【#34】地下12階・第一話:幻覚の試練
足を踏み入れた瞬間、世界が歪んだ。
視界に広がるのは、俺の知るダンジョンの光景ではない。漆黒の壁も、苛烈な罠も、うごめく魔物の影すら見当たらない。代わりに、懐かしくも、どこか不自然な風景が広がっていた。
──青空の下、広がる荒野。
吹き抜ける風が土の匂いを運んでくる。耳を澄ませば、剣戟の音が聞こえる。
「……これは、まさか」
息を呑む。見覚えがある。いや、忘れたくても忘れられない。かつて俺が剣を学んだ場所。
──ロザリンド師匠に鍛えられた修練場だった。
だが、そこにいるのは俺ではない。
俺の視線の先、そこに立つのは──15歳の頃の俺自身だった。
茶髪を短く切りそろえ、まだ若さの残る顔つき。師匠のもとで剣を振るっていた、未熟な俺。
「……なんだ、これは」
あの頃の記憶が蘇る。ひたすらに剣を振り、戦いに明け暮れた日々。そして、俺を導いてくれたロザリンド師匠の存在。だが、どうしても思い出せない。
──彼女の顔だけが、ぼやけている。
「蓮……?」
ミスティが小さく呟く。驚きの色を帯びた声だった。
「おい、どうした」
「……いいえ。ただ、妙な感じがします」
妙な感じ? 俺には何も感じられない。ただ、幻覚の世界に閉じ込められたという違和感だけが募る。
だが、次の瞬間──少年の俺が、ゆっくりと顔を上げた。
「ここで会うのは……変な感じだな」
まるで本物の意思があるかのように呟き、少年は剣を構える。
「蓮……気をつけて! これはただの幻じゃない」
ミスティが鋭く警告する。
同時に、少年が俺に向かって駆け出した。
「どれだけ成長したか、見せてくれ」
俺に向かって突き込まれる鋭い突き。昔の自分だからこそ、わかる。その動きは、かつての俺が使っていた剣術そのものだ。
(……ああ、見せてやるとも)
ミスティを横に薙ぎ、迎え撃つ。衝突する剣と剣。重みは軽い。だが、俺の攻撃を受け流し、反撃の一撃を繰り出す動きは……俺が師匠から叩き込まれたものだった。
「なるほど……これは、そういう試練か」
冷静に分析する。俺は今、かつての自分と戦わされている。つまり、過去の自分を超えろということか。
なら、やるしかない。
「いくぞ、ガキの俺」
踏み込む。ミスティを振り下ろす。
だが、幻影の少年は素早く回避し、再び攻撃を仕掛けてくる。その姿に、ふと既視感を覚えた。
──あの頃の俺は、誰かの背中を必死に追いかけていた。
「……師匠……?」
なぜか、記憶の奥底からその言葉がこぼれた。
その瞬間、ミスティがわずかに震えた気がした。
「蓮……私、これは……」
「……どうした?」
「わからない……でも、この少年を見ていると……」
ミスティの声が揺れている。そんな彼女の様子が、妙に引っかかる。
だが、今は戦いに集中するしかない。
幻影の少年は再び斬りかかる。だが、俺はそれを見切っていた。
──昔の自分がどう戦うか、俺が一番よく知っている。
「お前の剣は、もう読めてるんだよ」
少年の剣を受け流し、ミスティの刃を一気に振るう。
──ズバッ。
幻影の少年は一瞬、驚いたように目を見開き、そのまま霧のように消えていった。
試練は終わったのか?
周囲の景色が歪み、再びダンジョンの光景が戻ってくる。
「蓮……」
ミスティが、まだ何か考え込むように呟いた。
「……どうした?」
「いえ……ただ、この幻影の少年を見たとき、なぜか”懐かしい”と感じたの」
懐かしい?
まるで、過去に彼を知っていたかのような口ぶり。
「ミスティ、お前は……」
問いかけようとしたその瞬間、再び周囲が歪んだ。
「っ……! まだ終わっていないのか……?」
目の前の景色が、別の幻影へと変わる。
次に現れるのは、一体何なのか──
俺は、改めてミスティを握り締めた。




