逢魔が時に君を乞う
スピーカーから響く祭囃子が、足早な落陽に溶けゆく。夕映えに染まった風が木々の梢を揺らすごとに、色づき始めた紅葉もまた鮮やかさを増した。
子供の頃過ごした町へ、高校を卒業したのを機に久しぶりに戻った。
神社への道にはくすんだ色味の屋台が並ぶ。食欲をそそる、お祭りの食べ物の匂いがした。わたしはつられるように、まずは焼きそばの出店に立ち寄る。
いくつか設置されたベンチの一つに腰かけ、焼きそばを頬張る。友人たちと祭りを回った頃は、座る場所を探すにも苦労した。今は混み合ってはいるものの、連れを見失うこともなさそうだ。
軽く腹ごしらえは済ませた。一度、神様にお参りしておこうか。人混みを縫い、鳥居を越えたあたりで誰かに呼び止められた気がした。
「緋彩?」
振り返ると、紅葉柄の羽織にシンプルな紺の袴姿の人。顔を隠す狐面が、わずかに首を傾げているからかどこか不気味に見えた。
けれど、懐かしい声。見知らぬ人たちも多い祭りの中、泣きたくなるような郷愁に襲われた。家族や友達同士で来ている人たちの中、一人でいる自分が救われたような心地になる。
「やっぱり、緋彩だ。今日会えるなんて思ってなかったから、嬉しい」
「わたしも。久しぶりだね、お祭りってなんだか懐かしい人に会える気がして。来て良かった」
彼とは昔よく遊んだ。祭りの時には決まって狐面をつけて来て、それを鮮やかな紅葉と共によく覚えている。
「緋彩、お面は持ってる?」
「え? ない、けど……?」
きょろきょろと周囲を見回すと、確かにほとんどの人が面をつけている。恐ろしげな鬼、どこか愛嬌のある狸や、ひょっとこなど他にも色々。
「なら俺が買ってあげる。来て!」
切羽詰まったような、でも楽しそうな。そんな彼に手を引かれ、黒い猫の面を買ってもらった。
少しお洒落をして編み込んだ髪を崩さないよう、彼が紐を結んでくれる。金の模様が描かれた黒猫の面は、彼のものとは違い、顔の上半分だけを隠すデザインになっていた。
「これで大丈夫。何か食べる? それとも、遊んでいく?」
「んー。せっかくお祭りに来たし、何かしていこうかな。そういえば、射的とか得意だったよね。わたしが欲しいって言ったもの、次々撃ち落としてさ……」
「緋彩の好きなもの、なんでも取ってあげるよ。他には? 出店は色々あるし、祭りはまだ、始まったばかりだ」
再び手をつなぐ。そうでもしないと、はぐれてしまいそうな人混みなのだ。いつの間にこんなに集まってきたのだろう。夜が近いからかもしれない。
「緋彩。俺の手を離しちゃだめだからね」
「うん。はぐれないように気をつけるよ」
振り返った狐面が告げる。大きい手に包まれる安心感と、どこか妖しげな声。彼の下駄がからころとたてる足音が心地よい。
射的に金魚すくい、くじ引きやヨーヨー釣り。同じ出し物の店が複数あるためか、祭りの会場をとても広く感じる。
色々と遊び歩いた後、屋台で食べ物を買い込んだ。やっと見つけた椅子で一息つく。
「お面、外さないの?」
「んー……。今はまだ、ね」
爪楊枝でたこ焼きを口に運ぶ彼は、狐面を外さずに少しずらすだけだ。それがやけに上品な所作だから、素顔がほとんど見えないのに、どこか艶っぽく映る。
わたしはそんな彼を横目で見ながら、クレープにたっぷりトッピングされたホイップクリームと格闘している。その差がなんだか恥ずかしい。
「みんな、楽しそうだね」
彼がしみじみと呟く。
はしゃいで駆け回る子供たち、今日ばかりは子供のわがままを聞き入れる両親。ちょっと特別な装いの二人連れは恋人同士だろうか。
みんなお面をつけていて顔は見えないが、賑やかな雰囲気とハレの気が伝わってくる。
「俺、この景色が好きだな」
夕景の中そう言った姿に、在りし日の記憶がよみがえる。
『ここから見る景色が好きなんだ。秋の田んぼって、高い所から見ると本当に黄金色の海みたいなんだよ。ずっと続く田んぼを風が駆けると、揺れる稲が金色の波になって』
あの時も夕暮れだった。夕映えに煌めく稲は彼の言葉通り海で、風に揺れる音が波に聴こえた。
「……あ」
隣でお腹が鳴って、わたしは現実に引き戻される。表情こそ隠されているが、うつむいた狐面は恥ずかしそうだった。
「まだお腹空いてるの?」
「ん、そうみたい……」
「じゃあわたし、何か買ってくるよ」
「でも、一人で行っちゃ……」
「大丈夫だよ、すぐそこの屋台のお好み焼き買うだけだから。ここで待ってて」
