イデラVSレイナ
イデラはアディントン公爵家の子。
秘めたる想いを胸に、彼を見守っていた。
――ジェフリー様は、変わってしまわれた。
国内が国王暗殺未遂事件や魔物襲撃の多発などで騒がしくなりはじめた頃だった。明るく素直だった彼は、どこか、思い悩むことが多くなった。はじめは、心やさしい彼のこと、国民がこの治世に不安を抱えている現状を憂いているのだと思っていた。しかし、それもどうやら違う。いつものように積極的に改善への行動を起こすのではなく、自分の殻に閉じこもって鬱々と考え込んでいるのだ。そして、それを周囲に悟られないようにしている。
しかしイデラには、そんな彼の小さな変化も分かってしまうのだ。なぜなら、ずっと、彼を見つめ続けてきたから。彼は知らないだろう。イデラの、小さな胸に宿る熱い思いなど……。
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イデラは、アディントン公爵家の長女である。年の近い兄と弟に挟まれ、さっぱりとした性格に育った。他二つの公爵家には年頃の娘がいないので、身分も歳も王太子ジェフリーに釣り合うのはイデラだけだ。周囲の者たちも、イデラ自身も、漠然と、自分が未来の王妃になることを受け入れていた。
ジェフリーとは幼馴染として一緒に育ってきて、仲が良い。色めいた雰囲気は二人の間に存在しなかったが、兄弟のような親愛があった。やがて年頃になると、お互いの立場も変わってあまり頻繁には会わなくなった。イデラは王太子妃の有力候補としての教育を叩きこまれ、ジェフリーは王太子としての力をつけていった。
二人の将来は貴族の間では暗黙の了解であったのだが、公に認められていたわけではなかった。そのため、いつまで経っても結婚へ動き出す素振りの見せない王族に、貴族たちは噂しはじめた。年々勢力が強くなり、その発言力も大きいアディントン家と、王家の不仲説が流れたのだ。ただ事実としては、「不仲」というより王家は全くの「無関心」であった。
会えない期間と心無い噂に、悲しくもイデラはようやく自分自身の気持ちに気付かされた。今まで、周囲の頼りない噂話の上に胡坐をかいて、ジェフリーとの関係を疑ったことなどなかった。なんとなく、結婚するのだろうな、としか考えていなかったのだ。しかしいざ、こうして離れてみて、なんの興味も示されないことに途轍もない寂しさを感じているのだった。嫌われてはいなかったはずだ。しかし異性として愛されていないのに、“なんとなく”で一緒になることほど、お互いに不幸なことなどない。
初めて気付かされて、そして、そんな自分を恥じた。イデラには、これ以上を求める術も、力もない。その代わりに、彼を全力で支え続けようと決めたのだった。
そうしているうちに、彼はどうやら恋をしたようだった。
噂では、もうじき王家から公式に“婚約者”の発表がされるだろうと言われていた。それが、あまり社交界好きではない国王が開いた、不自然な時期の舞踏会。そして、貴族たちの注目が集まるその日。国王暗殺未遂という恐ろしい事件が世を震撼させた。犯人だと発表されたのは、ハーシェル侯爵家の少女。ハーシェル家の屋敷は燃やされ、少女の父である侯爵と弟は処刑された。しかし犯人である少女は逃げ、捕まらなかった。
少女が逃げ続けていると知り、ジェフリーもだんだんと憔悴していった。そこでイデラは気付いたのだ。その少女こそ、ジェフリーの想い人だったに違いない、と。確証はないが、女の勘ってやつだ。彼は国を挙げて捜索される暗殺未遂犯を未だ信じ、心を削っている。
誰も味方がいないなら、私だけは、彼のそばにいてあげよう。それだけが、二人の関係を怠惰にしたイデラに許された、見えない救いの手の差し伸べ方だった。
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数年後、事態は急転した。
国王に再び暗殺の手が伸びたのだ。しかも、それを救ったのがかつての暗殺未遂犯である、ハーシェル家の少女。国からの発表は呆気ないものだった。前回の暗殺未遂事件で追われていた少女は実は犯人ではなく、真犯人を阻止すべく動いた結果、罪をなすりつけられてしまった悲劇のヒロインだと言うのだ。国は彼女に謝罪し、爵位を返上。〈誇り高き女神〉などという異名で以って神格化し、国民的地位まで与えた。
イデラは怒った。この数年のジェフリーの心労は、こうも呆気なく“解決”されてしまうものなのか。〈誇り高き女神〉とやらは、彼の苦しみを理解しているのか。これで万事解決だと、その少女が鼻高々にふんぞり返っていようものなら、イデラはアディントン公爵家の裏の力でもなんでも使って、彼女を貶める心づもりでいた。このまま彼女が、何事もなかったようにジェフリーと結ばれるなど、どうしても許せなかった。個人的な我儘なのは分かっていたが、イデラは自分の怒りを止められなかった。
