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51.想い人

 しばらくヴァスカの成すがままになっていると、ぽつりと、くぐもった声が聞こえてきた。

「本当に、お前には、かなわない……」

 ゼデキアだった。顔を覆った手を離すと、彼の頬は涙で濡れていて、血と汚れがその通り道で洗い流されている。

「目が覚めた? ゼデキア」

 そんなふうに、レイナは尋ねた。まるで朝、弟を起こしに来たかのような軽やかさで。

 一瞬切なそうに目を眇めたが、ゼデキアはすぐに、らしい(・・・)不敵な笑みを浮かべた。それを見たヴァスカが警戒を強くし、レイナをぱっと自分の後ろに隠す。

「なに、そう気張るな。こうなって暴れ出すほど、俺も堕ちちゃいない」

 そう言って立ち上がると、ふらふらと壊れかけた椅子に腰かけた。重いため息をつく。ヴァスカは警戒心を隠すこともせず、じっとゼデキアの動向を目で追った。

「思えば、なんと、子どもじみた……」

 ゼデキアは額に手を当て、深い悔恨の思いでいた。

「レイナ、俺は――」

「レイナっ!」

 そこに、二つの人影が走り込んできた。一つはジェフリー、その後を追いかけるのがセルヴィだった。

「ジェフリー様……」

「ああ、レイナ、無事で……」

 ヴァスカのことなど見えていないらしい青年は、周りなどお構いなしにレイナを優しく抱きしめた。ヴァスカはすっと、その二人から距離を置く。そこにセルヴィが寄り添うように隣に立った。ヴァスカの指先を遠慮がちに握り、泣きそうな顔でこちらを見上げている。ヴァスカは、無理に微笑みを浮かべて見せた。

 セルヴィは、ぼんやりとレイナとジェフリーを見るゼデキアを、観察する。その表情は痛ましいくらいに悲しげだ。レイナは、セルヴィの想いを果たしてくれたのだ。ヴァスカを止め、ゼデキアを治めた。

「ジェフリー」

 小さいが、しかしその声ははっきりと彼らに届いただろう。ジェフリーは声の主を振り返り、立ち上がった。その目には意志が強く輝いている。ヴァスカは思った。ああ、こいつは、レイナと同じ種類の人間だ、と。

「父上……いいえ、あなたは……なんとお呼びすれば?」

「そうだな。……俺は、名をゼデキアという」

「ゼデキア……あなたは、私の父ではない。何者ですか?」

 そうして、ゼデキアは迷うことなく話し出した。己が魔族であること。ジェフリーとレイナが出会うよりも前、当時の国王――つまりジェフリーの実父を殺め、その座に収まったこと。レイナに行った、非道の数々。魔族としての自分の過去と現在に至るまで……。

 ジェフリーは一度も口を挟まず、頷きもせず、じっとその話を聞いていた。ゼデキアが話終えると、ぽつりとつぶやいた。

「私は、自分が情けない……」

 レイナを振り返り、それからゼデキアの前まで行き、うなだれた。

「一国の王の子でありながら、その父の死を知ることもなくのうのうと、ただ穏やかに生きてきた。その間にも、破綻してもおかしくないこの国は、さらに豊かに、平和になった。――それは、紛れもなく、あなたのおかげだ。認めたくないし、悔しいが、感謝せずになぜ王の子などと言えよう」

 ジェフリーはゼデキアの足元に膝をつき、頭を垂れた。

「この国を生かしてくださって、感謝します」

 ゼデキアは頭を振り、ジェフリーの肩に触れた。

「俺が何を言おうと、お前が何をしようと、お互いにやり切れぬはず。俺は憎まれて当然のことをしたし、それを正当化する気も弁解する気もない。俺の処遇は、お前の好きに決めてくれ」

 ジェフリーは立ち上がり、深呼吸したかと思ったら、突然、拳でゼデキアの頬を打った。大きな体が椅子から飛び、床に落ちる。ゼデキアは黙々と体を起こし、鼻から垂れる血を拭いもせずその場に座り直した。首を差し出す、罪人のように。

 ジェフリーは、彼と同じ位置まで体をかがめ、ゼデキアの顔を覗き込んだ。ゼデキアは何も言わず、目を伏せる。

「この国を豊かにしたのもあなただが、亀裂を生んだのもあなただ。すべてのことを解決するまでは、引きずってでも、王の玉座に据え置きますよ」

 驚いてゼデキアが顔を上げると、ジェフリーは凄絶な笑みを浮かべて言った。

「国王としてのあなたが起こした問題と矛盾は、国王として、全力でもって解決してください。そしてすべてが落ち着いたら、私に譲位し、しばらく経ったあとで死んだことにして、この世界を去ってください」

 それだけ言い、彼はゼデキアに背を向けた。これ以上言うことはない、といった風に。

「ジェフリー様、あの、……」

 そしてレイナの許へ戻ってくると、そっと、その頬を包みこんだ。レイナには、彼に言わなくてはいけないことがある。しかし言い淀むレイナを見て、ジェフリーは切なそうに、眉を下げた。

