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8.湯殿の事件

 お互いに、少しも動かず見つめ合っていた。

 レイナは驚きのために。青年は、……何やら、瞳に不穏な色をたたえているように思えた。

「あ、の……」

 やっと絞り出した声は情けないくらいに小さかった。それに反応した青年はついと顔を上げ、無表情のまま、一歩足を踏み出した。はっとして、レイナは立ち上がりかける。が、今、彼女は一糸纏わぬ姿である。薬草の浮いた湯につかっているほうが己の体を隠せるだろう。両腕で必死に胸元だけでも隠し、レイナは浴槽を後退した。琥珀色の髪が湯の中に広がる。

 しかし青年は歩みを止めなかった。ズボンのすそが濡れるのもお構いなしにずんずん進む。しまいにはそのまま浴槽に足を踏み入れたのだ。レイナはさすがに恐怖を感じた。傍に置いてあったタオルを掴んで立ち上がる。湯が波立つ。その途端、レイナの視界が白くなった。立ちくらみ。湯が大きな音を立ててはじけた。

 レイナは正座をするような格好で湯の中に戻っていた。右手をついて、こうべを垂れる。左腕は青年に肘を掴まれて引っ張られていた。舌が冷えている。気持ちが悪い。

 青年は黙ったまま。すっとしゃがんで、レイナの顔を覗き込んだ。顔をそむけようとすると頤を掴まれる。思い切り頭を振ってその手を払いのけたかったが、まだ頭がぐらぐらしていた。冷えていた舌はしびれて、奥からゆっくりと回復しつつある。

 青年が不敵に笑った気がした。口元だけで、傲然と。そのとき、ちらりと鋭い犬歯が見えた。

(この人、吸血する時だけ歯が鋭くなるんだ……)

 なぜかそんなことをぼんやりと思って、レイナは近づいてくる青年にはっとした。腕を突っ張ってみるが抵抗も虚しく、青年の濡れたシャツが腕に張り付いた。

「やだっ……」

 レイナが小さく叫んだのと、青年が彼女に歯を立てたのはほぼ同時だった。

 鎖骨のあたりに小さな痛み。続いて力が抜けた。視界がぐにゃりと溶け出す。腹に重いしびれが走った。信じたくなかった。喉が震える。息も震える。噛んだ唇から小さく声が漏れた。

(私の身は、あの方に、奉げたのに……!)

 脳裏によぎる美しい笑顔に責められているような気がした。レイナはぐっと目を閉じて、ただひたすら、今の状況が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。


 突如、青年はレイナを突き飛ばした。力の抜けた彼女は必然的に倒れこむ。派手に湯が飛び散った。むせながら身体を起こすと、青年は腕で口元を覆い、レイナを見下ろしていた。その表情は読めない。二人の視線が一瞬絡んだが、青年が一方的にそれをそらし、くるりと踵を返して湯殿を去っていった。ずぶ濡れのままで。

 嵐のような、という形容がまさにこの状況にぴったりだ。始まりも終わりも突然で、レイナは青年が消えてしばらくの間も、ぽかんとしていた。しかしやがて、自身に起こったことを思い返して不快感がこみあげてくる。自分の力のなさ、青年の行動。

 まったく、なんなんだ。久々の湯浴みを楽しんでいたのに。

(普通、人の――しかも異性のいる湯殿に入ってくる!?)

 そう思ってから、そうだ、あの人は普通じゃないんだった、と思い直す。

 ここでしっかり療養してから再び旅に出ようと思っていたが、もしかしたら、この屋敷は旅以上に危険な場所なのかもしれない。いや、絶対にそうだ。

 レイナはため息をつき、まだ早鐘を打っている心臓を押さえるように、胸に手を当てた。

 腹の痺れはまだ残っていた。



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