しかし、事実はイデラをもっと憤慨させるものだった。少女は自身の想い人と結ばれるというのだ! ジェフリーの思いを散々惹きつけておいて、刃で以って返すなど! さらにジェフリーは、あろうことか、イデラに求婚してきた。あんなにも望んでいた申し出が、こんな形で示されるなんて……。イデラは、心から血が出る思いだった。
しかしいくら幼馴染とは言え、相手は王太子。アディントンの名を背負う身として、喜んで受けはしても断ることなど出来るはずもない。イエス以外の答えを持てないイデラは、彼の伴侶となることとなった。しかしイデラは、彼の少女への想いの後釜に収まる気などなかった。彼の隣を“お下がり”のように預かることも、少女のことも、さらにジェフリーの甘く残酷な選択も、何もかも。ただ受け入れるには辛い出来事だった。
そんなある日、ジェフリーとイデラの二人に、謁見願いがあった。〈誇り高き女神〉――レイナ・ローズクレア・ハーシェルからだった。
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「面を上げよ」
イデラの隣に座るジェフリーが厳かな声で告げると、娘がゆっくりと顔を上げた。驚くことに、娘の髪は少年のように短かった。それを恥じる様子もない。そんな彼女を、愛おしそうな目で眺めるジェフリーの姿に胸がむかむかする。
「よく、来てくれたね」
その優しい声が、イデラの心を焼き焦がすようだった。――そんなに愛おしそうな声を、彼女にかけるのね……。
ジェフリーは、もはや、王太子としての仮面をかぶっていなかった。まるで昔、イデラと二人で遊んでいた時のような、自然な気安さが滲み出ている。
「イデラとは初めてだろう? 二人は気が合うと思うんだけど、どうかな」
するとレイナは、再びするりと頭を下げた。
「恐れ多くも。王太子妃殿下、御目文字叶い、光栄です。レイナ・ローズクレア・ハーシェルと申します」
「イデラ・リネット・アディントン=エスニフです」
イデラはそれしか言わなかった。ジェフリーは困ったように笑って、二人を交互に見やる。しばらく、レイナはじっと頭を下げたまま動かなかった。イデラもそれ以上の声をかけない。
やがて、レイナは許可を待たず自分から頭を上げた。そしてまっすぐにジェフリーを見る。
「ジェフリー様、申し訳ございません。王太子妃殿下と、二人きりにして頂けないでしょうか……。無理なお願いなのは承知しております。ですが、どうか」
イデラは驚くと同時に心の中でほくそ笑んだ。
(ほうら、化けの皮をはがしてやるわよ、女神様)
ジェフリーは少し悩んだ後に、分かった、と言って席を外した。謁見室にいた近衛も引き払い、静寂が耳に痛いほどだった。先に口火を切ったのは、イデラ。
「さて、レイナ様。いったい何をお考えかしら?」
イデラの怒りをたたえた瞳はさながら緑の炎だ。レイナの出方を伺いつつ、じっくりと獲物を追い詰めるつもりだった。これ以上ジェフリーの周りを飛び回ることのないように、しっかり遠ざけなくてはならない。
レイナはじっと、そんなイデラを見つめた。しばらく無言で対峙していた二人だったが、やがて、レイナがゆっくりとその場に膝をついた。
「王太子妃殿下、あなた様のお怒りはもっともでございます。私もただただ謝罪したく、ここまで参りました。しかし、私が頭を下げることは、あなた様を更に傷つけるだけでなんの解決にもなりはしないでしょう」
イデラはちょっと身を引いた。彼女の瞳が、あまりに真摯で、澄んでいたからだ。予想していたよりずっとはっきりとした物言いで、腹の底に一本、驚くほどに強い芯を持った女性だった。これは一筋縄ではいかない、と、イデラも腹をくくり直す。
「では、あなたは一体この私に何を致すというのかしら?」
王太子妃として、下手に出ることは絶対にしてはいけない。イデラが身分の低いものに侮られることは、そのまま王太子の評判へとつながっていく。ツンと顎を上げ、レイナを見下ろした。しかしレイナもひるまない。
「全てを、告白致します」
「……全てを、告白?」
「はい。そのご様子ですと、王太子殿下から何もお聞きではないと、お見受け致しますゆえ」
イデラの頬がカッと染まる。――この娘、王太子妃である私を平然と挑発するとは! しかしここで怒鳴り散らしては相手の思う壺である。ぐっと怒りを抑え、イデラは答えた。
「そうですわね。殿下は思慮深いお方……私に言いかねていらっしゃることも、多くあるように思います。それを、あなたが話してくれると?」
「はい。――お気づきだとは思いますが、数年前、私とジェフリー様はお互いを想い合う仲でございました」
