていた。可純と同じように吊り革を持って、だけど、顔は正面を見たまま。そこはドアでも窓でもないような部分で、あるのは百貨店のバーゲンの広告だけだ。もちろん、本当にそれを読んでいるわけではないのだろう。
可純も顔を前に戻す。
と、
「……おはよう」
「!?」
びっくりして飛び上がりそうになった。
あると思っていなかった紗羅からの言葉。
「お、おはようございます……」
可純はたどたどしく返す。
でも――交わされた言葉は、ただ、それだけだった。
後に続いたのは拒絶のような沈黙。
「……」
「……」
なんとなくこうなるような気はしていた。でも、紗羅に声をかけてもらった瞬間、どこかで淡い期待を抱いたのも確かで、可純は静かに視線を落とす。
電車が走り出した。
この駅から学園都市までは8分ほど。しかし、可純にとってはその10分に満たない時間がひどく長く感じられた。
周りでは同じ学校の生徒同士、顔見知り同士で楽しくおしゃべりをしているのに、可純と紗羅にはそれがない。ただ単に同じ車両に乗り合わせただけの赤の他人のように、無言で肩を並べている。憧れの先輩がすぐそばにいて、何度か言葉も交わして知らない仲でもないのに。なのに、声もかけられないし、かけてももらえない。その辛さに可純は唇を噛む。
車窓に流れる風景の速さに反して、時間の流れは緩慢だった。
電車が学園都市の駅に着き、ドアが開くと同時にホームに飛び出した。紗羅の近くにいるのが苦しかったからだ。可純はそのまま一度も振り返らず、早足で改札へ続く階段を下りていった。
その日はどうしてもそんな気になれず、体育の授業は見学することにした。
先生に告げた理由は体調不良。なんと便利な言葉だろう。
可純は今、緩やかな斜面になった芝生の上に座り、見学をしていた。今日も授業はサッカー。クラスメイトたちが二人一組でパスの練習をしているのを、揃えた膝の上に顎を乗せた構造でぼんやりと眺める。
もう何も考えたくなかった。
なぜあの日この場所で紗羅が自分に声をかけてきたのかも。なぜ急に冷たくなるのかも。どうしてあんなにも気まぐれなのかも。
もう紗羅のことは考えないようにしたかった。
それなのに――。
隣に誰かが立つ気配。
可純はわずかに息を飲んだ。
ゆっくりと斜め下に目を向けると――見えたのは黒いソックスに、ハイカットのバッシュ。
「……」
顔を正面に戻し、無言を貫いた。
「ごめんなさい。怒ってる?」
降ってきた声は、これまで聞いたことのない申し訳なさそうな響きだった。
「……わかりません」
答える可純の目は前に向けられたまま。
「怒ればいいのか、泣けばいいのか。それともいっそ笑えばいいのか。よくわかりません」
「わたしも、よくわからないの」
紗羅が可純の横に腰を下ろした。初めて会ったときと同じように。でも、今日はハンカチを敷かない。
「可純くんとどう接していいか」
「どうして、ですか……?」
可純の問いに、紗羅の口から出た言葉は、
「きっといつかはいなくなるから」
「……」
意図をはかりかねた可純は、無言。
黙る可純に、紗羅は続けた。
「人と人の出会いなんて、言い換えれば別れのはじまりだもの。別れて辛い思いをするくらいなら、最初から出会わなければいいんじゃないかと思うの。それに、わたしは少なくとも来年の春にはここを卒業していなくなる」
その諦観したような考え方に触れて可純は思う。先輩は過去に辛い別れを経験したのだろうか、と。それが彼女を出会いに対して臆病にさせ、ここ数日の行きつ戻りつした態度となって表れたのかもしれない。
「確かにそうかもしれません」
つぶやくように返す。
その気持ちは可純にもわからなくはなかった。
「でも――それでも別れたらそこですべてがなくなるわけじゃなくて、後には必ず何かが残ると思います」
「可純くんは誰かと別れるたびに何かを残してきたの?」
「……」
わずかに逡巡してから、
「人と出会うって、そういうことだと思うから」
「強いのね」
「……そうでもないです」
そんなことを思ったことはなかった。ただ、
――ただ、ボクは知ってるだけ。
昨日までそばにいた近しい人が、ある日突然いなってしまうことだってがあるということを。そして、あまりにも突然すぎる別れは何も残せないということを。
「じゃあ、もしわたしがいなくなっても、可純くんの中に何かを残してくれる?」
それはまるで哀願のような問い。
「……はい」
それに可純はうなずいた。
「築き上げた分だけ、きっと」
「……」
そこで会話は途切れ、可純と紗羅は黙ってグラウンドを見つめる。
ふたりの前方では、可純のクラスの授業が続いていた。今はシュートの練習。主に女子生徒の声と、先生の吹くホイッスルの音が間断なく聞こえてくる。それを瞳に映しながら、可純と紗羅の心はどこか別のところにあった。
どれくらいそうしていただろうか。
「……そう」
やがて紗羅がそう発音した。
「決めたわ」
「え?」
可純は思わず紗羅を見た。もしかしたら彼女の顔を見たのは、この場では今が初めてかもしれない。そして、彼女も可純のほうを見ていて、目が合う。
「わたしも何かを残すことにするわ」
「な、何かって……?」
「何か、よ」
壮絶にアバウトな返事が返ってきた。
ぽかーんとする可純の横で、紗羅が立ち上がる。何ひとつ飾りらしきものをつけていない、長い髪が揺れた。
「何かを、わたしと――、」
続けて、上から可純の鼻先に指を突きつける。
「可純くんの中に」
「ぼ、ボク!?」
「ええ」
彼女は自信ありげにうなずいた。
「だから、可純くんはわたしにつき合いなさい」
そして、可純を見下ろし、いつかのように青空を背景にして微笑む。
優しい笑みだった。
そう言えば、と可純は思い至る。
――今日で先輩と出会ってちょうど一週間か。先週のこの時間に声をかけられたんだっけ。
そんなことを思って、混乱する頭の整理をひとまず投げ出すのだった。
これが梓沢可純と柚木紗羅の――はじまり。