7
しばらくすると見慣れた商店街が見えて来た。顔見知りも多い場所まで戻ってきて、ほっと胸をなでおろすナオ。再び自転車から降りるとゆっくり歩きなれた道を進む。とんでもない非日常からやっと解放された。そう思った時だった。
目の前を見慣れた天然パーマが横断する。彼女はいつもの狭い定位置から抜け出すと、どこかへ駆け出しているようだった。その両手には今朝の母親に負けない程、大きな羽毛布団を抱えている。
「これで間に合うかね⁉」
「ないよりマシよ!」
なにやらいつもの穏やかな商店街が随分と慌ただしい。買い物をしている主婦たちもそれどころではない様子で立ち尽くしていた。
「何事……?」
ナオはコロッケ屋のおばちゃんが走って行った先を振り返る。偶然立ち止まったところが行きつけの八百屋の前で、店の中から分厚い座布団を抱えたじいちゃんが出てくるところだった。
「ナオちゃん!」
「じいちゃん! 何、その古臭い座布団!」
「少しでも役に立つか思うて!」
「何があったの?」
ナオがそう問いかけると、八百屋のじいちゃんは何度も大きく頷きながら説明してくれた。
「おお! 大変だで! 子どもだ!」
「子ども……?」
「子どもがマンションから落ちかけとって! 消防隊が来る前に落っこちたら大変だ! だから、なんとか助かる方法はねえかと柔らかいものかき集めて地面に敷いてだな……!」
それを聞いた瞬間、ナオの手から自転車のハンドルが離れた。ずっと隣に付き添っていた愛車はチリンという悲鳴をあげて、またしても地面に横倒しとなる。
「大変だ……」
囁くように呟いたナオは自転車をその場に残し、既に人だかりの方へと走り出していた。
「ナオちゃん、半分持って行ってくれやー!」
じいちゃんの必死な叫び声は、悲しきかな遠く離れ行くナオに届くことはなかった。
現場となっているマンションの周りには多くの人だかりが出来ていて、全員夕映えに包まれたはるか上空を見上げていた。目線の先をたどると五階くらいの高さの位置、ベランダとベランダの間にあるわずかな段差の上、二、三歳程度の女の子が一人立っているのが見えた。どうやってそこに行ったのかは不明だが、少しでも足の踏み場を誤ればそのまま地面へと落下してしまいそうだった。
当の本人はこの大事件に気が付いていないのか、気分よく細い道を歩いて楽しんでいる様子。ベランダからはこの世の終わりのような声で、母親らしき女性が子どもの名前を呼んでいるのが聞こえた。
「消防はまだ⁉」
「誰か連絡したの⁉」
少女が落ちてくる可能性のある地面には、少しでもクッションになるようにと柔らかいものが大量に置かれている。コロッケ屋のおばちゃんも家から持ち出した羽毛布団をその上に広げている真っ最中だ。
「どうしよう! 何とかしないと‼」
ナオは人混みの後ろで一人、足踏みをしながら少女の行方をその目に捉えていた。居ても立っても居られず、何か助けになるものはないかとあたりを忙しなく見渡す。しかし手っ取り早く彼女を救うものなどすぐに見つかるはずはなく、己の無力さに思い切り頭をかき乱した時だった。
「これは大変ですねえ」
もはや聞きなれた声が後ろから聞こえてきた。ゆっくり顔を持ち上げると、そこには皆さんお待ちかね、あの男が立っていたのだ。両手を塞いでいた荷物は全て胃の中に収めたのか、身の回りは随分とすっきりしている。
「ストーカー男!」
名前代わりに呼んだその声は自分が思った以上に大きく、見上げていた野次馬の興味をこちらへと引き付けた。ストーカーと声を上げた女子高生の隣には挙動不審の長身男が、真夏にはそぐわない不思議な格好で立っている。怪しまない方がおかしいというもので、そこにいた群衆はストーカー男を睨みつけ始めた。
……いかん、このままでは事件が増えてしまう!
