6. 月臣ウォールン
川のほとりで顔を拭くミユズ。
グラノアは隣りに座って紙コップに汲んできた水を彼に渡した。
ふぅっと息を吐いてミユズは左手を見つめる。
稲妻の模様が入った青いグローブが貼り付いている。
「ピカンは死んではいない。だって我々と同じ、亡者なのだから。彼は別次元で生きている。今この時をともに生きている」
というのがグラノアの説明だ。
「わからない。このことをどう捉えていいのか」
グラノアは指を頬にあて思案した。
「そうね……音楽を聴くのと同じよ。歌の心って、聴く時そこにあるでしょ? それに目を閉じていつでも思い出せる。歌い手や作者とともに〝在る〟って感じたり、しない?」
「存在を感じるってこと? いっしょにいる、みたいな。……このベルトを通してピカンと話をした。無意識にぼくを信じてくれと呼びかけ、心を寄せた気がする」
「うん。そして力を借りるの。彼の能力を」
にこりと微笑むグラノアをミユズは見つめた。
「ベルトから〝怪獣〟が出てくるのかと思った」
「はは。手懐けるって意味の懐柔。ダミアンを倒すっていう同じ目的だから話せばわかってもらえるはずよ」
「話せば……か」
「目的を果たしたら解除されるわ。そしたらまた彼はこの世界に戻ってくる」
ミユズは彼女に借りたフェイスタオルを川で洗ってしぼった。
ふと立ち上がり、髑髏のバックルに手を当てて空を見上げてミユズは喋り出す。
「あのー、もしもーし、ピカンさん。どこいらっしゃいますー? 聞こえますかー?」
座っているグラノアが頬に手を当てたまま笑った。
「ふふ。電話じゃないんだから」
「どうしたら話せるのさ」
「お互い本当に必要な時だけ。心の中でね。わたしが作ったものだからポンコツかもだけど、許して」
ミユズは鼻で息を吐き、一つ言い返した。
「ぼく年が明けたら十九歳だけど」
「わたしは来年の今頃十九。一応」
「ええ? 一応って……? とにかくきみの方が少し歳下じゃないか」
「でも……あなた童顔だし」
「……もう」
「それになんだかこう……あなた赤ちゃんのいい匂いがするの」
「ちょ、ちょっと! 変なこと言うのやめてください!」
休んでいる間にグラノアは中空の導きのページから次の行き先を調べていた。
目には見えない本を閉じ、手を合わせるとすっくと立って東の方角を指差した。
「よし! 進路は東へ! おまえが行け〜! ヨーソロー! ミユズー!」
「なんですかそれ」
歩き出した道中、ミユズはグラノアの携帯電話から母イゼルに連絡をとった。
「母さんぼくたち大丈夫だから。グラノアも元気さ」
息子たちの無事を知り、イゼルは胸を撫で下ろした。
* * *
ウォールンとクミルの幼い兄弟は、生まれ育ったその小さな田舎町を出ようとしていた。
義父は酒瓶を蹴散らして言った。
「勝手にしろ。学べばいい。よそじゃ手に入るものすべてに代償を払うことになるからな」
二人は手を繋いで川を渡り、貨物列車に飛び乗った。
無銭乗車を車掌に見つかって降ろされ、次の日は歌を唄いながら線路づたいに歩いてゆく。
母の形見の一万ペネ札をポッケにたたんで。
お腹を空かせて泣くクミルに、ウォールンは少しずつ少しずつお金をくずしてパンを買ってあげる。
「にいちゃん、おカネふえたね」
「え?」
「いちまいだったのがたくさんになった。キラキラきれいなコインがたっくさん」
クミルの屈託のない笑顔を見て、ウォールンは元気をもらった。
そして行き着いた駅で親切な老婆に出会い、また列車に乗せてもらい、国境を越えた。
農場や果樹園で働いたが、もっと稼げるという話を聞いた。
サン・ダミアン工場で働けば、そこでの一年分を一日で稼げるという。
月が妖しく輝く夜、貯めたお金を握りしめ、二人は農場を出て行った。
砂漠を越えた谷のはずれにその工場はあった。
見捨てられた養鶏場で、飼料と糞と薬品が混ざった特異な臭いを放っていた。
慣れるまでは鼻と口を布で覆い、目つきの悪い高慢な大人たちに従った。
気をつけなければヨウ化水素酸で皮膚がただれてしまう。
黄色い蒸気を吸い込むと呼吸困難になり、吐血して床にうずくまる。
納屋で寝泊まりして何ヶ月もそこで働いた。