彼を残し、人混みの中へ飛び込む。夕闇では、お面をつけた人々は誰が誰だかわからない。
からころと、下駄の足音。ひらひらと、綾なす浴衣。祭りとはいえ、和服を着てくる人はこんなに多かっただろうか。
さんざめく人々の顔には面。狐、狸に猫。身近な動物でありながら、人を化かすもののけとも言われる。
「あ、れ……?」
どこまでも続く参道に、色とりどりの出店。薄暗い闇を煌々と照らす、紅い提灯。
そこでふと、違和感を覚えた。
最初の屋台で、最近はずいぶんと祭りの規模が小さくなったと聞いたはずだ。けれどここには、記憶より多くの店が並んで果てが見えないほどだ。
そして何より、あれだけ時間を過ごしたのに夕陽はずっと沈んでいない。一日の最後の煌めきのまま、世界を黄昏色に染め上げているのだ。
祭りの明かりが作り出した濃密な影の中で、得体の知れないものが揺らめいた。
ここは、わたしの知らない場所だ。早く彼の元へ帰らなくては。
「わ……っ!」
焦って足がもつれた。体勢を立て直すことも出来ず、石畳に膝をつく。
からん、と傍らに黒猫の面が落ちた。彼が気を遣ってくれたから、結び目が緩かったようだ。
途端、周囲の人々がざわめく。わたしはなぜか遠巻きにされ、ぽっかりと空間ができた。
「人の子だ」
「神様のお気に入り」
「甘そうな匂いのする、人間の娘」
不穏な気配に身がすくむ。本能的な、敵に狙いを定められた時の恐怖だ。
じりじりと迫ってくる輪をよく見れば、面をつけていない人もいた。いや、人ですらない。獣の顔、角や牙の生えた鬼の顔を持つモノたちだ。
「助けて……っ、黄金!」
「やっと俺の名前を呼んでくれたね、緋彩」
金色の光と共に、彼が現れた。
「ねえ、みんな。緋彩には、手を出さないでね」
透明感のある声は、不思議な響きで夕暮れに溶けた。いくらかのモノたちは、その言葉に従って去っていった。
だがほとんどはその場に留まり、物欲しそうな視線を向けてくる。
「やっぱり、言霊じゃ力が足りないみたいだ……。実乃里、来て!」
「お呼びですか、我が主」
「社の中に転移するから、彼らがついてこれないようにして」
「承知しました」
彼の言葉に応えて現れた狐が駆けると、雷が落ちる。距離ができたところで、黄金の足元に描かれた光の陣によって、わたしたちは和室の中へ移動していた。
「緋彩、怪我とかしてない?」
「うん。黄金が助けてくれたから、大丈夫だよ」
「そう、良か……っ」
「黄金!?」
ほっと安堵の息をついたかと思えば、黄金は糸が切れたかのように倒れ込んだ。咄嗟に抱き止めた身体は、確かに重さを感じるのに存在感が希薄だった。
「少しすれば目を覚まします。幸いにして、今宵は祭りですから」
傍らにいた狐がくるりと宙返りして、獣の耳としっぽのある人の姿に変化する。わたしでは支えるのが精一杯だった黄金を抱き上げ、奥にあった布団に横たえる。
「あなたは、誰? それに黄金も、さっきのひとたちも。そもそも、ここはどこなの?」
「黄金様はこの神社に祀られる、豊穣を司る神。そして私は、彼に仕える神使です」
ようやく陽が沈んで暗くなった部屋に、狐は明かりを灯した。そうしても先ほどのモノたちが襲ってこないのは、黄金が結界を張ってくれたからだそうだ。
狐はきっちり正座し、丁寧に説明してくれた。話しながらも片耳だけは、しっかりと黄金の方に向けられている。
「貴女を襲ったモノたちは、あやかしです。普段はおとなしいものなのですが、人である貴女の存在と、祭りの雰囲気に羽目を外したのでしょうね。……黄金様の狭間に住まわせてもらっている身でありながら、神の供物に手を出すとは、不届き者め……」
低い声で呟いた後半はよく聞こえなかったが、金の毛並みのしっぽがぼっふぼっふと憤慨している。恨み言だろうか。
「えっと、つまりここは人じゃないモノたちの世界ってことでいいの?」
「世界と言うほど大規模なものではありませんがね。貴女がた人が住まう世界と少しズレた場所、狭間と呼ばれています」
それは人々が知らないだけで、各所に存在しているらしい。例えば、人里から離れた山奥や、神社などの神域に。その付近では、神隠しに遭いやすいという。
「じゃあ、わたしも……」
「ええ。あちら側から見れば、貴女は神隠しされている状態です。鳥居を越えたことがきっかけになったのでしょう。貴女と縁のある黄金様が、無意識に呼んでしまったのかもしれませんね」
