【#8】地下19階・第四話:エルゴスの紋章
息を整えながら、俺は奥の通路を駆け抜けた。
魔物の血が付着したミスティを振るい、一瞬で汚れを振り払う。重力ギミックを利用した戦いでかなりの魔物を仕留めたが、それでも気は抜けない。
「蓮、追跡者の気配がまた近づいてくるわ」
「……しつこい奴だ。だが、捕まるつもりはない」
俺はにやりと笑いながら、背後をちらりと見る。
案の定、追跡者が俺と全く同じ動きで走り、距離を詰めてきていた。深い傷を負わせたはずなのに、もう回復している。やはり、こいつは時間を稼ぐだけで倒すのは不可能だ。
ならば——最優先は前進。
すでに見えている、地下18階への階段を目指す。
長い戦いの果てに、ようやくこの地獄のようなフロアを抜けることができる。
——だが、当然のように最後の障害が立ちはだかる。
「ガァァァ……!」
階段の前に、異様に巨大な魔物が待ち構えていた。
四足歩行の漆黒の獣。だが、さっきのダスクハウンドとは比べ物にならない。胴体は異様に太く、筋肉が膨れ上がっている。瞳は赤く輝き、牙は一本一本が短剣のように鋭い。
「ヘルハウンド・オーバーサイズか」
ダスクハウンドの上位種。身体能力、耐久力ともに圧倒的で、並の攻撃では致命傷を与えられない。
……だが、俺にとっては「ただの壁」だ。
「ミスティ、やるぞ」
「了解」
ミスティの刃を握りしめ、一気に間合いを詰める。
ヘルハウンドは咆哮とともに、巨体とは思えない速さで突進してきた。
並の覚醒者なら反応すらできない速度——だが。
「遅い」
俺は一歩横へと踏み出し、最小限の動きで回避。そして、突進の勢いを利用しながら、ミスティの刃を突き立てる。
ズバァッ!
黒い血が噴き出し、ミスティがその力を吸収する。
体内からエネルギーを抜き取られたヘルハウンドは、一瞬動きを鈍らせた。そこに俺は容赦なく二撃目を叩き込む。
刃が肉を裂き、骨を断ち、魔物の咆哮が響く。
——だが、その叫びは長くは続かなかった。
「……終わりだ」
最後の一閃。ミスティがヘルハウンドの喉を貫き、魔物は絶命した。
俺は血まみれの刃を軽く振り、深呼吸する。
身体の傷はすでに回復し、疲労感も消えている。エナジードレインのおかげだ。
「蓮、追跡者が間近にいるわ」
「……相手にするのは時間の無駄だ。行くぞ」
俺はすぐさま、階段へと駆け寄る。
階段の壁には、青く光るエルゴスの紋章が刻まれていた。
エルゴス——地上を支配する組織。ダンジョンと融合した世界を管理し、人類を実験体として扱う狂った連中。
そして、俺を投獄した元凶でもある。
……この紋章を見るだけで、胸の奥に冷たい怒りが込み上げる。
だが今は、それを考えている場合じゃない。
俺が階段を踏み出すと——
紋章の色が変わった。
青から赤へ。
まるで俺の侵入を警告するかのように、赤い光が鈍く脈打つ。
「……」
何か起こるかと構えたが、特に異変はない。
俺はそのまま、地下18階へと足を踏み入れた。
そして——振り返った瞬間、異様な光景を目にする。
追跡者が、消えた。
いや、正確には「存在が霧散した」と言うべきか。まるで最初から存在していなかったかのように、形を保てなくなり、その場から完全に消失した。
「……なるほどな」
追跡者は同一フロア内でしか存在できない。
つまり、フロアを移動することで強制的にリセットされるのだ。
「とはいえ……どうせまた出てくるだろうな」
俺は階段の向こう側に視線を向けた。
地下18階——新たな戦場。
そして、この先にもエルゴスの紋章が待ち受けている。
「さあ、次の地獄へ行こうか」
俺は静かに呟き、前へと歩き出した。