【#35】地下12階・第二話:幻覚の狭間
──世界がまた歪む。
視界が揺らぎ、色彩が滲む。まるで現実そのものが崩れ落ちていくかのように。
「……またか」
俺は剣を構え、警戒を強める。
さっきまでの修練場は消え、今度は別の景色が広がっていた。
それは、見知らぬ場所だった。
広大な荒野の中に、静かにそびえる一軒の建物——どこか荘厳な雰囲気を持った、古びた館。
だが、俺にはそこが何なのかまったく思い出せない。
「……お前は、ここを知っているのか?」
ミスティに問いかける。
だが、彼女は微かに震えるだけで、すぐには答えなかった。
「……わからない……でも、何かが……」
彼女らしからぬ、迷いのある声。
その反応が、妙に引っかかった。
──ミスティは、この景色を”知っている”?
だが、それを追求する暇はなかった。
突然、館の扉がゆっくりと開き、黒い影が現れたからだ。
「……ッ!」
影は、ゆらゆらと揺れながら俺に近づいてくる。
その姿は──人間のようで人間ではない。
「ロザリンド……」
低く、かすれた声が響く。
「……何?」
ロザリンド──俺の師匠の名前。
だが、影の正体は分からない。ただ、異様な気配を放っている。
「蓮、気をつけて! これはただの幻覚じゃない!」
ミスティが警告する。
──ただの幻ではない?
その意味を考える間もなく、影が動いた。
高速で俺に迫り、鋭い爪のような腕を振るう。
「クソッ……!」
ミスティで受け止める。衝撃が腕に響く。
影の腕は鋭い刃のようになっており、下手に受ければ深い傷を負うだろう。
「ロザリンド……ロザリンド……」
影はうわ言のように名前を呟きながら、何度も攻撃を繰り出してくる。
まるで、俺を”ロザリンド”だと勘違いしているかのように。
「ミスティ、こいつは一体……」
「……わからない。でも……気味が悪いわ」
ミスティの声は普段よりも冷たい。
「……とにかく、倒すしかないな」
俺は改めて構え直し、影へと踏み込んだ。
影は素早かった。
だが、動きは単調だ。攻撃は鋭いが、パターンが少ない。
「……終わりだ」
ミスティを横に薙ぎ払う。
ズバッ──!
影の身体が裂け、黒い霧となって消えた。
「はぁ……」
息を整える。
だが、戦闘が終わったという感覚がない。
「……まだ何かあるな」
周囲を見渡す。
すると、館の扉の奥に、“誰か”の姿が見えた。
「……っ!」
そこに立っていたのは──
ロザリンド師匠。
いや、違う。顔がぼやけていて、はっきりとは見えない。
「蓮……」
確かに、俺の名前を呼んだ。
「……お前は誰だ」
俺がそう尋ねると、“それ”はゆっくりと手を伸ばした。
次の瞬間──視界が、完全に暗転する。
気づけば、俺はまた元のダンジョンに戻っていた。
「蓮、大丈夫?」
ミスティの声が聞こえる。
俺は軽く頭を振り、意識をはっきりさせる。
「……ああ。だが、さっきのは一体……?」
ミスティは、何か言いたげだった。
しかし、彼女は結局何も言わなかった。
「……とにかく、先へ進もう」
俺は歩き出す。
だが、心のどこかで”妙な違和感”を覚えていた。
ロザリンドの顔が思い出せない。
そして、ミスティの”微妙な反応”。
──何かが、おかしい。
その疑念を抱えながら、俺は幻覚の空間を進んでいった。