「レイナ、君は……美しくなった。悔しいね」

「え……?」

「分かっていたよ、君が私のことを本当に愛していてくれたことも、でも、どこか、引け目を感じていたことも」

 レイナははっとして息を飲んだ。彼は、レイナに話す機会を与えてくれているのだ。気持ちが鈍らないうちに言わなければ、本当に、この大切な人をもっと傷つける。

「ジェフリー様……申し訳ありません。黙って行方をくらまし、あなたに長い間、心労をかけました。そして、その間に、私の……あなたへの思いも、変わって、しまったんです――」

 ぽろぽろと涙を流すレイナを、ジェフリーは黙って微笑んで見ている。すべて分かっているよ、と言うように。

「私、あなたに愛を誓ったはずなのに、違うひとと、添い遂げたいと……願うようになりました。あなたはずっと、私を待ってくださっていたのに、私は……あなたの気持ちを裏切りました。ジェフリー様、どうぞ、私の罪を断ってくださいませ……!」

 そうして頭を垂れるレイナを、ジェフリーは優しく抱き起こした。

「君まで、私にそんなことを言わないでくれ。私は怒ってなどいない。言っただろう? ただ、悔しいんだ。君が私に想いを寄せてくれていたのは知っていた、でも、あと一歩のところで“親愛”の域を出なかったことも分かってる。私は君にとって“男”になりきれなかった。だから……君が今、こんなに美しくなって再び私の前に現れて、悔しいけど、嬉しくもあるんだよ。巣立つ娘を送りだすっていうのは、こういう感じなのかな。自分でもびっくりするくらい、晴れやかな気持ちなんだ」

 ジェフリーは、本当に穏やかに、優しく、レイナを抱きしめた。

「これが最後の抱擁だ。君には私の腕の中でなく、帰るべき場所がある」

 そしてそっとレイナを立たせると、くるりとヴァスカたちのほうへ体の向きを変えてやった。

「……お名前を伺っても?」

 ジェフリーの視線は、まっすぐヴァスカに注がれている。ヴァスカは無表情で答えた。

「ヴァスカだ」

 ふっと、笑みをこぼし、ジェフリーはレイナの手を取ってヴァスカの前に歩み出た。そしてレイナの手を優しく持ち上げ、彼に差し出す。

「――ヴァスカ殿。私の大切なレイナを、あなたに託します。くれぐれも、大切に。どうか……」

 そっとレイナの手を受け取り、ヴァスカは彼女を引き寄せた。自分の胸にしっかりと抱きしめて、頷く。

「約束しよう」

 ジェフリーは嬉しそうに、でもほんの欠片の寂しさをにじませて、明るく笑った。月の浮かぶ夜に、暁が来たかのようなあたたかさだった。

 そのまま彼は部屋を後にした。その背中にはなんの迷いも気負いもなく、ヴァスカにはまぶしく、羨ましいくらいに魅力的な男に見えた。

 レイナはヴァスカの胸で泣いている。

 どれくらい、そのまま立っていただろうか。気付けば荒れた部屋には二人だけ。セルヴィもゼデキアも、いつの間にか姿を消していた。

 細い肩が震えながら、それでも確かに、ヴァスカの腕の中にある。彼女の顔は胸に押し付けられてよく見えない。もう泣き声はしないが、笑っているわけでもないだろう。

「レイナ」

 ヴァスカが、彼女を呼ぶ。

 レイナは躊躇いがちに、そっと、顔を上げた。涙は止まっていたが、ミントグリーンの瞳は潤んで今宵の星空のように輝いている。なめらかな頬に手をすべらせ、その存在を確かめる。琥珀の髪が肩から滑り落ちて甘やかな香りを空気に滲ませた。

「レイナ。俺はお前を傷つけてきたし、これからも、たくさん悲しませるかもしれない。だけど、俺には、お前が必要なんだ……お前に救われて、ここまで来た。今思えば、初めて宵闇で見た時………いや、それはいい――ああ、くそっ、こんなときにどんな言葉を言えばいいのか、分からないような男なんだ、俺は。お前の望むようなことはなんにも、与えてやれないかもしれない。普通の暮らしとか、普通のやり方とか、俺にはなんにも分からん。――だけど、」

 ヴァスカはそっと、レイナの頬を包み込んだ。

「だけど、俺はお前が好きだ。お前に傍にいてほしい。お前が、大切なんだ」

 またレイナの涙が頬に伝う。ヴァスカはただ必死に、言葉を紡いだ。

「俺と、これからを、生きてくれ、レイナ」

 ヴァスカの紫紺が不安げに揺れる。レイナは自分の頬を温める彼の手に、自分のそれを添えた。

「嬉しい、ヴァスカ。私も……あなたの傍で、あなたと、生きたい。あなたが好き――」



 夜空に浮かぶ、まん丸の月。照らし出された影がふたつ、ゆっくりと、優しく重なり――溶けあった。





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