グサリと、心臓に杭が打たれた。レイナはそれに気付いているのかどうか、イデラには分からなかったが、とにかく彼女はスラスラと喋りはじめた。
「噂はあったと思います。王太子殿下には意中の人がいるらしい、と。それが私でした。そしてお披露目かと思われた舞踏会の夜、事件が起きたのです。私は国から追われる身となりました。逃亡生活の間も、ジェフリー様を忘れた事などありませんでしたよ。いつでも、あの方の穏やかな笑顔が私の生きる力でした。ジェフリー様はお優しい方です。私を疑いきれず、辛い思いをしてらっしゃるだろうと思っておりました。しかし私の存在があっても消えても、もはや御慰めすることの出来ぬ身の上では、どうすることも出来ず。そんな中で、私は一人の男性を愛しました。そして初めて気付いたのです。私とジェフリー様が、お互いに抱いていた想いは決して嘘ではないけれど、でも、それはどちらかというと、兄弟の親愛に近いものだった、と。つまり本当の意味で――男女の仲かと聞かれれば、否です」
イデラは沈黙した。この娘は、普通の子女ならば恥とするような男女の話を臆面もなくする。どう答えればいいものか、分からなかったのだ。
「しかし、私がジェフリー様を苦しませたのもまた事実。きっと妃殿下は、私を身持ちの悪い女とお思いでしょう。ごもっともです。そう思われても致し方のないことを、私はしたのですから。それなのにジェフリー様は、そんな私と相手の未来さえ祝福してくださいました。だから私は、ジェフリー様に決して恥じることの無いよう、夫を愛し抜く覚悟です。私が幸せであることで、私を責めるのは当然です。ですが、妃殿下、ジェフリー様を責めるのは、妃殿下ご自身の保身でしかない。――あなた様に、ジェフリー様を愛す覚悟はおありですか?」
「なっ……んですって?!」
イデラは玉座をガタンと鳴らし立ち上がった。しかしレイナは動じない。少しも揺るがなかった。
「ジェフリー様は、あなたを本当に愛してらっしゃる。だから辛抱強く、強要せずに、待っているのです。あなたが、王太子を愛するという、大きな覚悟を決めるのを」
「なんと、無礼な! 何を知って、そんなことを申すのかしら? 私は殿下をお慕いしています。それこそ、あなたなどが現れるずうっと前から、殿下を愛してきました!」
「ではなぜ、その方と結ばれたはずなのに、そのようにお辛そうなのです」
「辛い、ですって……いいえ、私は……!」
「傷付かないようにご自分を守るのに精一杯で、妃殿下には、ジェフリー様の本当の気持ちが見えていないのではないですか。ジェフリー様は、愛してもいない女性と結婚するほど、冷めた方でしょうか。自分の気持ちを偽ってまで他の女性を側に置けるほど、器用な方でしょうか。――そんなこと、私よりもずっと長い間ジェフリー様を支えていらした妃殿下なら、言われるまでもなく、ご存じではないのですか」
「……!」
「私という邪魔者が入り込む隙間もないほど、ジェフリー様と妃殿下は、固く結ばれておいでです。だからどうか怖がらずに、ジェフリー様と、思いっきりぶつかってください」
レイナが平伏した途端。
謁見室に大きな泣き声が響いた。近衛兵が大慌てで駆け付け、すぐあとをジェフリーが続く。玉座の前で泣き崩れる妻を抱き起こし、ジェフリーはそっと抱きしめた。イデラは赤子のように声を上げて、彼の腕の中で枯れるまで涙を流した。
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「今思えば、あなたの第一印象って最悪よ」
「イデラ様、お願いです、その時のことは……」
「元はと言えばあなたのせいなのに、自分のことはすっかり棚に上げて“覚悟はおありか!”なんて、私を責めるんだから。まったく、王太子妃相手に啖呵切って終いには号泣させて、下手したら斬首モンよ、ほんとに」
「親子ですわね、お母さま。私も、小さい時はずっとレイナ様のことが気に入らなかったのよ」
「ス、スカーレット様まで……」
「でも、私も“レイナ式洗礼”を受けて、改心致しましたわ」
「効くわよねえ、レイナの洗礼。そしてみーんな、レイナのことが好きになっちゃうから不思議よねえ」
「ええ、本当に。その代表格はヴァスカ様じゃない? なんだかもう、レイナ様に忠誠を誓う騎士って感じ!」
「分かるわあ! クールで、じっと状況を観察してて、それでいてレイナのピンチにはさっそうと現れる! 余裕そうな、ちょっと冷めた感じがツボね!」
キャッキャと盛り上がる王妃と王女親子に、レイナは微笑んだ。
ヴァスカと夫婦になり、15年以上が経とうとしていた。幸せすぎて怖いくらい、世の中は平和で、穏やかである――。
★補足★
元国王(ジェフリーの父王)が殺され、それに魔族であるゼデキアが成り代わっていた、という事実は、レイナ・ヴァスカ・ジェフリー・セルヴィ、4人だけしか知りません。