それに気が付いた魔法使いは、慌てた様子で両手を横に振る。
「やめてくださいよ! 僕、ストーカーじゃありませんから!」
男はやっと手元に戻って来た財布の中から自分の身分証明書を取り出すと、ナオの目の前へと突き付けた。
「僕、皐月野ミヅキって言います」
ナオは差し出されたカードを受け取って確認する。確かにそこには言われた通りの名前と、どことなく頼りない彼の顔がはっきりと明記されていた。偽物ではないかとひっくり返してみたりもするが、どうせ偽物だったとしても判断のしようがないのであっさりと返却する。ミヅキはそれを財布の中へと戻しながら、なにやら自信満々でナオに笑いかけた。
「ほら、これでもう知らない人じゃないですよね」
ね? とミヅキは周りの群衆にも笑顔で同意を求めた。ナオも人差し指で頭をポリポリ掻きながら、ここまで来たら知り合いも同然だなと思い抵抗する素振りもみせない。なんだ、女子高生の単なる思い過ごしかと視線を外し、再び上空を見つめ直す人々。
ようやくストーカー男の名前が判明した。
「――――じゃないよ! 言ってる場合か!」
ナオは我に返ると、すぐさま遥か上空にいる女の子を指さす。その指先につられたように、ミヅキも顔を斜め四十五度にまで持ち上げた。
「ねえ、あそこ見て! 女の子がいるの! 早く助けないと、いつ落っこちちゃうか分からないよ⁉」
「そうですねえ」
わずかな段差の上を行ったり来たりする少女。その一つ一つに悲鳴だか応援だか分からない反応を示す群衆に紛れ、いち見物客に成り下がっているミヅキ。
「んな呑気なこと言ってないでさあ!」
焦っているナオとは対照的に、彼は至極落ち着きを放っていた。なぜだろう。あんなにも要領が悪くておっちょこちょいの彼が、何一つ困った素振りを見せないなんて。
……そうか。
そこで何かに気が付いたナオ。その理由は明らかだった。――助けられる方法があるからだ。
彼女は即座に彼の腕へとしがみ付く。
「そうだよ、魔法! アンタ魔法使いなんでしょ⁉ 何とかできないの⁉」
「何とかというと?」
「あの子を浮かせて助けるとか! そのつもりで黙って見てるんでしょ? そうなんでしょ?」
期待する答えを促すような問いかけに、ミズキはボサボサの頭をさらにボサボサにするよう頭を掻いた。そして余裕そうな表情を見せた後、その答えを軽々しく口にする。
「人間の前で魔法を使うことは禁じられている。そう言いましたよね?」
「……え?」
「やったとしても無駄ですよ。浮遊術が苦手なんです。僕に出来ることは何もない。そういう事です」
彼はそう言うと両手をポケットの中へと押し込んだ。鮮やかな緑色の瞳はただ物事の終焉が来るその時を、他人事のように眺め続けるだけ。なんとかしてでも救いたいという、意志の欠片も感じられなかった。
「信じられない……」
ナオは幻滅しきった顔で、彼を睨み上げた。
「いいよ、分かった」
「……?」
ミヅキの視線が再びナオに向けられた時、その場が一瞬静寂になるほどの怒号が飛んだ。
「このポンコツ変人ストーカー‼ 二度とその顔見せないで‼」
ナオは思いのたけを全てぶつけると、鞄をその場へと放り投げた。一つ瞬きをした次の瞬間には、猛ダッシュでその場から走り出していたのだ。
迷いはない。目指すはあの女の子のところ。駆けつけたとて何が出来るかなど分からない。けれど、じっとなどしていられなかった。無我夢中でマンションの非常階段を駆け上がる。
「お願い! 間に合って……間に合って……!」
少女がいる階の近くまで来た。彼女がいる場所へと続くわずかな段差の手前には、人が入れぬよう太めの柵が取り付けてあった。しかしその一本が劣化していたのかぽっきりと根本から折れてしまっている。遊び半分にその間を潜り抜けてしまったのだろう。どうやら彼女があの場所へ行けてしまったのは、これが原因らしい。
しかし大の大人が入るのは窮屈過ぎる。そこにいた力自慢の男達は他の柵も折れないか叩いたり引っ張ったりしているようだがびくともしなかった。ナオはその隙間を見て確信した。
「いける……」
ここに居る力自慢の大男たちよりもはるかに小柄の自分なら、あの隙間に入り込める可能性がある。何の迷いもなくその隙間へと飛び込み、頭を押し付けた。頭さえ越えられれば何とかなる!
