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サニーサイドアップにブラックペッパー  作者: 九曜
第1章 万有引力の法則
3/15

/Scene02

可純はピアノの音に誘われ音楽室へ行き、そこで相坂恭一郎と出会う。


2.

 朝早くに学校へ行くと、かすかにピアノの音が聞こえてくる。

 通常教室棟から中庭をはさんだ特別教室棟の3階の一角に音楽科の生徒のためのレッスン室があるが、そちらや大音楽室は防音がしっかりしている。おそらく音源は少々防音の甘い小音楽室だろう。

 その日、梓沢可純がそこに行ってみようと思ったのは、ほんの気まぐれであり、また先日の柚木紗羅との一件を引きずっていた、その気分転換でもあった。

 可純がいる1年7組の教室は通常教室棟の3階。記憶によれば音楽関係の教室は特別教室棟の、同じく3階のはずだ。移動は平面座標の範囲だけですむ。教室を出ると、廊下には生徒の姿はほとんどなかった。まだ全校生徒の半数も登校していないだろう。可純はすぐ近くの渡り廊下を使って特別教室棟へ渡った。

 場所は知らずとも次第にはっきり聞こえてくるピアノの音を頼りに、音楽室に辿り着いた。確かにこの中から聞こえてくる。少し背伸びをして、ドアの上部についた小窓から中を覗いてみた。

「わ……」

 思わず小さく感嘆の声がもれる。

 中にはグランドピアノがあり、こちらからでも鍵盤を叩く奏者の姿が見えた。そこにいたのは眼鏡をかけた繊細な顔立ちながら、まぎれもなく男子生徒だった。

 おそらく3年生で、音楽科の生徒なのだろう。彼は上体を激しく振りながらピアノを弾き続けている。可純にはその方面の知識がないので、曲名はわからない。テンポの速い曲だから、きっと指は目まぐるしく動いているに違いない。

 しばらくはその演奏する姿に見惚れ、その音に聞き惚れていたが、だんだんと背伸びの体勢も辛くなってきた。踵を下ろして一旦休憩。

「男の先輩だったんだ。すごいなぁ」

 何の先入観か、今までずっと弾いているのは女の子だと思ってたので、可純はひたすら感心しきりだった。

 ふいにピアノの音がやんだ。

 おや、と思って再び小窓を覗き込む、が――、

「あれ?」

 先ほどまでピアノの前に座っていた先輩の姿がなくなっていた。どこに行ったのだろうかと教室内のあちらこちらに目を向けてみるが、しかし、小窓からでは見える範囲も限られている。

 と――。

「わっ」

「わあっ!?」

 いきなり真下からにゅっと出てきた顔に驚き、可純は悲鳴を上げて廊下の反対端まで飛び退いた。

 直後、ドアがスライドし、ピアノの先輩が姿を現す。

「はは、すごいな。人間後ろ向きでもけっこう飛ぶもんだな」

 人を驚かせておいて勝手な言い草だ。

 可純は改めて彼を見た。背が高い。少し長めの髪に、眼鏡のよく似合う線の細い顔立ちをしていた。

 ――神様って不公平だ。

 こっそり心の中で天を仰ぐ。

 耀子といい周防麗といいこの先輩といい、皆背が高い。それに比べてボクは……、と思わず劣等感を覚える。

「新入生、名前は?」

「え? あ、はい、梓沢可純です」

 はっと意識を戻し、問われるままに答えた。

「うん? 梓沢、可純……あぁ、なるほどな」

 彼は可純をしげしげと眺め、何やらひとり納得する。

「そーゆー先輩は誰なんですか?」

「あれ? 俺のこと知らない?」

「知りませんよ。ボク、新入生なんですから」

 きっぱりと可純。

 すると目の前の先輩はがっくりと項垂れた。

「そうだよなぁ。誰もが知ってると思うのが間違いだよなぁ」

 そして、小さくぶつぶつとひとり言をこぼす。

「って、そうじゃないな。オレは相坂恭一郎アイサカ・キョウイチロウ。音楽科の3年だ」

「相坂……、恭一郎……?」

 今度は可純が復唱する。どこかでその名前を聞いた覚えがあった。

「ま、今覚えてくれたらいいさ」

 どこで聞いたか思い出そうとうんうんうなっている可純を見て、相坂はやわらかく笑った。腕を組み、音楽室のドアにもたれる。

「相坂先輩は毎朝ピアノを?」

 少し早めに学校にくると、いつもピアノの音が聞こえている気がする。

「毎朝でもないけどな。だいたいは、だな」

「熱心なんですね。朝早くから」

「ん? ああ、オレ、寮生だから」

 相坂はさらりと答えた。

 翔星館高校には遠方に住む学生のための学生寮がある。まだ女子高だった頃は自宅から通えない生徒は必ず寮に入らねばならなかったが、今はそれも自由となっていた。寮以外でひとり暮らしをする生徒も多いようで、可純が知る中では耀子もそうだと聞いている。

