43.生きた聖杯
後半、ちょっと痛そうな表現があります。
ご注意ください。
レイナがゼデキアに捕まったその日、レイナは泥のように眠った。その次の日、目を覚まし体を起こすと重い頭がズキズキと痛んだ。泣きながら眠ったからだろうか。
「お早いお目覚めで、お姫様」
「っ!」
気配を一切感じなかった。レイナが後ろを振り返ると、彼はベッドに腰掛けていた。広いベッドの反対側、不快な笑みを浮かべている。朝からそんなものを見せられて、レイナの頭痛が強くなった。
「いつからここにいたの」
「お前の寝顔を、たっぷり眺められるくらい前には」
ますます気分が悪い。レイナは遠慮なく顔をしかめた。
「まったく、いい顔をする。そういう態度は、俺を煽るだけだぞ?」
そう言うと、ゼデキアはゆっくりとレイナに近づいてきた。はっとしてベッドから下りたところで、自分の脚についている鎖にからまり床に転がってしまった。ゼデキアは容赦なく、彼女をそのまま組み敷いた。
「お前は、俺にその血を捧げる聖杯だ。生意気も赦そう。しかし、そんな態度もいつまでもつかな……」
そう言いながら、ゆっくりと唇をレイナの首に寄せる。必死に暴れるがそんなものは無意味で。〈白き力〉は発する前に奴の魔力に相殺された。
プツリ、と肌が破れる。続いて唇がそこを吸い上げた。
ヴァスカと同じ行為なのに、違う。あのときはいつも、与えられる快感と残った理性がせめぎ合っていた。今は反応するカラダがない。ただただ、嫌悪感だけが広がる。粟立つ肌もゼデキアには嗜虐心を煽る要因でしかないらしい。レイナが嫌がると彼はもっと喜ぶだけだ。レイナはひたすら静かに、行為が終わるのを待った。
「ずいぶんと大人しくなったもんだ」
唇を離し、“食事”を終えたらしいゼデキアがせせら笑う。
「時間が空いたら、また来る」
ご機嫌にそう言い残し、彼は仮眠室から出て行った。ゼデキアが出て行って、扉が閉まった途端、レイナは自分の首をごしごしと擦った。塞ぎきってない傷口からはまた血がにじんだが、そんなことはどうでもいい。憎い男に自分の体を好きにされているというこの事実が、レイナには屈辱だった。
手首の鎖だけはいつの間にかはずされていて、残った足の鎖も、唯一の出入り口の扉以外は、仮眠室にある風呂場からトイレまで、どこも難なく届く長さであった。レイナはジャラジャラと鎖を引きずりながら、洗面所に向かった。首を水で洗い、ふと、鏡に映る自分を見た。ひどい顔をしている。憎しみに囚われて、醜い――。
ゼデキアが憎い。忌々しい。悔しい。ぼろぼろと涙があふれた。ゆっくりと、自分が堕ちて行くのが分かるのだ。かつての逃亡生活の時と似て、醜い負の感情だけに突き動かされ、あたたかな感情を忘れてしまう。ヴァスカの屋敷に連れて来られてからは、だんだんと、心安らぐ時間のおかげで人間らしさを取り戻せたのに。
(このまま、父さまとロビンの仇を討つこともできず、ジェフリー様を人質にとられ、尊厳を蹂躙される人生を終えるのかしら……)
魔族の一生は長い。レイナがもし寿命を迎えることになっても、ゼデキアはきっと今のままの若い姿でいるだろう。
そのとき、ふと、ヴァスカのことが思い出された。彼もまた長い一生を歩んでいるのだろう。いったいこれまでに、レイナの知らない過去をどれくらい生きてきて、そして、レイナが死したのち、どれくらいこの世界を見つめ続けるのだろうか。そのときは、セルヴィもそばにいてあげてほしい。彼には、もう、独りの苦しみを味わってほしくない――。
ヴァスカのことを想うだけで、レイナは少し救われた気がした。心のどこかで彼が助けに来てくれるのを期待している自分がいるのも、同時にここにやってきて痛めつけられる姿を見たくないのも、事実だった。ゼデキアは、強い。想像をはるかに超えて、彼は強大な敵だった。レイナ一人では、このままでは本当に生け捕り状態が続くだろう。
(……どうしようもないことばかり考えていたら、だめね。出来ることを考えなくちゃ……)
レイナはふと、浴室があるのを見て、湯を浴びることにした。
浴室は、仮眠室についているものとは思えないほど豪華で、金の装飾がキラキラと輝くので少し落ち着かない。しかし、金の蛇口をひねるとすぐに熱い湯が降り注ぎ、レイナはほうと重い息を吐き出した。さすがに疲れがたまっていた。シャワーを浴びながら、浴槽にもお湯を張る。お湯に入れるための赤みがかった塩があったので、遠慮なくそれを入れて溶かす。ハーブも混ぜてあり、湯気とともにふわりと立ち上った匂いにセルヴィの薬草を思い出し、鼻の奥がツンと痛んだ。それを紛らわすように、レイナは石鹸で髪も体も丁寧に洗った。特に首は、何度洗っても足りない。吸血の、鬱血の痕がなかなか消えないことはヴァスカのときで知っている。憎むべき相手につけられた痕だと思うと、そこに爪を立てて皮膚をえぐり取りたい衝動に駆られる。しかし血の流れる傷を増やすのは、奴に褒美を与えるようなものだ、となんとか思いとどまった。