「お願い! 手伝って!」
最初はぽかんとしていた男たちだったが、ナオの声に我へと返る。彼らは二手に分かれると、掛け声に合わせて左右へと思い切り引っ張った。スポン! と頭が抜ける。次に片腕を引き出し、するすると反対側へと匍匐前進で進んでいった。狭い通路を見事に突破したのだ。
「おお!」
思わず男たちの歓声が上がる。ナオは柵の反対側で立ち上がると、親指を立てた。
「ありがと! オジサンたち、救世主ね!」
そう言われてどこか照れくさそうな筋肉自慢。なぜか各々ご自慢の二の腕を見せつけあっていた。
真の救世主はすぐさま少女の方へと向き直ると、わずかな段差の間をカニ歩きで進み始めた。手すり代わりの排水溝が付いていて良かったと胸をなでおろしつつ、少女へと渾身のひと声をかける。
「ねえ! 君!」
しかし母親譲りの大声は、少女に届くことはなかった。地上から約十五メートルの上空、風が彼女の声を攫って行く。それでも諦めず、必死に声をかけ続けるナオ。
「こっち! こっちだよ! ホラ!」
ナオは少女へ手を伸ばすが、まだまだ届きそうにない。当の本人は壁を叩く遊びに夢中のようだ。
「そこにいたら危ないよ! おうち帰ろう!」
あと数メートル。といったところで、ようやく少女がこちらを振り返った。
「よし! 手を伸ばして……」
ナオが精いっぱい手を伸ばした時だった。少女の顔はみるみる真っ赤になり、ナオにも負けぬ大声を張り上げたのだ。
「――うわああああん‼」
少女はナオの方へと向かってくるどころか、反対方向へと逃げ出してしまった。しかしその先は行き止まり。逃げ場のなくなった少女は、更なる叫び声をあげる。なんとこの少女、とてつもない人見知りの真っただ中。少女にとっては地面に落ちることよりも、知らない人が追い詰めて来る状況の方がはるかに恐ろしかったのだ。このまま我を忘れて泣きじゃくられては困る。ナオは出来るだけ優しく声をかけた。
「だ、大丈夫だから! 私、鳴海ナオ! この近くの学校に通う高校生!」
あれこれ口に出しながら、少しずつ少女との距離を詰めていく。
「大丈夫だから! 私さ、お母さんのお友達で、一緒にお家へ帰ろうかなって。君を迎えに――」
もう少し、もう少しでナオの手が届く。
「がんばってー!」
「大丈夫だぞー!」
下からはコロッケ屋のおばちゃんと八百屋のじいちゃん、その他観衆たちの声援が届いていた。
「もうちょっと……!」
ナオの手が少女の服の端に触れた。その時、今までで一番の突風が吹き荒れる。二人は風に煽られて、バランスを崩した。ナオはなんとか壁にへばりつき持ちこたえる。うっすら目を開けると、なんと少女はそこにいなかった。
少女が宙へ放り出されていくのが、スローモーションのようにその目に飛び込んでくる。
「あ――」
全員の時が止まったかのような感覚を覚えた。少女は地面に真っ直ぐ落ちていく。ナオは何ひとつ迷うことなく、少女に向けて飛びかかっていた。まっすぐ伸びた手が、真っ赤な太陽と重なる。
「届けええぇー‼」
ナオの目の前を包み込んだのは太陽の残紅ではなく、真っ青な青月の月気であった。
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