【#94】地下1階・第四話:沈黙と執念
シエナが目の前に立っていた。
黒い触手が背から生えて、静かに揺れている。
もはや彼女は“人間”ではなかった。俺はそれを、目の前の光景ではっきりと理解した。
「……邪魔をする気か」
そう問いかけた俺に、シエナはわずかに首を振った。
けれど、歩みを止めることはなかった。俺に向かって、確実に近づいてくる。
「これは、儀式。貴方が次へ進むために必要なことなのよ、蓮」
声にはどこか哀しみが滲んでいた。けれど俺には、もうその感情を受け止める余裕はなかった。
「俺を試すつもりなら……間違ってる」
そう言い放つと同時に、背後からミスティが小さく震えた。
『彼女の覚悟は本物よ。斬らなければ、飲み込まれる』
ミスティの声は鋭く、しかしどこか焦っているようにも聞こえた。
分かってる。そんなことは、とっくに分かってる。
シエナが手をかざすと、後方から融合者たちが現れた。
理性を失ったその目で、悲鳴のような声を上げながら、俺に向かって突っ込んでくる。
俺は剣を振るった。
斬るたびに、ミスティの力が高まる。
彼女は“縁”を食らう剣だ。かつて交わした言葉や想い、それらを喰らって強くなる。
その刃が、ついにシエナに向いた。
「蓮……私が、どれだけあなたを——」
言葉の続きを聞く前に、俺は踏み込んでいた。
刃が、彼女の胸元を斜めに裂く。触手が反射的に俺の足元を狙ってきたが、それを跳ね除けるように空中で回転し、距離を取る。
「まだ、終わらないのね……」
黒い血が床に落ちて、蒸気のように立ち昇っていた。
俺の手元では、ミスティが鼓動のように脈打っている。
「蓮……あなたのお母さんは、私とあなたの結婚を望んでくれたのよ。孫の顔を見るのが楽しみだって……私が何者かも知らずに」
「やめろ」
「蓮。私は……」
シエナの声は、今にも消え入りそうだった。
「——私は、エルゴスが憎い。私を生み出したエルゴスが、ずっと憎くて仕方がなかった。だけど、蓮。私には、どうすることもできないの。私の力はエルゴスには通用しないから。でも……」
シエナの触手が地面を叩く。
破片が弾け、床に描かれた魔法陣が光を放つ。
「あなたのお母さんも私も、あなたの力になれる」
シエナの身体が大きく変形する。背から黒い翼が生え、外殻のような装甲にその身が覆われてゆく。両腕が、黒い剣に変化する。
「……来いよ」
感情を切り捨てる。
俺はシエナの目的を理解した。
ミスティの意識と同調し、冷たい炎のような集中を纏って、構えを取った。
「俺は、お前の最高傑作……そう、なってやる」
黒い影が、再び俺に襲いかかる。
——戦いは、まだ終わらない。