6.小間使いの男と
朝食の席から自室に戻り、ヴァスカはコートを羽織った。そしてふと、合わせようとした襟をもう一度開く。体があたたかい。朝から何かを食べたのは、数年ぶりだった。
しとやかにスープを口にしたと思ったら、突然涙を流した娘。理由を聞くと温かい食事がどうとか言う。そんなに美味いのかと、思わずセルヴィに自分の分も用意させてしまった。彼がスープを飲んでも、娘のように涙は出てこなかった。ヴァスカが失ったものは、やはり、簡単には戻ってこないようだ。
ヴァスカはふうと小さく息を吐き出し、外に向かった。いつもより体が軽いのは、娘の血のおかげか、セルヴィのスープのおかげか。ぼんやりとそんなことを思った。
***
「よお、ご主人サマ」
庭を抜け、森を歩き、“いつもの場所”で立っていると、いつもの男がやってきた。軽く手を挙げ、見慣れた笑みを浮かべている。
「ほい、いつもの」
そう言って、切り株の上にどさりと布袋を置いた。
彼はギルバード。身分も魔力も低い魔族で、人間たちにまじって行商をやっている男だ。小柄で器量も良くなく、いつも汚れた服を着ている。訳あってひっそりと暮らしているヴァスカのもとに、食料やときどき衣服など、生活必需品をこうして持ってくる。
ヴァスカは礼も言わず、布袋を見やった。
「さて、次も同じのでいいかな?」
ギルバードはいつものこと、と言うように腰に手をあて、ヴァスカを見る。
「……今度は、いつものと、女が使うような物を一式、持ってこい。見合った金はやる」
そう言って、ヴァスカはポケットから金貨の入った袋を取り出し、ギルバードに放った。しかし彼は動かず、呆然とヴァスカを見ていた。袋は落ち葉の上にジャラリと落ちる。その様子にヴァスカは不機嫌そうに眉間に皺をよせ、男を睨む。やがて、ギルバードが喉から声を絞り出した。もともとのだみ声がさらにかすれている。
「お……おいおい、今、なんて言ったよ? お前が、女物?」
ヴァスカは答えなかった。いらいらが募っているのだ。ギルバードは一人で困惑している。
「まさかとは思うけど、女がいるのか?」
その言葉に、ヴァスカは青紫の瞳をギルバードに向けた。ギルバードはひょいと肩をすくめて見せる。
「言われてみれば、お前、なんだか今日は顔色がいいな……そんなにいい女?」
「ギル」
地を這うような低音。ギルバードははっとした。あたりの気温が、確実に、下がっている。踏み込みすぎたらしい。
「いや、すまん。あんまりにも意外だったもんで……いや、いいと思うよ、うん。お前も若いんだし、女の一人や二人、普通だよな」
森の木々がざわめきだした。これも爆弾だったらしい。ギルバードはそそくさとその場を後にした。殺される前に退散だ。
ギルバードの姿と気配が完全に遠のいてから、ヴァスカは肩の力をすっと抜いた。なんだかどっと疲れた気がする。ギルに、娘のことで興味を持たれるのが嫌だった。久々に感情が波立ったのだ、そんな自分に驚く。
足もとを見やれば、切り株の上の布袋が倒れかかっている。金貨の袋はなかった。ギルバードはちゃっかり忘れずに持って行ったらしい。抜け目のない男だ。
ヴァスカは布袋をかついで屋敷に戻った。屋敷とその周りの森の途中までには、結界がはってある。屋敷の存在を知る者、結界の創造主であるヴァスカが許した者以外は結界の存在にすら気付かず、屋敷にたどりつくことはない。膨大な魔力を消費するが、ヴァスカには、それが必要だった。守りのためでも攻めのためでもある。
担いだ布袋を厨房に持っていくと、セルヴィが駆け寄ってきた。
「あっ、今日でしたっけ。ありがとうございます」
ヴァスカから布袋を受け取り、セルヴィはすぐに中身を一通り確認していた。その場を後にして、ヴァスカはやっと自室に戻る。コートを椅子の背に適当にかけ、ソファにどかっと腰を下ろした。いらだちが治まらない。
組んだ手に額を押しつけ、息を吐き出す。いらつき、というより、そこはかとない不安のようだ。
不安? どんな?
それは分からなかった。ただ、ときどき、胸がぐっと締め付けられる。訳が分からない。今までのぬるま湯のような、何もなく平穏な日々はどこに行った。そう思うと、やはりこんどは焦燥がふくれる。
くそ、と小さくもらして、ヴァスカは立ち上がった。クローゼットから、今着ているのと変わり映えしないシャツを取り出し、湯殿に向かった。
頭から水をかぶりたかった。




