父となり、母となり
「ヴァスカ、やっぱり、まだ不安?」
部屋のベッドで体を起こし、大きな腹を撫でながらレイナは問うた。傍らにはヴァスカがおり、心配そうにレイナを見ている。彼女の手をしっかり握っている、その彼の手は、冷たい。
レイナの目を見つめ、しばらく逡巡していたようだが、小さく息をついた。そしてその吐息のように弱々しく呟く。
「……不安、だし、怖いんだ」
ヴァスカはレイナを握る手に力を込めた。
「その子は、俺の魔の血と、レイナの〈白き力〉をその身に集めた子だろう。今まで存在し得なかった〈異形の者〉となるんだ、体に負担が無いはずがない」
ヴァスカが不安がるのも無理はなかった。元来、人型をとる強い魔族は子が少ない。寿命が長いからか、魔力が強すぎるからか、あまり子が出来ないのだ。それに関係するのだろう、魔族と人間の間に生まれた特殊な血を持つヴァスカと、強力な祓い魔の力を持ったレイナの間にも、なかなか子が出来なかった。
子どもは授かりもの、と鷹揚に構えていたが、いざ誕生間近となると、ヴァスカはどんどん恐ろしくなっていったのだ。
「相対する俺たちの力は交わることなど出来るのか、とか、もし無事に生まれてきても、きっと恐ろしく苦しい人生を送ることになるんじゃないか、とか……いろいろ、怖い」
そして、少し言葉を切って、苦しげに最後を吐き出した。
「それに、お前を亡くすかもしれない。それが、一番、怖い……」
「ヴァスカ……」
レイナはたまらず、彼の手を引っ張った。ヴァスカがどうした、と顔を寄せたのを、やわらかい口付けで返す。驚くヴァスカは目を見開いたまま。レイナの顔がそっと離れて行った。重なるだけのキスだったが、それだけで彼は泣きそうな顔をして、そっとレイナの頬を撫でた。
「本当は、私も、不安とか恐怖とかでいっぱいよ」
ぽつりと呟いたあと、しかしレイナはパッと明るく笑ってヴァスカを見た。
「でもね、この子、私のお腹を蹴るのよ! 早く出せって、言ってるみたいに」
「そう、なのか……」
これまで、ヴァスカは頑なにレイナの大きな腹に触れようとしなかった。自分の魔の力が子に何か害を成すのではと恐ろしかったのだ。だから、レイナが嬉々として『腹を蹴る』と教えてくれるのが、どんな感じなのかさっぱり想像がつかない。
「しかも、あなたの声が聞こえると、本当によく動くの。あなたのことが大好きなのよ、きっと」
愛おしげに自分の腹を撫でるレイナを見て、ヴァスカは少し心が痛くなった。
「俺は、また逃げてるだけ、だな……」
ぼんやりとそんなことを言ったなど自分でも気付かぬまま、ヴァスカはレイナの頬を撫でつづけた。
「ヴァスカ、私、怖い思いもあるけど、早くこの子に会いたいの。あなたの子よ。だから、怖いって気持ちも一緒に抱えられるの。怖いって思うのは当たり前だと思う……だって、こんな私たちが子を成すなんて、想像も出来なかったじゃない?」
自分の頬を撫でる手に手を重ね、レイナは笑った。
「大丈夫。だから、この子に、声を聞かせてあげてほしいの。あなたのこと、大好きな、この子に」
「……俺の、声を?」
「ええ。お父さんだよ、って――お前を待ってる、って」
ヴァスカはレイナの目を見つめ、自分の手を見つめた。
それから、恐る恐る、彼女の腹に手を伸ばした。初めて触れる、レイナとの子。冷たかった手は、レイナによってすでに温められた。
そっと触れた瞬間。まずその硬い感触に驚いた。レイナの体は、どこもかしこも綿のように柔らかかった。なのにその腹は張り詰めて、なんだか痛そうだ。
「これ……痛く、ないのか?」
「お腹? うーん、普段は痛くはないよ。すごく蹴られる時は、痛いけど――あっ、動いた!」
「……!」
途端、ヴァスカはぱっと手を離してしまった。レイナはその様子を見て、楽しそうに笑う。
「ヴァスカ、びっくりしすぎ! らしくないよ、あなたはもっと、ふてぶてしくなくちゃ」
「お前な……」
ヴァスカは拗ねているのか照れているのか、少し頬を染め、むっとしている。しかし再びレイナの腹に手を置くと、今度はレイナにではなく、その中の者に声をかけた。
「……聞こえるか? お前の、父親だ」
しかし無反応。
「ふふ。ヴァスカ、そんな怖い声じゃ、この子も怖がっちゃうよ」
少し不安げな瞳でレイナを見上げ、ヴァスカはもう一度、まだ見ぬ赤ん坊に話しかけた。
「今まで気にかけてやらなくて、すまなかった。でも、本当はずっと、お前を待っていたんだと、思う」
レイナの手が重なったことに勇気を得て、ヴァスカは続けた。
「俺が父親だなんて信じられないけど、でも、俺の出来得る全てのことをやって、お前を守り愛し抜く覚悟は、ある。だから、安心して出てきてほしい……俺たちに元気な顔を、見せてほしい。頼む」
するとその時、ぐにゃり、とレイナの腹がうごめいた。ヴァスカはぎょっとして手を浮かせかけたが、レイナがそれを優しく制す。外から見てもはっきりと分かる。この大きく膨らんだ腹の中に、確実に、何かが――否、我が子がいる、その様子を、ヴァスカはやはり不思議な思いで見つめた。
「ふふ、ほんとに元気……」
「よく……動くんだな、こんなにだとは、思わなかった」
じっと見ていると、本当に怖いくらいに動く。腹の形がどんどん変わっていく。
「やっと僕を見てくれた、って、喜んでるわ」
「……男、なのか?」
「うん、そんな気がするの。ただのオンナの勘だけど」
「レイナの勘は侮れないからな。男の名前、考えとくか」
そのヴァスカの言葉に返事するように、レイナの中から一際強く、ポコンと手を蹴り上げられ、ヴァスカは笑った。
「間違いない、男だな」
清々しい表情で笑う夫を見て、レイナは、まぶしそうに目を細めた。
彼の顔が、その時、本当の父親になった気がした。
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後日、元気な男の子が産声を上げた。
汗だくになって眠そうに微笑むレイナの頭を撫でていると、町から呼んだ産婆が現れ布のかたまりをそっとヴァスカに抱かせた。真っ白の御包みに埋もれる顔を見て、赤いから赤ん坊と言うのだな、などとヴァスカはしみじみと思った。
「ね、顔を見せて」
レイナのかすれた声に我に返り、彼女の体を起こし背にクッションを挟んでやった。二人で待望の我が子を覗き込む。
生まれたての赤子は湯浴みを済ませ、目をつぶっていた。しかしふと思い出したように開けられた、その目を見て。ヴァスカはハッとした。その目は綺麗なミントグリーンだった。レイナの色。
突然、胸が詰まった。訳の分からないものがこみ上げて、視界が滲む。レイナの指が頬に触れ、彼女も同じように泣いているのを見て、たまらなく愛しくなった。濡れる頬にキスを落とす、何度も、何度も。
「ありがとう、レイナ。俺たちの子だ」
二人で泣き笑いをして、そして改めて赤子を見つめる。
ヴァスカはそっと呟いた。
はじめまして、待っていたよ、ローウェル――