3.アベルは誘いに乗る。
《ヘブンバー》
その名刺は、何の変哲もない喫茶店の名刺だった。まさかあの男、ただ店に招待したかったのか???
アベルは拍子抜けして、思わずモップを手に持ったまま、へなへなとその場にしゃがみこんだ。
何だ、変なやつだと思ったら、そうか、客足稼ぎか、、、。
どうやらいらぬ心配をしていたようだ。ユフィーナが突然しゃがみこんだ息子にぎょっとしたのか、アベルの名を呼んだ。
アベルは大丈夫だよと代わりに手を振って答えた。何だか怪しい感じに言われたから怖かったなどと言うことなんてできない。母親に、この子はまだまだ子供なのねぇ、だなんて思われたら、みっともなさ過ぎる。
アベルはしゃんと立ってみせた。そうさ、喫茶店くらい、一人で行けるさ。別にユフィーナがいなくたって、行けるさ……。
悶々と悩んでいたら、いつの間にか夕方になっていた。アベルはなぜか、我に返ると皿洗いをしていた。店は閉店していた。これが職業病と言うやつなのかもしれない。考え事をしていても、体は自然と動くものだ。
「もう十分よ、アベル。」
ユフィーナが明日の料理の仕込みをしながら言った。
「今日は、一ヶ月分はがっぽり稼いだんだからね。あんたにも今日の給料、弾んでやるわよ。」
ユフィーナは上機嫌そうだ。これなら、アベルも店の看板代わりになってやって良かったなと思える。いつも母の苦労する姿ばかり見ているため、少しでも貢献できたことが嬉しかった。
アベルは、今日のことをユフィーナに言うか迷っていた。もしかすると心配かけるかも知れない。喫茶店に行くなと言われるかも知れない。それを考えると、なかなか言い出しずらかった。
「………母さん…。」
でも、やっぱり…。
「ん?なに、アベル。」
母には、何でも言っておきたかった。
ユフィーナがアベルに目を向けた、その時。
「帰ったッッッてんだろーーがよオオオオ!!!」
ガッシャーーーン!!!
椅子が宙を舞い、棚にぶつかった。棚に置いてあったインテリアはあっけなく床へと落ち、破片となって床に散らばってゆく。
父親のお帰りのようだ。今日も随分と酒を飲んだようで、感情が極度に高ぶっている。アルレイドは真っ赤な顔をして、ユフィーナの名を叫んだ。
「はいはい、ここにいますよ。」
ユフィーナは緊張した面持ちでアルレイドに近寄った、が、
ペチンッ
と、音と共に、ユフィーナの体は崩れ落ちた。
「母さんッ!!!」
「来ないで!!」
アベルはユフィーナの制止を振り切り、近づいてユフィーナの上半身を起こした。
ユフィーナは力強く頬をひっぱたかれたようで、頬が赤く腫れていた。涙まで浮かんでいる。時間が経てば、青あざになるかも知れない。
アルレイドはソファに横になり、ガーガーいびきを咲き始めた。本当に、ひどい男だ。なぜ、ユフィーナはこんな男を選んだのだろう。アベルはただただ、震えるユフィーナを抱きしめてあげることしかできなかった。
あれから二日経った今、アベルはため息をついている。ユフィーナは昨日こそは気丈に振る舞っていたものの、ショックで寝込んでいるし、アルレイドは他の女を捕まえて遊びに行っている。一言でいうと、最悪だ。まったくもって、最悪だ。
うちの家庭には、団結力と言うものが不足している。主な原因は、父。それ以外、ない。
朝っぱらから鶏はうるさいわ、日差しは眩しいわ、店は休業日だわ、特にすることもないのに、ただ考えに没頭する時間だけになってしまうではないか。
アベルは名刺を取り出した。やはり、行ってみようか。結局母には言えなかったが、後で言えば問題ないだろう。それよりも、あの男が気になってしまう。
アベルは名刺を握り、思いきって裏通りから表通りへ、人々が行き交う大通りへと、足を進めていった。ユフィーナには申し訳ないが、喫茶店にちょっと寄るだけだ。別に、頼むものもないし、お金もそもそもそんなに持っていない。
だから、少しだけ。
少しだけ、少しだけ。
アベルはそう思いながら、足を運んだ。
名刺通りに行くと、その店は意外にも大きかった。母の店に比べると、三倍はでかいはずだ。どうせ小さい喫茶店で、客足がさほどなく、アベルほどの小さな子供さえ誘うほどピンチな状況なのだろう、と思っていたのだが、そうでもないみたいだった。アベルは急にいたたまれなくて、引き返そうか迷った。---が、そうなるとあの男に負けたような気がして、結局店に入ることにした。
ドアを開けると、カラン…と音が鳴って、中央のカウンターにいた綺麗なお姉さんがアベルの方に顔を向けた。
「いらっしゃい……あら小さなお客さん。」
彼女はアベルを見て、少し戸惑ったようだ。手に持っていたワイングラスをそっと置いて、とがめるように言った。
「坊や、ここは小さなお子ちゃまが来るような場所ではないのよ。」
「お子ちゃまではない。僕は、もう12歳だ。」
思わず反論した。お子ちゃまと言われてムカついたわけではないが、もう生まれてから10年と経つのにお子ちゃま呼ばわりは、正直きつかったし、恥ずかしかった。
お姉さんはそんなアベルの反論が面白かったのか、吹き出した。
「ごめんごめん。」
本当に思っているのか、いや、思っていないだろう。アベルの機嫌をなだめる様な謝罪だ。恐らく、子供だからまともに相手をしてもらえない。
あの男が言う店は本当にここで合っているのか?
確認してみようと、あの時もらった名刺を取り出した。名刺はポケットの中でいつの間にかグシャグシャになってしまっていたが、しわを伸ばすと何とか読めるくらいになった。すると、お姉さんの顔色がサッと変わり、驚いたような声色になった。
「あなたが、まさかこれをもらったの?」
アベルはうなずいた。そうだ、向こうから招待して来たのだ。
お姉さんは神妙な顔つきで、そう、へえ、という反応をした後、カウンターから出て、アベルを手招きした。
「そう、あなたが、彼が招待したっていう子なのね。こっちに来て。会わせてあげる。」
別に会わなくてもいいのだが。
ここで引き返すことも考えたが、そうなるとまたまた負けたような気がして、アベルは仕方なく彼女についていくことにした。というか、どうして男の方から出てこないのだろうか?普通逆なのでは?お子さまだからなめられている??
アベルは納得がいかなかったが、それでもおとなしくついていった。お姉さんはアベルを地下にある奥の部屋まで案内した。廊下が暗くて、よく前が見えなかったが、わざと暗くしているようだった。
「こっちよ。」
お姉さんは、奥の部屋の扉を開けた。部屋の扉から眩い光が差し込んで、暗い廊下を歩いていたアベルは思わず目をギュッと閉じた。
「アルフォーレ、お客様よ。」
アベルは恐る恐る目を開けた。アベルの視界に、椅子に深く腰かけ、黒ウサギの仮面を着けた男が映った。
男は、ニヤリと笑った。
「ようこそ、情報ギルドヘ。」