「にいちゃんおれ、いつかクルマ買ってにいちゃんのせるんだ」
「おまえが運転手か?」
「そうさ。まちのレストランまでりょこうするんだ」
「はは。そいつは楽しみだ」
「にいちゃんいつもおれをおんぶして歩いてつかれて。だからいつかおれが楽させてあげる」
ウォールンが見張り番でクミルから離れたある夜、工場で爆発が起きた。
空気が揺れ、黒煙が立ち昇った。
ウォールンは黒焦げのクミルを背負い川を目指す。
小さな弟の熱い手は途中でだらりと下に落ちた。
月明かりの中ウォールンは丘の上に向かい、杉の木の根元を掘った。
そこには二人で貯めたお金が埋めてあった。
誰かに盗まれないよう隠したもの。
錆びたブリキの缶から紙幣と硬貨を取り出す。
硬貨に反射する月の光。
熱い光を目に焼きつけたまま、ウォールンはクミルにキスをし、彼をその穴に埋めた。
やり場のない怒りに支配された。
工場主を捜し、殺すことをウォールンは誓った。
亡霊のようにうろつき、関係のあった事務所に押し入り、撃たれても立ち上がった。
裏街の路地に破れた紙幣と硬貨が散らばる。
ウォールンの咆吼が闇に響き渡る。
いつからそうなったのか、腕に脚に力がみなぎっていた。
割れたショーウィンドウに映る異様な姿。
硬く盛り上がった胸板や背中、太腿。
オレンジ色に揺れる長い髪、体毛。
銀色に光る腕、脛。突き出た鼻、尖った耳、狼のように裂けた口。
残っているのは汚れたジーンズと百ペネ硬貨。
「……おれは、化け物……」
裏社会の男たちが鉄パイプや機関銃を手に襲ってきても弾き返した。
警官隊ついには軍隊による化け物駆逐が始まり、廃墟ビルに据えられたガス室に追い詰められた時、その手が差し伸べられた。
「……ダミアンを捜しているのだろう? 若いの」
電子音が混じるしわがれ声。
「あ、あんたは……?」
丸縁眼鏡、禿頭の老人が暗がりに浮かぶ。
「話は後だ。地下へ行こう」
老人に手を引かれ、地下水路を走った。
ウォールンは助けられた。
導く小さな背はすばしこく、恐ろしく力強い。
灯りはなくとも先を知っていて、立ちはだかる石壁に手を当て、その仕掛け扉を開けた――。
たどり着いたところは白い、眩いくらい真っ白な部屋。どこまでも広がる夢幻の空間。
そこにポツリと老人は椅子に腰掛け、ウォールンにも座るよう、据えられたソファへ手招きした。
「(撃たれても立ち上がった)そう思っただろうが、違う。おまえは一度死んだんだ。そして械奇細胞によって蘇った」
不気味な声がウォールンの耳にこびりつく。
何者なのか。この老人は。
ウォールンはわさわさと波打つ自分の体毛をなだめた。
「……じいさん。おれはゾンビなのか? この体は……カイキ細胞?」
「おまえさんの心の闇。そうなった原因はおまえが元々持っていたもの。心の闇にある……と、わしは思う」
「なんだそれ。おれが悪くて、おれがもともと悪者だから、こうなったって言いたいのか?」
「おまえさんが『元より悪』だとは言うとらん。……おまえは早くに母親を亡くし、働かない義理の父親に見切りをつけ、幼い弟の手を引き村を出た。覚醒剤を作る工場で昼夜働きお金を貯めたが、事故で最愛の弟を失った。続く不幸を嘆き、恨みの矛先はダミアンと名のる工場主にこそ向けられる。自責を誤魔化しながらな」
ウォールンは睨んだが、その通りだとうつむいた。
十歳にもならない弟は、おれが殺したも同然だと悔やんでいた。
「おまえたちは情念の結晶体。強い念いが具現化した化け物だ」
「……たちって……おれの他にも似た奴らが?」
「いる。ダミアンもな。奴は械奇族の成れの果て。奴の念は強過ぎる。自分の邪魔をする者を殺し、破壊兵器〝械奇砲〟を奮い、この世を支配しようとする」
何もかも見透かしているかのような老人の眼鏡の奥を探るウォールン。
この男も化け物ではないのか。
「ウォールン。毒を以て毒を制すと言う。悪鬼ダミアンを倒せるのはおまえたちしかいない。そう、わしはこうしておまえの他にも兵団として一族を集めている」
「じいさん。あんたこそ……」
ウォールンの猜疑の目。
老人は禿頭をさすりニタリと笑って答えた。