気の済むまで肌をこすりあげたあと、ゆっくりとお湯に体を沈めた。熱がじんわりとレイナの肌に沁みこんでゆく。足首につながった鎖は、見ているだけで気分が悪くなる。それを見たくなくて目をつぶると途端に眠気に襲われ、レイナは湯につかったまま少しの間まどろんだ。
――パタン、と、何か物音がした気がして覚醒する。おそらく数分だけだが、気が緩んでいた。慌てて湯からあがって再びローブに袖を通す。胸の下の帯を締めたところで、洗面所に人影が現れた。
ゼデキアだった。
「ずいぶんリラックスしてくれてるみたいじゃないか、ん?」
レイナの肌は湯につかり上気し、おそらく美味そうな匂いが濃く立ち上っているのだろう。ゼデキアの紫紺の瞳がマタタビを与えられた猫のようにとろけている。危険を感じてさっと身を翻し逃げようとしたが、後ろから簡単に腰を掴まれ引き寄せられた。ローブの襟首を掴まれ、腰まで一気に引き下げられる。
「いやッ……!」
露わになった膨らみを、後ろから大きな手が覆う。レイナはあまりのことに固まってしまった。
「お前を見ていると、男としても、女のお前を満足させたくなってくる。……ヴァスカのやつは、お前を抱かなかったのか?」
なんて汚らしいことを聞くのだろう!
レイナは心底、この男を軽蔑した。同時に恐怖のあまり動けず、ただただゼデキアの手で肌を蹂躙されるがままになっていた。
「……そうか、あいつは意気地なしだなあ」
クツクツと笑ったかと思うと、突然、ゼデキアはレイナの肩に噛みついた。激痛に悲鳴を上げるが、ゼデキアの腕がしっかりとレイナの腰をとらえている。吸血するためだけでなく、ゼデキアは本当に、文字通りレイナを喰おうとしている。痛みと恐怖と混乱で、レイナはぼろぼろと涙を流した。
「お願い、放して……!」
すると、ゼデキアの口が少し離れた。しかし皮膚は浅く噛みちぎられていた。クチャクチャと、レイナの肉を咀嚼する音がする。座りこんで、噛まれた肩を抑える。激痛に声が漏れた。そんなレイナに、ゼデキアは悪びれる風もなく「すまないねえ」と笑った。
「つい、衝動が我慢できなかった。いや、殺すつもりはないから、これからは血だけで耐えるようにするよ」
泣き続けるレイナの背後に奴もしゃがみこんだ。そしてそっと、彼女の首を掴み、耳元で囁く。
「それか、特別に選ばせてやろう……今みたいに肉を喰いちぎられるか、頻度は高くても血を吸われるか。どっちがいい?」
この男は、卑劣だ。レイナ自身の口から、血を吸うことを認めさせるように仕向けている。怒りのままに、ゼデキアの顔面に向かって拳を突き出した。が、それはいとも簡単に彼の掌に包まれて、握りつぶされる。
レイナはしゃくりあげながら、叫んだ。
「私が、言わなくても、分かってるんでしょう!」
「うん? どういうことかな?」
ゼデキアはレイナの片手を手に取ると、小指を口に含み、そのまま喋りつづける。
「週に一回、指から一本ずつ頂いていくのがいいかなあ。でも、それだと足のも含めて20回しか楽しめないしなあ」
そう言って、ガリッと小指の付け根を噛む。
「あぁっ!」
ギリギリと小指の骨が鳴る。堪らず叫ぶしかなかった。
「分かったわ、もういいッ! 血を、あげるから!」
「……言ったな?」
ゼデキアはニヤリと笑い、泣きじゃくるレイナの顎を掴み上向かせた。ミントグリーンの瞳から、涙があふれて滑り落ちていく。なめらかな肌は、もう、ゼデキアのものだ。ゼデキアはレイナの首に歯を立てた。今朝つけられた痕の近く、頸動脈を探り当てて至宝の血を堪能する。その間レイナはじっと目をつぶって、最悪の男が再び去るのをじっと耐えて待つしかなかった。
こうして、それからと言うものゼデキアは時間が空くたびにレイナの許にやってきて、彼女の首から血を吸い続けた。レイナの首は、ゼデキアの噛み痕と鬱血のあとで傷だらけになった。ゼデキアは長い時間仮眠室で過ごすようになり、レイナの首の傷跡を恍惚とした表情で撫でながら、浅い眠りにつく。おそらくレイナを支配しているという証に酔っているのだろう。しかし、幸いにしてレイナを抱くことはなかった。「ヴァスカが見ている目の前で、お前を蹂躙してやるのが最後の楽しみだ」と言っているので、ゼデキアも、ヴァスカがこの王城にやってくるのを待っているのかもしれない。
レイナは、自我を壊さないように必死だった。時間の感覚も希薄になって、もう何年も囚われているかのような気がしていた。しかし実際は数日の間の話で。
――ヴァスカに会いたい。
その想いだけを頼りに、人形のように過ごすしかなかった――。