「寮って、裏門を出たところでしたっけ?」

「そう。ここから……じゃ見えないか」

 相坂が窓の外に目をやったので、可純も振り返ってそちらを見た。確かにここからでは通常教室棟が邪魔になって見ることができなかった。

「そんなわけで、特に早く出なくてもいいんだ」

「いいなぁ」

 寮には寮の大変さがあるだろうが、可純は学校の目と鼻の先に住まいがあることを羨ましく思う。

「だからさ、こんなのでよければいつでも聴きにこいよ。こそこそ覗き見せずに」

「はぁい」

 それを言われたら素直に返事をするしかなくなる。

「ま、オレも梓沢なら大歓迎だよ」

 なにやら調子のいいことを言う相坂に、可純は冷ややかにジト目を向けた。

「先輩って、寄ってくる女の子はみんな自分に好意をもってるって思ってません?」

「……うわ。お前、言うことキツいね」

 心当たりでもあるのか胸を手で押さえてうめく相坂。

「あ、でも、本当にまたきていいですか?」

「ああ、遠慮なくこいよ」

 そう言って微笑む。そこにはこれまでの悪戯心やユーモアとは違って、上級生らしく大人びた余裕があった。それを見て可純はどきっとする。

「おっと。だけど今朝はもう店じまいだ」

 相坂は腕時計を見てから、ドアにもたれていた背中を離した。

「オレは片づけと戸締りがあるから。梓沢も遅れないように教室に戻れよ」

 あ、はい――と、可純。

 その返事に相坂は、背中越しに手を振りながら応え、音楽室のドアの向こうに姿を消した。可純も腕時計を見てみる。体に似合わない大きなダイバーズウォッチ。まだ朝のショートホームルームがはじまるまでには余裕があるが、考えてみればいつもこれくらいの時間にはもうピアノの音は聞こえていなかったように思う。

 可純は閉じられたドアをしばらく見つめ、またここにこようと思った。

 

 きたときと同じ渡り廊下を通って通常教室棟に戻る。

 眼下に広がるのは中庭。通常教室棟と特別教室棟にはさまれたそこは、一面の芝生と不規則に走る小道からなる。よく手入れされた芝生の上にはベンチやテーブルがあり、まるで休日に家族連れが訪れる自然公園のようだ。実際、昼休みや放課後には生徒たちの憩いの場として重宝されている。

「今度、耀子でも誘ってみようかな」

 昼休みに食堂で昼食をとった後、飲みものを持って行ってみるのも悪くはなさそうだ――と、そんなことを考えてながら歩いていたのが悪かったのかもしれない。

 渡り廊下から校舎に入り、直交する廊下に差しかかったときだった。

「きゃっ」

「うぎゅ」

 その角で出会い頭に人とぶつかってしまった。幸いどちらも普通に歩いていただけなので、大きな衝撃はなかった。

「す、すいま……」

 謝ろうとした可純の言葉が途切れる。

 やわらかい美貌に、輝く蜂蜜色の長い髪。目の前にいたのは、柚木紗羅だった。

 紗羅のほうも驚いたようで、口に掌を当てて固まっている。

 可純は予想だにしなかった事態に頭が混乱した。柚木先輩にぶつかっちゃった。謝って、それから何か言ったほうがいい? でも、この前はまったく相手にされなかったし。だいたいなぜに先輩がこんな一年の教室ばかりのところに? ―― 一度にいろんな考えがぐるぐる巡る。

 混乱する頭を一気にクリアしたのは可純自身でも紗羅でもなく、横から投げかけられた別の人物の声だった。

「お、梓沢。こんなとこで道草か」

 先ほど別れた相坂恭一郎だ。追いつかれてしまったらしい。

「っと、柚木もいるのか。じゃあな」

 さらには紗羅にも声をかける。

 そのまま彼は立ち止まるわけでもなく、ふたりの横を抜けていった。たぶん音楽室の鍵を返しにいくのだろう。職員室のある進学棟のほうへ向かう相坂を、可純と紗羅は黙って見送る。

 彼の背中が小さくなってから、可純は視線を紗羅へと移した。彼女も可純を見、そして、もう一度相坂に目をやった。その運動が意味するものは、不明。

 可純の頭によぎるのは、先日のハンカチを返しに行ったときの一件だった。

「……」

 思い出すと胸が締めつけられるような感覚に襲われ、自分が考えていた以上に傷ついていることを知った。もうあんな思いをするのはごめんだ。だったら、すぐにこの場を後にしよう。

