ルシカ(行為)
既にルシカを始めている者がいた。
階段を昇った先、屋上に繋がる扉の前で
膝をついて、そのまま動かない
話しかける事は出来ない、なぜなら
"先にルシカを行っている者を急かしたり妨害したりしてはいけない"
これがルシカのきまりであるからだ
待っている間する事と言えばその者を眺めているしか出来ない。扉から差し込むはフィルターにこされて薄くなった光、それを浴びてか首筋まで伸びた先のカールした黒髪が艶やかであった。きゃしゃな背中には綻びのひとつも無い素敵な女性の様だ
やがて、女性が合わせていた手をほどいて、
喉に溜まっていたCo2を「ふぅ」と吐き出した時、やっと俺と目が合った。
「あら、もしかしてあなたもルシカを?」
膝についた汚れを手ではらいながら彼女は言った。
「ああ、そうだよ。と言ってもあなたほどに
美しくルシカをするつもりは無いけどね」
「まあ、大袈裟ね」
口紅を付けてないそのままのリップを表情筋で僅かに持ち上げて、彼女は笑った
「あなたはもしかしてC組の穀凪さん?」
「よくわかったね、A組の稚内さん」
「同じ学年ですもの。そしてもうすぐ
卒業する」
「そう、お別れする三年生だよ」
卒業と口にしたってのに稚内さんは少しも
寂しそうな表情をしなかった。むしろ、全てが上手くいった後の清々しい顔をしている。
「でもルシカをしに来たってことはきまりも
分かっているのよね」
「ああ、言ってみせようか全部」
「まあ」
俺はすぅ…と息を吸い込んで、肺を膨らませ
言った
「ルシカを正義や悪の大義名分に利用してはならない」
「勉学よりルシカを優先してはならない」
「ルシカは身分に関わらず平等に与えられなければならない」
「ルシカを悔いてはならない」
「……」
「……」
「すごいわ」
「すごいだろ?」
自慢げに笑う俺を胸を撫で下ろしながら、彼女は恍惚の眼差しを向けた
「不思議ね、どこに書いてあったわけでも無いのにいつの間にかきまりを覚えてるもの」
「そうだな、俺もルシカのことは先輩から
知ったんだが、きまりはいつ覚えたかさっぱりなのさ」
「先輩?」
「そう、中学に入ったばかりの頃に出会った先輩さ、その人にルシカのことは教えてもらったんだよ」
「そうだったんだ…」
彼女は親指で髪の先をくるんと巻いた
「私はお母さんから教わったのよ、いい事が
あったらルシカの中でお祈りしなさいってね」
「てことはそのお母さんもルシカを知っていたんだ。てっきり先輩しか知らないのかと」
「私もお母さんしか知らないと思っていたわ」
「……受け継いでいたんだ俺たち」
「だったらすてきね」
彼女は壁に寄りかかって、目を朝顔が縮こまるみたいに閉じた。横のラインに日差しが当たって制服の紺色がやけに眩しい
「じゃあ今の話をしましょうか。あなたはどうしてルシカをしに来たの?」
「それは…」
返答に俺は少し間を置いた、恥ずかしながら
ルシカをする理由などは持っていない。何となくここに来たかっただけであるからだ
「ほら、もうすぐ卒業だろ?卒業前に最後の
ルシカをしとこうかなって思ってさ」
「ふーん」
両目をゆっくり開け、彼女は屋上の方を向いた。口紅もしていない癖にどこかその顔は美しく、まるでさくらんぼみたいだった
「…私に会いに来てくれたんじゃないんだ」
「へ?」
苦手だ、女のこういった問いかけは。男を惑わせたいのか本気で求めてるのかがさっぱり
俺には解らない。そして返答しだいで俺が粉々に砕け散るかもしれないリスクまでも
「冗談よ、そんな困った顔しないで」
「……うん」
意図も分からず微笑む彼女を見て、自分の情けなさを感じて俺は唇をきゅっと噛んだ
