2 『鳴海ナオは野球少女』
改めまして――この物語の主人公である少女・鳴海ナオ。高校三年生。野球クラブでピッチャーをしていた、ショートカットヘアの似合うバリバリのスポーツウーマンである。
今日は夏前に引退した野球クラブの後輩たちがライバル校と練習試合をするというので、その応援に駆けつけている最中だ。
世の中の学生は夏休みの真っただ中。強い日差しは容赦なくナオの頭上にも降り注ぎ、舗装されていない砂利道であってもかなりの熱気が照り返してきていた。アブラゼミの声をバックミュージックに、水面が人で覆い隠されている市民プールの前を横切る。
「はあー! あっつーい!」
目的の球場に隣接する駐輪場まであと数十メートル。自転車を左右に揺らしながら、最後の力を振り絞りなんとか気力でたどり着いた。屋根の下に入り込むと、すぐさま鞄の中からペットボトル飲料を取り出し全力で胃袋へと送りこむ。余程身体は水分を欲していたのか、喉はごくごくと喜びの声をあげていた。気が付けば数秒で空のペットボトルが一本、出来上がる。
次に鞄の奥底にしまい込んだタオルを引っ張り上げる。するとそれに引き寄せられるように、どっしりと鎮座していた風呂敷が勢いよく斜めになった。
絶対斜めにしちゃダメ! という母の顔と言葉が同時に脳裏へ浮かんだが、ナオはそれさえ払拭する勢いでタオルを頭にあてがい髪の毛を前後に搔き乱す。
「……ふう。ひと段落」
タオルを首にかけ肩から力が抜けたナオは、ようやく一息ついた。ぐつぐつ煮えたぎるほどの血液は急速冷凍をかけたように身体の熱を下げ、吹き上げていた汗も次第におさまりつつあった。そこでやっと気怠い身体を自転車から下ろす。その場に停めておくため、自転車のスタンドを地面に押し付けようとした時であった。
うおおおおおぉぉ‼︎
まるで獣の雄たけびかとも思えるような大歓声が、その場を包み込んだ。ナオは身を震わせながら、完全に意識を球場へと奪われてしまう。
「やってる! やってる!」
勢いよく振り返ったため、形の変形したスポーツバックの見事なタックルがナオの愛車へと直撃した。ノックアウトするが如くゆっくりと車体は右へと傾き、重力に引かれるまま横倒しとなる。しかも隣に並ぶすべての自転車を巻き添えにしてだ。チリン、チリン、と自転車のかすかな悲鳴を聞きつけたナオが振り返ると、そこには数十台の自転車がドミノ倒しとなっていた。
「やっべ……!」
慌てて手を差し出そうとすると、本日二度目の大歓声が上がった。鳴海ナオ、既に心あらず。天秤にかけられた複数の自転車は、いとも簡単に一つの野球ボールに吹き飛ばされたのだ。
「ごめん! あとで! 絶対! 直すから!」
歯切れのいい言葉で何度も自転車に弁解しながら、ナオはその場を逃げ出すように駆け出した。
そこに一人の男性が歩いてきて、ふとその場に立ち止まる。彼は小さくなっていく彼女の背中を見送った後、駐輪場へと視線を戻した。男はなぎ倒された自転車たちへ手を差し伸べるでもなく、ただ静かにその場を見つめていたのだった。
グラウンドへ続く階段を上っていると、より一層高まる声が鮮明になってきた。歩いていた足は次第に駆け足となり、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
たどり着いたその先には、真白に輝くユニフォームを泥だらけにしながら奮闘する後輩たちの姿があった。すでに試合は半分まで進んでいる。得点板を見ると、なんと自分たちのチームが一点先越していたのである。ナオは観客席から駆け下りると、自分の属していたクラブチームのベンチへと飛び込んだ。
「ちーっす!」
「あ、先輩っ! 来てくれたんですか! お疲れ様です!」
球場内に最も響き渡る巨大な挨拶。ベンチにいた後輩たちはすぐさま振り返り、負けじと元気な声で答えてくれた。守備についていた数名もまたこちらへ大きく手を振っている。腕を組みながら試合を眺めていた監督も、ナオを横目に確認すると緩やかな笑みを浮かべた。
「おお、来たか鳴海」
ナオはすらりと背の高い男性の隣へと駆け寄った。高校時代甲子園の砂を持ち帰った過去を持つ彼は、現在小さな下請け会社でサラリーマンをしながら野球チームのクラブコーチを務めている。学生時代の名残なのか、今でも髪は坊主に近い。最近少し太ったというその脇腹を、ナオはこれ見よがしに片肘でツンツンとつついてみせた。
「いい試合してんじゃん、監督!」
「そうだろう。今年は勝つぞー!」
お腹の肉より分厚いその意志。監督の熱は、夏の太陽よりも煮えたぎっていた。
今年の夏、惜しくも優勝を逃したナオキャプテン率いる三年生はこの地で涙をのんだ。それ以上に悔しがっていたのは、紛れもなく恩師であるこの監督であった。なんといっても今回の相手、彼が学生時代最後に破れた学校の生徒が多く所属する野球チームだったのだ。性別は違えど、あの頃の記憶は鮮明に蘇った。