「えっと、じゃあ、ボクも。……すみませんでした。失礼します」

 髪を後ろから前へ振り回すような勢いで、深々と頭を下げる。そうして紗羅の前から立ち去ろうとした。

 が、

「待って」

 呼び止められた。思わず体を跳ねさせ、足を止める。

「あなた、きょ……相坂君と顔見知りだったの?」

「え? あ、はい」

 驚きの混じった問いかけに、おそるおそる、ゆっくり振り向く。

「と言っても、今さっき知り合ったばかり、ですけど」

 そうつけ加えると、紗羅は視線を床の上に落とし、顔を伏せてしまった。

 思考。

 というよりは、葛藤だろうか。

 垂れた前髪に隠れて表情は窺えずとも、わずかに見える口元の噛みしめるような唇や、胸の前で握られた右の拳が、さらにその印象を強める。

 押し黙る紗羅と、どうしていいかわからず戸惑う可純。脇を通り過ぎていく生徒も、何ごとかと怪訝な目を向けていく。可純が登校してきたときよりもずいぶんと行き交う生徒の姿が増え、朝特有の喧騒が廊下を満たしつつあった。

 やがて顔を上げた彼女は、

「そう。可純くんはかわいいものね」

 その美貌に微笑を浮かべていた。

 ――あ、れ……?

 可純は思わず呆気にとられる。

 この前とは違う反応。最初に戻っただけと言えばそうなのだが、しかし、それでもきょとんとしてしまう。

 そして、そうしながらもひかえめに言い返した。

「じ、実はあまり『かわいい』は嬉しくなかったり……」

 幼く見える容姿は可純のコンプレックスであり、常日頃からもっと大人っぽい言葉で表現されたいと思っていた。

「そうなの? でも、わたしは褒めているのよ? 可純くん、すごくかわいいもの」

「あ、あう……」

 真正面からそこまで言われると、個人的に嬉しくない言葉でも照れてしまう。

「だから、相坂君が声をかけるのも当然だわ」

「せ、先輩こそ相坂先輩と知り合いなんですか?」

 可純は耐え切れなくなって、慌てて話題を変えた。

「そうね。でも、新入生は兎も角、うちの女の子なら誰でも知っているんじゃないかしら? 彼、有名だもの。なにせ『翔星のプリンス様』よ? 憧れる子は多いわ」

「あ、そうなんだ……」

 完全に他人ごとで感心する。

 でも、わからない話ではない。繊細なつくりの顔やピアノを弾く姿は、そう呼ばれるのに相応しいものがある。たぶん彼の名もその手の噂の中で聞いたのだろう。……ただ、プリンス様にしては少々性格にユーモアがあり過ぎるような気もするけれど。

「やっぱり先輩も、ですか? 憧れるのは」

 思わず訊いてしまう。可純としては紗羅に、他の女の子たちのようなそんなミーハーな気持ちは持っていてほしくないと思う。

「さぁ、どうかしらね」

 だが、彼女は曖昧に笑うだけだった。

 と、そこでチャイムが鳴った。朝のホームルームがはじまる時間。今ごろ外では門が閉められていることだろう。

「戻るわ」

「え? あ、はい」

「じゃあね」

 言って紗羅は、挨拶のように可純の頭を撫でながら、髪を前から耳の後ろへ流した。最後には笑顔ひとつ投げかけ、去っていく。

 可純は頭に手を当てながらそれを見送り、こぼした。

「顔が熱い……と、それを自覚しながらつぶやく可純くんなのでス……」

 きっと紗羅に触れられたからだろう。

 呆然と彼女の去った方を見つめて立ち尽くす。

「って、ボクも戻らないとっ」

 だが、すぐにはっと己のおかれている状況を思い出し、勢いよく踵を返した。

 教室に戻ると、中が何やら騒がしかった。何か目に見える騒動が起こっているわけでもなく、それでいて普段の朝の喧騒とも別種のもの。クラス全体が高揚しているような感じだ。

 可純はいつもと違う雰囲気に首を傾げながら自分の席まで戻る。すぐ後ろの席には迫力美人の友人、村神耀子がいた。浮かれたような空気の漂う教室の中にあって、彼女だけはいつも通りに近づくなオーラを放っていた。

 近づくなと言われてもそこが自分の席であるし、可純はそれが彼女の初期値デフォルトであることを知っているので臆することはしない。

「おはよう。何かあったの?」

 横向きに座りながら耀子に尋ねる。

「……柚木先パイが通りかかったのよ」

「ああ、なるほど」

 納得。それなら新入生にとっては街中で思いがけず見かけた芸能人のようなものだ。去ってもそこには冷めやらぬ熱が残る。

「可純は落ち着いてるわね。てっきり自分も見たかったとか言い出すと思ってたわ」

「あ、ボク、今そこで先輩と会ったから」

「……あっそ」

 ふと抱いた疑問も、蓋を開けてみればなんてことはない。耀子はくだらなさそうに短く言葉を返した。

「でも、なんか今度は優しかったなぁ」

「何それ。相変わらず気まぐれね」

 呆れたような耀子の声。

「だねぇ」

 可純も同感だった。

 そこで担任の浅井瞳先生が教室に入ってきて、可純と耀子の話は途切れた。

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