48.閃き
時が止まった。
ただ、沈黙が下りる。傷を押さえるレイナの指が、かすかに震えた。当然ヴァスカはそれをしっかりと感じる。
「くそ、ったれ……」
ヴァスカは小さく呻いた。怖がっていなかったと言ったら嘘だ。彼女をこれ以上ないほど苦しませた男と同じ血が、自分には流れている。それを知ったら、もしかしたら……
「ヴァスカと、あなたの父親は、同じ人ってこと……?」
レイナはもう一度、ヴァスカの傷を強く押さえ直して、ゼデキアの方を見ずにようやく尋ねた。それに答えるゼデキアの声はあくまでも楽しげだ。
「その通り。ヴァスカは時の宰相が人間の女に孕ませた、不運な双子の片割れさ。そして俺は、こいつらが産まれるまで、宰相にとって唯一の子で後継者だった。つまりこいつらの腹違いの兄になる」
レイナの手の震えは止まっていた。ヴァスカは開く方の目でレイナを見上げたが、髪の影になってその表情はよく見えない。
彼女が怒って、憎んで、俺を殺すならそれも良いだろう……、ヴァスカはそう思った。ゼデキアはそれを期待している。楽しそうに輝く目で二人の成り行きを見ている。奴の筋書き通りになるのは癪だが、ヴァスカにとって、この戦いは彼女を手に入れる戦いでもあった。それを成すことができないのなら、いっそ、その手で死ぬのもいいかもしれない……。
彼女がヴァスカを殺したそのあと、自分を殺しにくるだろう娘を、ゼデキアはどうするだろうか。彼女はきっと、この一件が終わったら死の道を行く、そんな気がした。ゼデキアに殺されるか、それとも、奴を殺して、自ら死ぬか。死んだ自分の魂がどこに行くのかは分からないが、彼女はせめて、安らかな天へと昇って欲しいと思う。
覚悟を決めた。ヴァスカは、薄く唇に笑みを作り、目を閉じた。自分はどうなろうと構わない、ただ、彼女の望むようになればいいと、慣れない祈りを捧げるだけ――
そう思ったとき、優しい息遣いが聞こえた。
「馬鹿ね、ヴァスカ」
はっとして目を開けると、娘は鼻がつきそうなくらい近く、ヴァスカに顔を寄せていた。彼女の長い琥珀の髪が二人だけの世界を切り取るように囲っている。ミントグリーンの瞳は濡れ、渇いた唇から、ヴァスカにだけ聞こえるような小さな声がこぼれる。
「私があなたを殺すと思った? 変な覚悟を決めないで……決めるなら、何があっても、生きるほうの覚悟にして」
ヴァスカが、驚き固まっていると、彼女は、ぱっと顔を上げた。ゼデキアを見上げる。
「ゼデキア、あなたが何を望んでいるか、分かったわ」
「……そりゃ、聡いことだ」
ゼデキアはまだ余裕の笑みを浮かべている。しかし、レイナの次の言葉で表情を変えた。
「あなたのこと……あなたの、苦しみの原因が、やっと分かった……」
レイナはまるで、それを知りたかったのだ、というような晴れやかな顔だった。ゼデキアの怒りがゆっくりと膨れ上がる。
「その顔をやめろと言ったはずだ、偽善者め! 俺が、魔族が! 憎いだろう! 怒れ! 喚け! 泣いて、暴れて、無様にすがって見せろッ!!」
激昂するゼデキアが炎なら、対するレイナは水だった。
「まさか、想い人を自分の父親に奪われるとは、誰も思わないわよね……しかも子どもまで産まれて、お父さんは、その子らとその人を愛していたんだものね? 彼が愛しているなら、それを奪い返すことは出来ないって、思った……権力でも愛の強さでも、引け目を負っていたから。……ッ!」
ゼデキアがレイナの側頭を打った。ヴァスカは衝撃で弾かれて二人から離れてしまう。しかしレイナは無言で起き上がり、凛とゼデキアを見上げて続ける。こめかみから血が流れ、レイナの頬を伝った。
「お父さんが、ヴァスカたち一家を何とも思っていなかったら何も苦しむことはなく殺せた。だけど違った。歪んだ愛でも、ヴァスカたちは誰かしらを愛し愛されていたから。きっと嫉妬もあったかしら? 父親に認められようとして努力していたのに、突然奪われた愛しい人と父親との間にできた子どもたちは、なんの努力もせずに、父親の愛を無償で浴びていたから。あなたは、父親からの愛も、恋した人も奪われてしまって、混乱して腹が立って、自分はここだ、自分を見ろって、言いたかった。そうでしょう?」
「――黙れえェェッ!!」
思い切り蹴られた。嫌な音がして、レイナの肩に激痛が走る。左肩から先の感覚がなかった。脱臼したか、神経でも切れたかもしれない。それでもレイナは怯まなかった。片腕だけでなんとか身体を起こし、ゼデキアに対峙する。ゼデキアのほうが押されていた。ただ、レイナの言葉を聞いているだけなのに、息が上がっている。
「こっちに来たのは、ヴァスカたちを追いかけてきただけじゃないのよね? 本当は、自分が魔界で存在するという重圧に苦しくなった。少し、息抜きをしたくなった……」
「おいっ! もうやめろ!」
たまらず叫ぶヴァスカ。レイナを止めようと、ふらふらと立ち上がる。しかしレイナはヴァスカを見て、ふっと優しく笑った。ヴァスカは驚いて歩みを止める。レイナは、微笑んだまま、頷いた。これは私の役割だ、と言っている。そのあまりの穏やかさに、ヴァスカは動けなくなってしまった。まるで金縛りにあったように。
レイナはもう一度頷くと、ゼデキアを見つめ、再び口を開く。
「人間界で王になって、周りにかしずかれて、楽しかったでしょう。その嬉しさを引き延ばしたくて、ずっと、ヴァスカたちを探すのに手を抜いていた。目的を完遂してしまったら、人間界にいる理由がなくなってしまうから……。あなたにとって、ここの生活は最高だった。みんながあなたを見て、あなたを求め尊敬して、あなたを認めてくれる――」
「黙れ!」
ゼデキアはついにレイナに飛びかかった。
「黙れ! 黙れ! 黙れぇええぇぇ――!!!」
両手でレイナの首を掴む。爪が食い込んで血が流れた。ゼデキアの目は血走って、レイナは、それでも、彼から絶対に目を逸らさなかった。ゼデキアはさらに混乱と怒りに狂う。ヴァスカも我に返った。
(俺は、何をっ……!)
勇敢に戦った彼女が殺される……!
ヴァスカが床を蹴ったのと、ゼデキアの絶叫はほぼ同時だった。
「俺を、見るなああああああああああ!!!」
その、恐慌の部屋に。
「父上、お許しを!!」
一つの影が飛び込んだ。
一閃の光。
同時に血が散った。
ヴァスカは、その時、唐突に理解した。何の疑いもなく、はっきりと。
そうか、これが。レイナの愛した――
「――ジェフリー」
血で濡れる剣を構え、影が顔を上げた。彼の、蒼白の顔が月明かりに浮かび上がった。