「黄金が、わたしを……。それは、わたしに何か出来ることがあるから? 黄金があんなに弱ってたことと関係ある?」
「大いにありますよ。貴女は、久方ぶりに黄金様が関心を持った人」
本来、神は公平であるべく個人に興味を持つことが滅多にない。慈しむことはあれど、それは全体に向けられたものだ。
ロウソクの揺らぐ炎に照らされた、狐の瞳が妖しげな光を増す。
「そこらの人ではだめなのです。黄金様が好意的に思っている相手でないと」
「な、何の話……?」
「好きであるほど、糧になる。愛するほどに、極上の味になる。……だから、緋彩さん。黄金様のための、贄になってくださいませ」
狐の手が伸びてきて、わたしに触れる直前。バチンと火花が弾け、彼を退けた。
「これは、黄金様の加護……」
呆然と、狐は呟く。どうやらわたしはまた、黄金に助けられたようだ。
「実乃里……」
消え入りそうな声に、わたしも狐もはっとした。気だるげに身体を起こした黄金が、狐面越しにこちらに視線を向ける。
「黄金様!」
「加護が行使された。今、何しようとしてたの」
「それは……」
「黄金……っ」
「だめ、緋彩は来ないで!」
駆け寄ろうとした身体が、意思に反して動きを止めた。それは一瞬で解け、わたしはその場に座り込む。あやかしたちに使われた言霊の力がこれなのだろう。
「ごめん……、でもだめなんだ。美味しそうな匂いがして、食べたくなるから」
「それの何がいけないのですか。失くした力を補うには、贄が必要でしょう」
「俺は嫌だ、緋彩を食べたくない。手を出さないでって言ったじゃん。俺の言うことがきけないの」
「滅相もありません」
狐は深々と頭を下げた。その目は納得などしていないと言いたげだったが、狐耳はへたんと伏せている。彼も、ただ黄金が心配なだけなのだ。
「私は、黄金様と共に消える覚悟ならとうにできております。ですがだからと言って、何もせずただ見ているだけなど出来かねます」
「黄金が、消えるって何?」
「大したことじゃないよ、緋彩。ちょっと俺っていう個の存在が薄れてるだけ。この地への加護は、何も変わらないから」
稲荷の神そのものは、各地に多くの神社があり充分な信仰を得ている。だが個が弱まれば、受け取れる信仰や力も受け取れない。そうしてさらに弱っていく、悪循環だ。
黄金のように各地の社にいる神は、その地へ円滑に加護を与える役目を持つ。消えたからといって大きな支障はない。だから稲荷の神全体も、神を気に留めなくなった人々も気にしないのだ。
「実乃里、さん。それはわたしなら、繋ぎ止められる? 黄金自身が、消えないようにできる?」
「ええ。ですが貴女が黄金様の贄になる以外の方法を、私は存じ上げません」
何度も黄金に助けられた。さっきだけでなく、わたしがこちら側に迷い込んで来てからずっと。手を離さないでと言ったのも、きっとわたしを守るためだった。
それなら今度は、わたしが黄金を助ける番だ。黄金はわたしを喰らいたくない。わたしだって食べられたくはない。だったら、それ以外の方法で。
「わからないけど、力になりたい。黄金の存在が消えかけてるなら、黄金のこと知ってるわたしがそばにいるんじゃだめなの?」
「今さら、それだけで足りる保証はありませんが……」
「だったら、足りるまでずっといるから! だから黄金、わたしの手を取って……!」
「や……っ、嫌だ!」
拒絶の声と言霊に、足が止まる。負ける訳にはいかない。
黄金が自分のことを大切にしていないのは、さっきの言葉でもうわかった。だからわたしが、手を伸ばさなければ。
伸ばした手が、何かを突き破る感覚がした。途端、わたしの身体は自由になる。
面をしていても、呆気にとられているのがなんとなくわかる黄金の元へ。
「黄金がわたしを救ってくれたように、わたしも黄金のそばにいるから!」
やっと届いた手で、彼の手を掴む。
「……っ! あ、れ……? 食べたくならない。力が、戻ってきてる……?」
「まさか。それほど神の糧になる方法なんて……」
「これは……。緋彩、俺に君のこれからの時間をくれたんだね」
繋がった手を引き寄せられて、抱きしめられた。暖かさと、かすかな白檀の香りがする。支えた時と違い、黄金が確かにここに在るのが伝わる。
「人身御供は、花嫁を意味することもありましたね。花嫁もまた生贄であり、神の糧になりうる。という訳ですか」