憧れの先輩と監督の仇を討つべく、後輩たちもすでに気合入りまくりだ。ナオもまたベンチの隅にスポーツバックを下ろすと、クーラーボックスの上に置かれている赤いメガホンを手に取る。
「よーし! 気合入れていけえー!」
ベンチから本日最も大きな声援が飛んだ。ここまででお察しの通り、母親譲りで声はデカい。猛暑にへたりかけていた後輩たちも、ナオの声援には両手を掲げながら雄たけびを返してくれる。一生懸命で明るく前向きなナオは、誰からも愛される存在であった。
最後の投球が終わり、試合は終了。ナオの声援もあってか、なんと三点差という快挙でナオの後輩たちが勝利を掴み取ったのだ。ナオが感動のあまり鼻をすすり上げていると、隣にはタオルで目元を抑える監督の姿があった。しばらくお互い感傷に浸っていたが、監督が泣きじゃくり始めたのでナオの涙はあっけなく引っ込んでいく。
「いやいや、まだ泣くのは早いでしょ」
思わぬ突っ込みに、ベンチは笑いの渦に包まれた。
グラウンドから駆け戻ってきた後輩たちは、あっという間にナオの周りを取り囲む。
「先輩、見ましたか。勝ちました!」
「見てたよ、見てたよ! お疲れ様。来年は優勝かもよー? 絶対応援に来るからね」
「もちろんです。任せてくださいよ。先輩たちの借り、絶対返してやりますからね!」
ベンチ内ではいまだ彼女らの明るい声でいっぱいだ。つい先ほどまで炎天下の中ボールを追いかけまわしていたとは思えない。キラキラ輝く汗と笑顔で溢れるその場所は、まさに青い春と言わざるを得ないような光景であった。
ナオはしばらく後輩たちとの話に花を咲かせていたが、自分の鞄を振り返り重要な使命を思い出した。
「あ、そうだ。差し入れ持ってきたんだった!」
「まさか! 先輩からの差し入れと言えば!」
後輩たちの期待の声に応えるように、ナオは足早に鞄へと駆け寄る。大口を開けて待っている鞄の中から、あからさまに斜めになっている風呂敷を無理やり引っ張り上げた。その底にはややべたべたするシミが付いているが、見なかったことにする。
今更慎重に風呂敷を運び始めたナオは、濡れた個所を隠すかの如く早々にベンチの上にそれを置いた。
「さあ、たーんと食べちゃって!」
意気揚々結び目を解くと、中からは見たことない程大きな入れ物が二段姿を現す。運動会のお弁当でもこんなに大きなものはない。持って来た張本人が目を丸くしている中、後輩たちは蜜を求めるクワガタの如くすぐさまその周りに群がった。
「わー、先輩のママさん特製はちみつレモン!」
「最高ー!」
「ありがとう、ママさん!」
「いただきまーす!」
それぞれが幸せ溢れる感想を述べた後、すぐさま中身の取り合いとなった。レモンのさわやかな酸味とほのかな甘みは、最後まで全力投球で健闘した彼女たちの労をねぎらう。美しいその黄色は、カナリア色の母を容易に思い出させてくれる。ナオもその温かな甘みに浸りながら、改めて母へのありがたさをかみしめていた。
そして五分も経たぬうちにレモンはひと欠片もなく、箱の中から消え去ったのだった。
「おいおい、ワシのはー!?」
遅れて駆けつけた監督はごちそうにありつけず、苦虫を噛み潰したような顔で悔しがる。その様子を見た彼女たちは、蝉にも負けぬ声で再び笑いあっていた。
「よし、差し入れも終わったことだし。帰るかな」
「えー、もう帰っちゃうんですかー?」
名残惜しそうな後輩たちは、ナオの腕を掴んで風呂敷を鞄の中へと押し込む作業を中断させた。
「まだ帰らないでくださいよ!」
「そう、そう! この後一緒に鉄板焼き屋さん行きましょうよー」
「せっかく来てくれたんですから!」
「えー、どうしよっかなあ」
後輩たちの熱いお誘いに、思わず頬の筋肉が緩むナオ。しかし彼女らの寂しがる声を断ち切るように、監督は淡々と無情の現実を告げた。
「ミーティングが先」
「えーっ!」
高校生からの大ブーイング。その声にひるみながらも必死に首を横に振っている監督をみて、ナオは球場内を震わすような声で笑い声をあげた。
「ハッハッハッハ! イーッヒッヒッヒ! あ、お腹痛い、お腹痛い……! ぷぷぷっ!」
それに全員がつられ笑いをする。監督含め全員で大笑いをした後、ナオは名残惜しそうに鞄を握りしめた。
「ま、夏休みは長いんだからさ! また顔覗かすし、今日は帰るね」
まるで自分に言い聞かしているような言葉。後輩たちは顔を見合わせながらも、素直に頷いて返事をした。
「約束ですからねー!」
「次は先輩も一緒に練習入りましょ」
「オッケー! もちろん、母さん特性はちみつレモンもね」
キャッキャと騒ぐ彼女たちに大きく手を振った後、ナオは振り返ることなく一直線に球場を後にした。
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