「今度は未来の話をしましょう。あなたは卒業したらどうするの?」
「就職する、大学に行く金が無いんだ。工場だよ」
「じゃあ、私とは離れ離れね」
上履きを鳴らしながら、彼女は階段の一段目に腰を下ろした
「隣の市の大学に行くの。親はもっとレベルの
高い大学に行けって言うけれど、好きなのよ
あの大学がね」
「そりゃ羨ましいね」
「あら、就職だって悪い事じゃないと思うわ。
私より先に社会人になるんですもの。それって私より先に大人になるって事でしょう?」
「大人って…俺にはそんな言葉似合わないよ」
ぶっきらぼうに放った言葉に俺は
「しまった」と思った。どうにも苦手なんだ
こんな時にどうやって話せばいいのか
「朝見た占いで自分の星座が一位だった」
「へ?」
「学校に来る途中で薔薇が咲いてるのをみた」
「そ、それってまさか」
「給食が好物のカレーライスだった」
「やっぱり…」
「それが今日の私の"いいこと"」
「それがなんなんだ?」
「へへっ」
彼女はまた目を瞑り、足をクロスさせた
「すっごいしょうもないこと、でもいいこと、
こんな毎日の繰り返しだよ」
「まさかそれが俺への慰め?」
「……そんな感じかもしれない」
彼女は上と下の長くしなやかなまつげをびったりくっつけ、足をクロスさせた
「私だって大した人間じゃないし、いつになったら大人になれるんだろって毎日思う、だけどね、それでもここまで来れたんだよ」
背中はひたすら陽が塗れていた。クリーニングしたてなのか猫の毛ひとつも無い制服は
俺にとってガラス越しに飾られてるみたいに
遠く、遠く感じた
「君はやさしいんだね」
そんな言葉しか喉から出なくて、俺は思わず
足元に目をやった。二ヶ月前に買った上履きはいくらか泥が付いて汚れていた
「また悲しい顔をそうやってする。君は自分を
雑にしすぎだよ」
「あ…」
卵を持ち上げた時の様に彼女は立ち上がって
俺の鼻をちょんっ…とつついた
その言葉で俺はますます彼女の"やさしい"に
甘えてしまった事に気がついたのだった
「それでお願いがあるのだけど」
「なんだい、できる範囲なら聞いてあげるよ」
「もう一度…ルシカをしてもいい?」
手を背中側で組んだ彼女は幼子みたいに目を輝かせながら、俺に頼んだ
「いいさ、好きなだけやるといい」
「ほんと?うれしい〜」
くるくる回る彼女を見ながら、俺は疲れたので階段に腰を下ろそうとしたのだが
「ねぇ、せっかくだからさ」
「ん?」
「私と一緒に…ルシカしようよ」
突然の提案に思わず教室まで転げ落ちそうになってしまった
「そりゃ、無理だよ…祈り方とか知らないし」
「私が教えてあげるって…ほら、一緒にいこう」
あの時、確かに俺と彼女は手を繋いでしまった。それがルシカのきまりに反したのかこれを最後に彼女とまともに話したのは卒業して
二十年が経った現在も出来ていない
━━━もうひとつあったいいこと
は俺と出会ったことだったのだろうか。
最近は随分と歳をとったもので、夢の中ですら彼女の顔がぼんやりしてしまった。
そう言えばこの前、母校に寄る機会があり、
あの階段の先を覗いてみたのだが……
そこには人はいない、街に平均的にプレゼントされた光がいくつかたどり着いてるだけだった。光は太陽から来るとは決まっているけれど、どこにたどり着くかは誰もわからない
ただたどり着いた先で俺のような人間が
「あんしん」してしまっているとは光は
知るよしも無いのだろう
今日も俺はルシカの無い場所で彼女に教えてもらった様にお祈りをする。だけどその
《いいこと》の中に彼女が含まれる事はない
たぶん
ルシカは本日もからっぽなのだから
おわり