「わ、わたしが黄金の……」
そろそろと視線を上げる。面の紐がほどけ、黄金の顔があらわになっていた。
「黄金様、お顔が」
「あ。ほんとだ、戻ってる。どうかな、緋彩。変じゃない?」
存在が薄れて以来、黄金の顔も消えかけていたらしい。だから今夜は狐面をつけていたという。あやかしは顔がないくらいは気にしない。わたしを、怖がらせないためだ。
秋の稲穂を思わせる金色の瞳。端整な顔立ちに、ほわんと甘い微笑みを浮かべている。
「綺麗だよ。いつか黄金が言ったような、金色の海みたいに」
「良かった。あと、実乃里も。ありがとうね」
「いえ……、黄金様がご無事で何よりです。緋彩様、ありがとうございます。私はずいぶん強引な手段を用いましたのに」
「それは、まあ……。でも黄金はこんなだし、わたしは実乃里さんの気持ちもよくわかるよ」
神は自分という個より、役目を優先する傾向にあるらしい。けれどわたしも実乃里さんも、黄金自身が消えるなんて許せなかった。だから実乃里さんを責める気にはなれないのだ。
「一つ、お詫びを。貴女が黄泉戸喫をするのを、むしろ好都合だと考え、止めませんでした」
「……あっ! 出店の食べ物、一緒に食べたっけ。黄泉戸喫のこと、すっかり忘れてた」
異界のものを口にすると、帰れなくなる。世界中にあるその伝承を、この国では黄泉戸喫という。
黄金はこの狭間の主でルールでもあるが、こればかりはもっと根本的なものであり、干渉できる法則ではないそうだ。
「黄金のそばにいるって言ったでしょ。気にしないよ」
と、外から低く響く音が聞こえた。
「花火の時間だ! 行こ、黄金」
ぼんやり明るい障子を開けると、冷たい夜風が流れ込んでくる。小高い社からは、祭りの会場が眼下に見える。紅い提灯に照らされた出店は、あちら側のものより色鮮やかだ。
空気を揺らす音と共に、花火が打ち上がる。華やかに咲いては散って、澄んだ夜空を彩った。
「昔、初めて黄金と会ったのも、お祭りの日だったね」
この町に来たばかりだったわたしに友達はなく、たった一人でいる祭りは虚しかった。そんな時声をかけてくれた黄金に、祭りなんて嫌いだと言って泣いたのは、ずっと昔のことだ。
それからも時々黄金とは遊んだが、決まってわたしが一人で神社に来た時だけだった。
「お祭りの日って、迷い込んで来る子が多いんだ。夕暮れ時だし、境界も曖昧になるから。そういう子たちは少し遊んでから、送り返してあげてるんだけど……」
夕暮れ時は逢魔が時とも呼ばれる。人と人でないモノが交わる時間。本来霊感のない人でもあやかしの姿を視たり、神隠しに遭ったりする。
この狭間の時間に干渉し、夕方に留めたのは実乃里さんの仕業だった。だからわたしはこちら側に迷い込み、あやかしを視た。
「緋彩はコツでも掴んじゃったのかな。それからもよく来るようになって。そんな子、久しぶりだったよ」
「わたしが一人ぼっちじゃなくなったのは、その度に黄金が手を取ってくれたおかげだよ。ありがとう、黄金。わたしを救ってくれて」
あの日から、今夜まで。わたしはずっと、黄金に救われていた。
だから黄金の力になりたいと思ったし、食べられるのとは違う形であれど、彼に自分を捧げる覚悟ができた。
「緋彩はそう言うけど、俺の方こそ君に救われたんだよ? 人の暖かさを教えてくれて、今もこうして隣にいてくれて」
もしあの日、出会わなかったら。わたしが贄になったところで、助からなかっただろうと彼は言う。救われたから、救うことが出来た。お互いに。
「でも、その頃の記憶が曖昧になってたんだけど。こっちに来てしばらくは違和感も持たなかったし……、何かした?」
「う……、認識はちょっといじった。怖がらないようにって。記憶の方はその……、あんまり美味しそうで、つまみ食いしちゃった」
金の瞳を潤ませて、うかがうようにこちらを見るのはずるい。彼は長生きで力のある神で、下手に出る必要なんてないのに。
「黄金との思い出はわたしにとっても大事なんだから」
「ごめんね、もうしないから……」
「食べた分、これから一緒に思い出作ってくれなきゃ許さない」
「……! うん、一緒にいろんなことしよう。緋彩、大好き!」
きっと神の『好き』は人間の思う『好き』とは違う。わたしのこの気持ちも、恩義によるところが大きくて恋とは呼べない。
けれど一緒に時間を重ねていこう。そばにいると約束したのだから。わたしは彼の、花嫁らしいから。