【#80】地下4階・第四話:形なき墓標、死者の縁
黒い霧がゆっくりと広がり始めた。まるで闇が這い寄るように、床を覆い、壁を伝い、視界の端から端まで支配していく。霧はどこか湿っぽく、それでいて冷たい。肌にまとわりつく感触が不快だった。
「……なんだ、これは」
周囲を見回しても、深い霧の向こうには何も見えない。いや、違う。何かが、見える。
ぼんやりとした人影が、霧の中から浮かび上がった。最初は影だけだった。それが徐々に輪郭を持ち、人の姿を成していく。
「…………っ」
胸が強く締めつけられる。
目の前に立っているのは、かつての仲間だった。
「おい、冗談だろ……」
霧の向こうから、次々と現れる。俺が共に戦い、共に生きた者たち。だが彼らは、もうこの世にはいない。エルゴスの実験に使われ、戦場で散り、或いは俺の手にかかって命を落とした者たち。そのはずなのに、彼らは生前の姿のまま、今ここにいる。
否応なく、過去の記憶が蘇る。
血に染まった戦場、切り結んだ敵、仲間の叫び。
「蓮……」
声が聞こえた。
幻影たちが口を開く。助けを求めるような声。俺に何かを伝えたそうな口調。
だが——
「……いや。お前たちは、もういない」
俺は静かに呟く。握った剣に力を込め、目の前の幻影たちを睨みつけた。
これは、リッチロードが残した呪い。死者の未練を引きずり出し、俺を縛りつけるための罠だ。
「……懐かしい顔だな」
低く呟いた俺の言葉に、幻影たちは微かに表情を変えた。だが、その変化も一瞬。彼らは再び静かに立ち尽くし、俺を見つめ続ける。
「……蓮」
ミスティの声が聞こえる。いや、違う。
「——ッ!」
俺は息を呑んだ。
霧の中に、見覚えのある影が立っている。
「……ロザリンド……?」
彼女の姿が、ゆっくりと霧の中から浮かび上がる。懐かしい声、懐かしい立ち姿。俺を鍛え、導いてくれた師匠の姿。ただ一つ、記憶の中と異なるのは——今は、彼女よりも俺の方が背が高い。
胸の奥が、かき乱される。
「……お前は、いや、お前が、ミスティになったのか?」
ロザリンドは何も言わず、ただ俺を見つめている。思い出せなかったその顔が、今はハッキリと見える。彼女はミスティの人間形態に瓜二つだった。
「種明かしの時間か? それとも、ただの幻か……」
近づこうとした、その瞬間——
ズバッ!
風を切る音が響いた。
俺は反射的に後ろへ跳んだ。
霧を切り裂くように、一閃の斬撃が走る。
「……やはりそうか」
俺の目の前に立っていたロザリンドの姿が、一瞬ぶれ、そして歪んで消えた。
「……この霧、やはりタチが悪いな」
幻影に感傷を抱いている暇はない。今のは攻撃の予兆だった。放っておけば、精神を削られ、動きを止められる。
そして、気づく。
「……お前には、関係ないんだな」
追跡者がそこにいた。
俺のすぐ後ろ、霧の中で静かに立っていた。だが、そいつは幻影に一切反応を示さない。リッチロードの呪いが作り出した死者の幻影——俺には見えているが、追跡者には何も見えていないようだ。
「……なるほどな」
俺は剣を構え直し、霧の中を見据えた。
「お前には見えないなら……これは俺にしかないチャンスってわけだ」
追跡者を挑発する。死者の幻影が、ゆらりと揺れる。俺は、深く息を吸った。
「——さあ、続きといこうか」
戦いの幕は、まだ下りていない。