【#76】地下5階・第六話:重力に逆らって
追跡者の刃が、俺の頬をかすめた。
血が一筋、宙に舞う。
重力反転ゾーン。
上が下になり、下が上になるこの空間で、まともな体勢を保つだけでも至難の業だ。
だが、追跡者は涼しい顔で宙を駆けている。
俺と同じ身体、同じ筋肉の動き——だが、それ以上に、“構造”を知り尽くしている。
「クソッ……!」
ミスティの刃を振るうたび、空間がゆがむ。
重力が逆転するたび、俺の身体も引き裂かれそうになる。
「蓮、追跡者は斬撃を跳ね返してくる。剣に“重力干渉”を仕込んでるわ」
「ああ、わかってるさ……!」
俺は床——いや、今の“天井”に手をついて、跳ねるように逆回転する柱に飛び移った。
一瞬、視界がぐるりとひっくり返る。
追跡者の刃が俺の首を狙って振り下ろされる。
ギリギリで身を捻り、ミスティを構え直す。
「失せろッ!」
ミスティの刃を横薙ぎに振るうが、奴は後方に跳躍して避けた。
追跡者は変わらず無言——だが、今までとは様子が違う。
シエナが撤退した今、奴の”目的”は俺の抹殺に完全に切り替わった。
それだけじゃない——シエナを監視していた影響か、今の追跡者は血の気が多い。
攻撃が以前よりも荒々しく、獰猛さが増している。
「……フッ、いいじゃねぇか」
剣を構え直し、ニヤリと笑う。
「来いよ。相手になってやる」
追跡者が跳躍し、空中で斜めに剣を振り下ろす。
その軌道を読み、ミスティを突き出した——
ガキィィィン!
追跡者の剣が弾かれると同時に、ミスティの刃が奴の肩口を斬り裂いた。
追跡者は無言のまま後退するが、その肩口から流れ落ちる”黒い血”は、すぐに蒸発して消えた。
俺は追撃を加えるべく、踏み込もうとしたが——
「——蓮、上!」
ミスティの声で、反射的に跳ねた。
ドォン、と頭上——いや、元の“床”が崩壊した。
瓦礫が重力を無視して真横に落ちる。
それが通路を——地下4階へ通じる階段を塞ごうとしていた。
「……エルゴス……!」
先ほど、エレベーターの中にいた戦闘員の様子を思い出す。シエナと共に去って行った連中。いつもなら、抹殺対象の俺を殺そうとするはずの連中。
わかる。この崩壊は、自然なものじゃない。
タイミングが良すぎる。やつらの仕業だ。あいつらは、わざわざ俺を殺す必要がないから去って行ったんだ——
「邪魔すんじゃねえぞ!」
崩れ落ちる岩の隙間を見極め、全力で走る。
足場が崩れる。天井が落ちる。追跡者が再び剣を振るってくる。
だが——俺の方が、速い。
「ミスティ、いけるか!」
「ええ、いけるわ!」
ミスティを“楔”にして、最後の跳躍。
倒壊する天井を斬り裂き、石片を吹き飛ばして、狭間を抜けた。
そして——
ズンッ!!
崩落の音が背後で鳴り響いたその瞬間、俺は階段の縁に手をかけていた。
「はぁっ、はぁっ……間一髪……」
見下ろすと、追跡者の姿が瓦礫に埋もれていた。
俺は階段を駆け上がった。