「わしか? 名はロカボロ。おまえたちとは違う。おまえたちの存在を研究する者。〝悪鬼討伐団長〟とでも言っておこう」
* * *
場面は東部の町に切り替わる。
次元転移術による時空移動はエネルギーをいちじるしく消耗するからと、中古車屋でいつの時代のものかわからない古い車を調達したグラノアとミユズ。
でもわたし免許取りたてで怖いからあなた運転してよとグラノアに言われ、それはミユズも同じでデカい車だしあんまり自信なかったが……、男らしく「ぼくにまかせろ!」と奮い立ってハンドルを握った。
夕暮れのハイウェイ4961を行く。
黒い山々に囲まれた道は静かで、寂しく、怖かった。
「ぼくら亡者でしょ? なんで怖いって感じるのさ」
「……ヒトの名残りよ。やっぱりヒトでいたいと思うから」
そう言ってグラノアはラジオのチューニングをいじる。
このレトロカーに似合う素敵な音楽はないかと。
で、流れてきたのは――。
《――おお、オルガいわく「わたしのためにおまえの息子を生贄に」
ダンは答える「神様、おれを試そうってんだろ?」
オルガは「違う」
ダンは「どういうことだ?」
オルガは「好きにしなさい。だが今度は命の保証はないぞ。わたしに見つからないようにな」
考えたダンはもう一度訊いた「ではどこで捧げたら?」
オルガいわく「それはハイウェイ4961で」♪ ――》
鼻にかかったダミ声の軽快なロックナンバーに「なんじゃこの歌わけわからん」とグラノアは首をひねった。
月夜のドライブ。
カーブにさしかかる手前の制限速度40キロの標識が目に入ったところでパトカーのサイレンが鳴り響いた。
「ええ??」
前つんのめりで減速せずにアクセルを踏んでいたミユズがハッとなる。
「あ。80キロ出てる」
「ウウウウーーーッ!! そこのユビィック6型停まりなさい!」
後方からパトカー、ブレーキを踏むミユズ、そして前方四辻には毛むくじゃらの怪物が立ちはだかっていた。
「ちょ、ちょっと! 見てよミユズ! あれなに悪魔?」
グラノアが指差すと怪物は月光にオレンジの髪をなびかせ、ジャンプし、ミユズたちを越えてパトカーの前に着地した。
急停車したパトカーは恐怖におののき急加速でアスファルトを蹴り、ただちに姿を眩ませた。
怪物は振り向き、ミユズたちに吠えた。
「おまえがダミアンか?!」
ゆっくりと車を降りるミユズ。
グラノアはあわあわと両手をあげた。
「違う! ぼくはミユズ! 誰だきみは、いきなり」
ミユズが訊くと彼は答えた。
「おれは械奇兵団・月臣ウォールン!」
なびく体毛と鉄の爪、機械の腕を振りかざしてウォールンは言う。
「その得体の知れない波動、おまえが何者か、今から確かめさせてもらう!」
「だから」
襲いかかる鉄の獣人ウォールンをミユズは撥ねのけた。
そして懐柔ベルトに手を当て起動させる。
一閃に走る稲妻。ミユズの左手が光のバリアを張る。
ウォールンは回り込み、ミユズの背後を狙う。
牙と爪を光らせ飛びかかるがまたも弾かれた。
車の中からグラノアが声をあげた。
「あんたなんかにミユズが負けるもんですか! へーんだ!」
「ガルルルルルルルルルゥーッ」
地面を蹴って足場を固めるウォールン。
差し込む月明かりに砂煙が舞う。
ウォールンの腹が膨らむと同時に増大する空気の流れをミユズは感じとった。
「来る!」
ウォールンが吠えた。渾身の咆吼はまさに音撃!
「ウオオオオオオオオオオオーーウッ!!」
「ううっ!」
「きゃーっ!」
ミユズは大砲のような声の塊に押し倒され、グラノアは耳を塞いで車の中へ身を伏せた。
ミユズは立ち上がり、繰り出される声の連続を正面から受け止めた。
「ウオオオオオオオオオオオーーーーウッ!! ……ウオオオオオオオオオオオーーーーーーウウッッ!!!!」
ミユズが起こす風の渦がウォールンの声と向き合う――!
その獣人の雄叫びは、怒りも悲しみも憎しみも絶望も、この世に対する猜疑も失望も自責の念も、すべてを滲ませていた。
ミユズは自ずと械奇文を唱えた。
「……この道は真っ直ぐ、天国へと繋がっている。時空を越えた門よ、開け。通りは炎と憎しみに覆われている……」
強大な竜巻がウォールンをさらってゆく。
二人の姿は消え、声だけが月の夜空に響き渡った。