【#87】地下2階・第一話:影を統べる者
——空気が違う。
階段を上りきった瞬間、全身の皮膚が粟立つのを感じた。重苦しく、淀んだ瘴気がこのフロア一帯を包んでいる。まるで、そこにいるだけで心が腐っていくような感覚。
俺はゆっくりと歩を進めながら、ミスティの柄を握り直した。
「待ってたぜ、九條蓮。いや、“適応者失格者”と呼ぶべきか?」
その声は、真上から降ってきた。
見上げると、黒いローブを纏った男が、祭壇のような高台に立っていた。左目に装着された金属製の義眼が、不気味に光る。
——クロイツ。エルゴスの幹部の一人。
敵の中でも、特に厄介だとされていた奴だ。
「ここまでよく来た。お前の死体は、記念に保管しておいてやるよ」
彼が軽く手をかざした。
直後、周囲の闇が波打ったかと思うと、床のあちこちから人影がせり上がってくる。
融合者。しかも、ただの失敗作じゃない。理性と技術を残したまま、魔物と融合した“精鋭”だ。
「まさか幹部が直々に出張ってくるとはな。俺にビビってくれて光栄だよ」
俺が言うと、クロイツは鼻で笑った。
「勘違いするな。お前はすでに“不要”になった。それだけだ。今の貴様は、エルゴスの計画にとって無価値……つまり、存在そのものが邪魔だ」
部下たちが一斉に動いた。
十、いや二十体はいるか。
全員が獣のような脚で床を蹴り、魔力で武装した腕を振りかぶる。中には小型の魔法陣を即座に展開し、遠距離から焼却魔法を放つ者もいた。
「……数で押せると思ってるなら、安い考えだ」
俺はミスティを構える。返事はないが、微かに刀身が共鳴する感触があった。
斬る。ただ、それだけだ。
最初の一人が突進してくる。首をはね飛ばし、右手の剣で背後からの一撃を弾いた。床を滑るように移動し、三体目の心臓を突き破る。
斬るたびに、ミスティが赤く脈打つ。力が、刃に乗っていくのが分かる。
「さあ、もっと来い。お前らでは俺を止められん!」
叫んだ瞬間、炎の魔法が前方から降り注ぐ。
咄嗟に床を蹴って横に転がり、接近してきた融合者の腕を切り落とす。
敵は多い。だが、ミスティが俺の怒りを糧に燃えている限り——俺は止まらない。
高台のクロイツが、冷ややかにこちらを見下ろしていた。
「なるほど……剣の力か。だが、それも長くは保つまい」
——クロイツの指揮する精鋭たちとの戦闘は苛烈を極めた。
だが、彼らの士気の源がクロイツ自身である以上、頭を叩けば乱れは生まれる——そう信じて俺は前に出た。
「ミスティ、援護を」
「了解」
ミスティは霧状に散り、俺の周囲を巡る盾となる。雷撃系の術式を帯びた槍が飛来するが、そのすべてを切り裂きながら俺は前へ。クロイツへと刃を向け——
「っ!」
ゾクリ、と背筋を冷たい感覚が走った。
反射的に身を低くする。直後、空間がひしゃげるような音とともに、俺の背後を鋭利な刃が通過した。
「追跡者……!」
気配を完全に殺していた。戦場の混乱を利用して、俺の死角から仕掛けてきたのだ。
マントの下から伸びた腕には、ミスティと酷似した剣が握られていた。
「ミスティ!」
「……背後、0.4秒で切り結べる!」
即座に剣を振り返して交差する。追跡者の刃と俺のミスティがぶつかり、空気が震えた。
刹那、地面の魔法陣に足をかけ、跳躍。追跡者の腕が閃くが、重力の変化を読んで空中で身をひねり、肩を裂くようにして斬撃を滑り込ませる。
「ッ……!」
確かな手応え。追跡者の肩に、ミスティの刃が深くめり込んだ。
そのまま強引に捻り上げ、胸元を斬り裂く。
「退けッ!」
黒い霧のように姿を消す追跡者。だが、消え際にちらりと見えた目は、痛みにも怒りにも染まっていなかった。
まるで、ただ任務を果たすために現れただけ——機械のような無感情さ。
俺は呼吸を整え、再びクロイツの部下たちへと視線を戻す。
「——邪魔者は片付いた。さぁ、続きだ」
足元を蹴り、戦場へと飛び込む。




